機械の爆発する音が、
顔を上げると、ポラリスに殴られたノイマンが、煙と炎を上げて墜落する光景が飛び込んでくる。
地面に激突し、爆散。炎が死神を覆い隠すが、大鎌に浮かんだ15の文字ははっきりと確認できた。ハザードカウンター15。これで死神はレベルアップ可能。ローブの影が、煙の中から進み出てくる。
冷たい空気が、鍵玻璃の粘膜をヤスリがけした。
五年前、
もしかして、と思ってはいた。別の恐ろしい可能性と拮抗し、否定できずにいた推論が、たった今確信に変わる。彩亜はあの死神に消されたのだと。
彼女からもらったカードを奪われ、ようやく飲み込むに至って。訪れたのは、流砂に呑まれていくような、底なしの絶望。溺れそうになり、無我夢中で藻掻く感覚。
重い腕を持ち上げ、首を引っかく。
―――どうして、誰も
中学生になった
繰り返し見たMVも、エデンズ公式大会の記録も、正しい災害支援を促す広告も、何もない。誰に聞いても、彼女を知らない。
彼女の存在全てが、世界から丸ごと削り取られる。鍵玻璃はその異常事態の中で、たったひとり全てを覚えていた。
―――なんで私は、ずっと彩亜さんのことを覚えているの?
名前を言っても伝わらない。誰に何度聞いたって、知らないや初めて聞いたの一点張りが返ってくるだけ。
世界トップクラスのアイドル、エデンズブリンガー、慈善家としてあらゆる喧伝をされてきて、大勢の注目を集めて来たのに、知らないなんてことはない。
でもその広告や活動記録は、いくら探しても見つからないのだ。一夜にして何もかも、忽然と消え去った。
けれど鍵玻璃は、はっきりと記憶している。それはきっと、メリー・シャインをもらったからではないか、と。
今までずっと消せずに、抱え込んでいた。日々を悪夢に侵蝕されても、捨てれば楽になれるかもと思っても、手放せなかった。
あの人の暗い表情を、笑顔を、約束を忘れられなくて。自分まで忘れたらと思うと、あの人があまりに不憫に思えて。
なのに、この死神はメリー・シャインを奪っていった。
「返、して……」
鍵玻璃の全身から、トゲのような狂気が突き出す。砂地に拳を振り下ろし、金切声を叩きつける。
「返してよ……メリー・シャインを返しなさいよ!」
「奮戦レベル3。レベルアップボーナス獲得」
死神は砂地を焼く炎を大鎌で掬い上げる。炎は消えてカードに変わり、死神の手札に加わった。
抑えきれなくなった狂気が耳を塞いで、恐怖が視界を塗りつぶしていく。それをどこか他人事のように感じていると、鳩尾にドスッ、と強い衝撃が走った。
「あ゛……っ?」
大きなレギオンのシルエットが3つ、死神の周囲を囲んでいた。そのうち1体がデネブとポラリスを巨大な触手で飲み込み、吸収していく。
トゲに体を持ち上げられた鍵玻璃は、とっさに抵抗を試みた。しかし、2本目のトゲに額を射抜かれるとともに、体の感覚が狂い始めた。
全身を大量の虫が這い回るような
鍵玻璃は体中を掻き毟り、身悶えしながら悲鳴を上げた。
「嫌ぁぁぁっ! やめて、入ってこないで!」
すべての細胞が騒然とする。
体の奥深くまで暴かれ、形の無い何かを吸い上げられていく。
拷問じみた感覚に泣き叫んでいると、死神の鎌がバチッ、と銀色の火花を散らした。トゲが抜かれ、
うつ伏せに倒れ込んだ鍵玻璃は、長虫のように砂の上をのたうち回った。
「うあっ、あ、あああっ!」
変に軽くなった体が、喪失を訴えてくる。狂気を押しのけ、恐怖が沸き立つ。
全身に残った余韻を削ぎ落そうと体中を引っかく少女を余所に、死神は大鎌の刃を一瞥。
流水のように多くのデータが流れるそれに、銀の稲妻が微かにちらつく。謎めいた現象が消え去ると、死神は卵に向かって鎌を掲げた。
「ターン終了。“
卵の自転がぴたりと止まり、ひび割れる。殻の欠け落ちる音を聞いた鍵玻璃が顔を上げると、隙間から血のような赤黒い色がちらついた。
それは血を固めたような双眸。何かの目がカッと見開くとともに、ひび割れた隙間から赤黒い瘴気が噴き出した。
卵が内側から揺さぶられ、奇怪な鳴き声が周囲を震わす。
砂漠の砂が、嵐の海の如く波打ち、飛び跳ね、荒れ狂う。
瘴気の嵐は鎌の先へ収束すると、左右へ大きく広がった。全身を引き裂くような甲高い雄叫びが放たれた。
霞み、視野狭窄を起こした
「“
悪夢の砂漠を、耳障りな咆哮が力強く揺さぶった。
触手となった瘴気が伸びて、
宙に
悪夢に目覚めた孤独の夜より、なお深い闇。発狂し、もがき苦しんだ時期に引き戻されてしまったようだ。
振りほどきたいが、体に力が入らない。それどころか自分がどんどん薄れていくような気がする。狂った夢うつつの中に幻視するのは、あの人の笑顔と約束。
「あーや、さ……ぁ゛……っ!」
喪失に打ちひしがれる鍵玻璃を、幾本もの瘴気が貫く。
体に異様な感触が滑り込み、貫かれた場所から肉体が失われていく。
痛みはない。瘴気が胴体、そして手足から広がり、
溶けるような、細かく刻まれるような。解体されていく恐怖に、
「あ、ああああああああああああ―――――――っ!」
気持ち悪い。意識が体から切り離される感覚の中、他人事めいた感想が浮かぶ。
やがて、断末魔を放つ唇も、瘴気によって塞がれた。
歯が、舌が、分解されていく。もう嗚咽も上げられない。
一歩踏み出した死神は、足元に滑り込んだ瘴気に乗って浮かび上がる。
大鎌をゆっくり振りかぶって目指す先は、鍵玻璃を包み込んだ瘴気の
切っ先が繭に食い込む寸前で止められ、瘴気を追い払っていく。
死神は両手で鎌の柄をつかみ、振動し始める得物を抑え込もうとした。
しかし意に反して大鎌はその力と光をどんどん強めていき、周囲を真っ白に染め上げる。その輝きが臨界に達した瞬間、 衝撃が死神と瘴気をまとめて吹き飛ばした。
繭から解放され、落下しかかる鍵玻璃の体を、誰かが優しく抱きとめる。
薄目を開けた鍵玻璃は、眩しさに目を閉じてしまう。ほんの微かに見えたのは、銀色の髪だ。
―――だ……れ…………?
弱々しい
いつの間にか、奇妙な砂漠の風景も消え、夜の街路が戻ってきていた。そこに降り立ったのは、銀の髪をなびかせる少女のようなシルエット。
背中からアスファルトに叩きつけられた死神の頭上で、収束した赤黒い影が苦痛と屈辱の叫びを上げた。
輝く少女の影は鍵玻璃を足元に横たえて跳ぶ。
銀髪の少女は拳を握り、瘴気の触手をパンチやキックで破壊しながら、その胸を流星のように貫いた。
風穴を開けられ、爆散する影を背に着地。今度は死神へ回し蹴りを繰り出す。
死神は大鎌を振り回して反撃するも、少女は刃を掻い潜って懐に飛び込んできた。
光の拳が死神の腹に突き刺さる。空気が震え、ノイズと稲妻が迸る。
くの字に曲がったローブがノイズに覆われ、大鎌にでたらめな文字が駆け巡る。
銀髪の少女は死神を何度も何度も殴りつけ、裏拳で背後に吹き飛ばす。
バウンドする死神の手中で刃が火花を散らし、エラーメッセージを表示。
空中でなんとか体勢を立て直した死神は、石突を突き立てて勢いを削いだ。
全身に断続的なノイズを走らせるその姿から、大ダメージを受けたのは明白。
しかし銀の髪の少女は油断なく拳を構えて死神と対峙した。
ERROR、ERROR、ERROR。大鎌がアラートを響かせる。
死神は虚空を裂くと、黒い亀裂の中へと身を躍らせる。
隙間が閉じて静かになった。逃走を確かめた少女は構えを解いて、
鍵玻璃は気を失っていた。乱れた服は反吐へ汚れてひどい有様。呼吸も穏やかとは言えないが、生きている。
少女の影は肩の緊張を緩めると、手に光の球を作って鍵玻璃の胸に押し入れる。
すると鍵玻璃は眉をしかめて、苦しそうに首を振った。
「う……っ!」
弱々しい、本能的な拒絶の反応。しかし光の球は吸い込まれ、
鍵玻璃が薄く目を開く。光を失った瞳で輝く少女を捉えると、震える手を伸ばそうとする。
朦朧とした彼女には、何が見えているのかもわからない。
感じるのは不思議な温もり。そして、小さく揺れる銀の髪。
懐かしい。ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。この暖かさに、覚えがあった。
「あ……や、さん……?」
枯れた声でそれだけ言うと、今度こそ意識を失った。
残されたのは、街頭に照らし出された鍵玻璃のみ。
それから昏々と眠る彼女が発見されるまで、十五分ほど時間を要した。