目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第12話 流星喪失/鍵玻璃と最後の流れ星

 五年前。小学五年生の鍵玻璃きはりは、道に迷っていた。


 ひとりぼっちで、どこだかわからない場所をひとりで歩く。


 父からのコールが鳴りやまない。今すぐ出るべきだ。しかし少し口を開けば、泣き出してしまうのは確実だった。


 ―――だめだめ、あたしはお姉ちゃんなんだから。


 泣き声を聞かれたくない一心で、コールを無視。


 加えて、そのうち誰かに会えるかもという期待が、足を動かす。


 しかし結局、事態の打開は叶わない上、さらに迷う悪循環。


 戻るべきか進むべきか、それさえもわからなくなってしまっていた。


 ―――どうしよう、もうすぐライブ始まっちゃう。


 ―――カナもお父さんも心配してる。このままだとがっかりさせちゃう。


 ―――せっかく彩亜あーやさんのライブに来たのに。


 目尻を赤くしながら、鍵玻璃は両手でタブレット型のD・AR・Tダアトを見下ろす。


 映っているのはフライヤー。神秘的な銀のロングヘアーに、星型のカットアウトを散りばめたアイドル衣装を纏った女性が大きく映し出されている。


 “求文女しふめ彩亜あーやワンマンツアーライブ スターリィ・ハッジ”。


 それが今日、訪れたイベントだった。


 トップアイドル、求文女しふめ彩亜あーや。作詞作曲、ダンスの振り付けまで自分でこなすやり手であり、エデンズ世界大会で三連覇を記録した覇者。


 類まれなる行動力から、あらゆる面で注目を集める彼女は、鍵玻璃が最も憧れた人。待ちに待ったそのイベントで、こんなことになるなんて。


「ひぐっ、うぅ……っ!」


 頬が目元のあたりで硬く強張る。


 始めは、解恵かなえにサプライズをしようと思っただけだった。しかし訪れた物販ブースはどこも完売。どうしようかとひとり思いを巡らせたところ、鍵玻璃はあるアイデアを思いつく。求文女しふめ彩亜あーやに直接サインをもらってこよう、と。その結果がこれである。


 鍵玻璃は立ち止まり、D・AR・Tダアトを握って涙をこぼした。


「う、うぅぅ……っ、うぇぇぇぇぇ……」


 顎を伝った滴がD・AR・Tダアトに落ちる。泣いちゃだめ、と言い聞かせても、視界が霞んでいくのを止められない。


 手の甲でいくら拭っても、後から後から湧き出してくる。いよいよ恥も外聞もなく、大声で泣きだしてしまうというところで、鍵玻璃きはりの耳に誰かのすすり泣きが聞こえて来た。


「ぐすっ。……?」


 道の先に、誰かいる。廊下の端にうずくまり、膝を抱えて泣いている。


 自分と同じ迷子だろうか。そう思って涙を払うと、嗚咽が喉に引っ込んだ。


 その人が、あまりに見慣れた姿をしていたからだ。


 星のカットアウトが散りばめられた、白いのキャミソール型のトップス。


 朝焼けの水平線を思わせる、短い青のプリーツスカート。


 神秘的なシルバーホワイトのロングヘアには、編み込みと精緻な星の髪飾り。


 そこにいたのは、求文女しふめ彩亜あーやその人だった。


 まさかここで、憧れの人に会えるだなんて。けれど、はしゃぐ気分にはなれない。


 膝を抱えた彼女の姿が、泣いている妹と重なったから。


 鍵玻璃きはりはややためらってから、そっと彩亜の傍に近づく。


 彼女は気づいていないのか、ぼろぼろと涙を流してすすり泣いていた。


「……どうしたんですか?」


 彩亜あーやが弾かれたように顔を上げ、鍵玻璃きはりはギクッとした。


 彼女と目が合う。彩亜はとても驚いていたが、すぐに赤いまなじりをぬぐうと、誤魔化し笑いを浮かべて立ち上がった。


「な、なんでもない! 泣いてなんかいないから!」


「でも……」


「泣いてないったら!」


 洟を鳴らす彩亜あーや鍵玻璃きはりが押し黙っていると、彼女は壁に向かって深呼吸をした。目元を強くこすり、振り返った時には穏やかな笑顔を浮かべている。


「こほん。えーっと、あなた、どうしたの? ここは関係者以外立ち入り禁止よ?」


 それを聞いて、鍵玻璃きはりは答えに窮する。


 サインが欲しさに迷子になってしまったなんて、言いたくなかった。


 彩亜あーやは屈んで目線を合わせ、頭を優しく撫でてくれる。


 怒られるかと思っていた鍵玻璃は、上目遣いで彩亜を見つめた。


「さては、迷子になっちゃったんでしょ。誰かと一緒に来たの? お父さんとか、お母さんとか」


「お父さんと、妹……。でも、わかんない……はぐれちゃって……」


「そうなんだ。ありがとう、来てくれて嬉しい。でも、立ち入り禁止は破っちゃだめだぞ?」


 つんと眉間を突かれて、顔が赤くなってしまう。


 細くて白くて、けれど自分よりも大きな手。ずっと憧れていた人に優しくあやされ注意される感触は、嬉しいけれど、恥ずかしい。


 鍵玻璃きはりはまごつきながら、口を開く。


 サインをください。どっちに行けばいいですか。言いたいことは色々あったが、突いて出たのはまるで別の言葉であった。


「どうして……泣いてたんですか?」


「えっ!? な、泣いてないったら! ほら、笑顔!」


 彩亜あーやは慌てふためきながら、指で口角を上げ、笑って見せる。


 それは確かに、画面越しにずっと見て来た表情とよく似ていたが、決定的に違うと感じた。きゅっと胸が締め付けられる。触れてはいけない気がしたが、触れずにはいられなかった。


 彩亜あーやはどんな時でも笑顔だ。ライブ中でも、広告の中でも、エデンズで戦っている時も。被災地で、ボランティアをしている時も。そんな人が、ひとり隠れて泣いていたのだから。


「うそ。彩亜あーやさん、絶対泣いてた」


「…………」


 アイドルの笑顔が凍てついた。


 彩亜は数秒固まった末、溜め息を吐いて両手を落とす。首を振り、天井を見上げる顔には苦い笑み。


「あっはは……はぁ。やっぱりダメだなあ、私。年下の子に見破られたんじゃ、ファンの人たちにも申し訳が立たないや」


「ご、ごめんなさい……」


「ううん、いいの。悪いのは私の方だから。あなた、お名前は?」


肌理咲きめざき鍵玻璃きはり……」


「鍵玻璃ちゃんか。きーはーり、きはりっと」


 呼び出したディスプレイに何かを打ち込んで消す。そしてその手を鍵玻璃きはりに向けて差し出してきた。


「お父さんと妹さんには、先に席で待っているように放送かけてもらったよ。席、近いんだよね?」


「はい。三人一緒で」


「それならよかった。じゃあ、スタッフさんに拾ってもらえるところまで一緒に行こっか。ライブもちゃんと見られるよ」


「ほんと!?」


 鍵玻璃きはりの顔が、明るくなった。


 憧れの人と一緒に歩ける。グッズを買えない落胆も、迷子になった寂しさも、それで全て消し飛んだ。


 彩亜あーやの差し出してきた手を握り、ともに歩き始める。


 柔らかくて、暖かい。宙を泳ぎ、ファンに向かって差し出される手を、今は独り占めできている。歓喜が体を軽くした。


 歩幅を合わせつつも、スキップをしそうな足取りの鍵玻璃を横目に、彩亜は他愛もない話題を切り出す。


「今回のツアーライブ、来たのは初めて?」


「はい! お父さんがチケット取ってくれて、一緒に行こうって。ずっとライブ見に行きたかったんですけど、いつも売り切れちゃってて……」


「そっかぁ。じゃ、私も張り切らないとね」


 どこか感慨深そうに呟く彩亜あーやを見上げ、鍵玻璃きはりは熱弁を振るう。


「あの、彩亜あーやさんの曲、大好きです! いっつも妹と一緒に踊ってて」


「妹さんと仲良いんだ。歳は同じなの?」


「双子です。でも、見た目ぐらいしか似てなくて。あの子、いっつも泣いてるし、そのせいでいじめられてるし……」


「いっ、いじめられてるの!?」


 彩亜あーやが驚き、何故か自分が傷ついたような顔をする。


 鍵玻璃きはりは慌てて取り繕った。


「あ、でも、今は違いますよ! 彩亜さんの曲を歌ってあげてたら、だんだん明るくなって、友達も作れるようになって……今では家で一緒に踊ったりしてるんですよ。えへへ、彩亜さんのおかげです!」


「……私のおかげ、か」


 やや沈んだ声音にまばたきをする。


 彩亜あーやは天井を仰いで、どこか落ち込んだような雰囲気を醸し出していた。


 何か、嫌なことを言ってしまったのだろうか。失敗に失敗を重ねて焦り、ぐるぐると思考を回して話題を探す。


「えーっと……あっ、あたし、エデンズやってる彩亜あーやさんも好きなんです! 強くて、かっこよくて……前のラグナロクで出してたカードもすごい綺麗で……」


「ふふ、そっか。いっぱい見てくれてるんだね。鍵玻璃きはりちゃんもブリンガー?」


「えへへ……はい」


 良かった、声色が元に戻った。


 胸を撫で下ろしてから、ふと思う。なんで泣いていたのか、まだ聞いていない。


 あるインタビューで彩亜あーやは言った。


“目を合わせて微笑むと、誰でも元気になれるから。私はいつも、カメラに向かって笑うんです。私自身も含めて、みんなに笑ってほしいから”


 そんな彼女が、どうしてあんなに落ち込んでいたのだろう。


 なんで、泣いていたのだろう。


 内心首を傾げていると、今度は彩亜から話題を出してきた。


鍵玻璃きはりちゃんはさ、エデンズ好き?」


「あ、はい! 楽しいし、きらきらできるし!」


「きらきらか。エデンはどんな感じなの?」


「実は……彩亜あーやさんみたいな感じなんです。えへへ」


「私?」


 きょとんと聞き返されて、ついつい顔を背けてしまった。


 対戦しているとよく言われるのだ。鍵玻璃のエデンは求文女しふめ彩亜あーやそのものだ、と。


 煌びやかな星のステージ、銀色に染まる髪、美しい衣装。初めてエデンが完成した時、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。自分が憧れの人みたいになれるだなんて。


 浮かれて戦い続けるうちに、気付けば誰より強くなってしまっていた。


 でもそんなことを本人に打ち明けるのは、照れくさい。


 頬を染める鍵玻璃は、一瞬、彩亜の瞳に陰りが走ったことに気付かなかった。


 彩亜あーやはどこか遠くを見つめるような顔をして、呟く。


「私みたいに……か」


 その声色が気になった。


 上手く言えないが、寂しそうで、それでいて謝られているかのような。


 鍵玻璃きはりを見る目は笑っていたが、なんだか変だ。


 だんだんと、声の調子が下がり始める。次の問いは、彼女らしからぬネガティブなものだった。


「その、さ。私以外に、好きな人とかいないの? かっこいいなとか、可愛いなとか思う人。アイドルもブリンガーも、私以外にたくさんいるし……」


「え……っ」


 まったく予想だにしない言葉に、鍵玻璃きはりは目を丸くする。


 どうしてそんなことを聞くんだろう。


 アイドル兼エデンズブリンガーは数多いる。が、求文女しふめ彩亜あーやはその頂点。唯一無二のチャンピオン。鍵玻璃にとってはこの世で最も好きな人。代わりなんて、いるはずもない。


 代わりなんて、欲しくない。何より、彩亜本人にそんなことを言ってほしくない。


 鍵玻璃は強く彩亜の手を握りしめ、大きな声を張り上げた。


「いませんっ! あたしの好きな人は、彩亜あーやさんだけです! 彩亜あーやさんみたいに、強くて優しくて、きらきらした人になりたいんです!」


 立ち止まり、真っ直ぐに目と目を合わせる。


 彩亜あーやは立ち止まって、鍵玻璃きはりを見つめると、くしゃっと顔を歪めてしまった。


 口元を押さえ、目を潤ませる。またその顔だ、と鍵玻璃は思った。


 折に触れて覗く表情。どうして笑ってくれないのだろう。泣いている解恵かなえよりも悲しそうに見えてしまって、胸元をぎゅっと握りしめる。


 誰かにいじめられたのだろうか。それとも、嫌なことがあったのだろうか。


 そういえば、前に彩亜宛てに殺人予告が届いたというニュースをみかけたことがある。一緒に見ていた父親の、こういう救いようのない馬鹿者がいるから、アイドルも楽ではないんだという呟きとセットで記憶していた。


 ―――もしかして、それが嫌で引退したがってる、とか……?


 ―――だめ……そんなの絶対にだめ!


 ピン、と灯った幼い閃きと、それを拒絶する気持ちが湧いた。


 だって、彩亜あーや鍵玻璃きはりの憧れで、誰よりもすごい人なのだ。彼女の歌を歌ってあげれば、泣いてる解恵かなえもすぐに泣き止む。


 どんなに辛い状況に置かれた人でも、彼女は笑顔にしてしまう。


 どこにでも行って、誰かのために尽力できる。そんなきらきらした姿に憧れた。


 そんな彼女が失われるのは嫌だった。鍵玻璃の夢も消えてしまうから。


 意を決し、彩亜の手を引く。


 無言の要求を汲んで屈んだ彼女に、思い切って抱き着いた。


 妹にそうしてやるように、優しく頭を撫でてやる。


 彩亜は目を見開いて、体を固くした。


「お願いです、やめないでください……! あたし、彩亜あーやさんのことが大好きで……目標、なんです。それにきっと、みんな彩亜さんのことが好きだし、いなくなったら悲しくなります。だから……」


「……目標。いなくなったら悲しい……」


 彩亜あーやは呆けたように繰り返す。鍵玻璃きはりは強く頷いた。


「だからいなくならないで! 彩亜さんをいじめる人がいるなら、あたしがやっつけますから! あたしが……だから……!」


 彩亜は無言で、鍵玻璃の背中を抱き返す。


 少女の頭を撫で返し、くすんだ涙声で小さく囁く。


「ううん、違うの……私だって、やめたいわけじゃない。でも、行かなくちゃいけないところがあるから」


「それって……」


「人には言えない、遠いところ。そこに行ったら、私はアイドルじゃいられなくなるんだ。それにね」


 滑り込んだ指先が、鍵玻璃きはりの橙色の髪をかき分ける。


 鍵玻璃は憧れの人に顔を寄せ、一言一句聞き逃すまいと耳をそばだてた。


「誰も、悲しんだりはしないよ。だって、みんな私のこと忘れちゃうからさ。鍵玻璃きはりちゃんも、きっと新しく好きな人ができるはずだから。大丈夫だよ」


「……いやです」


 鍵玻璃きはり彩亜あーやの肩に頬を埋め、首を振る。


 彼女の言っていることを、完璧には理解できない。


 何か深い理由があるのかもしれない。それでも、嫌だ。


 子供っぽくても、目に焼き付いた憧れの人が、自分をそんな風に言うなんて。


 口元をきゅっと引き締め、力強くしがみつく。彩亜は目を閉じ、鍵玻璃の背中をさらさらと撫でた。


「ふふ。鍵玻璃きはりちゃんは、小っちゃいなあ」


「すぐ……大きくなるもん」


 そうしたら、彩亜あーやと並んで踊りたい。エデンズで、真正面から対決したい。それが鍵玻璃きはりの、将来の夢。


 ―――だから、やめたりなんかしないで。ずっと一番星でいて。


 切なる願いを込めて、目元を押し付ける。彩亜はしっかりと鍵玻璃を抱くと、体を離した。


 再びディスプレイを呼び出し、いくつか操作をすると、鍵玻璃きはりD・AR・Tダアトに通知が届く。


 また父からのコールだろうか。そう思って画面を見た瞬間、目玉が飛び出しそうな衝撃を受けた。


 通知の送り主はエデンズだ。内容は、“求文女しふめ彩亜あーやさんから、カードが届きました”。


 急いでエデンズを開いて確認すると、新たなカードが映し出される。


 “救世きゅうせい女傑スターメリー・シャイン”。


 銀髪と宇宙服を思わせるアイドル衣装が特徴の少女。


 鍵玻璃は絶句し、彩亜を見上げた。


「こ、こ、こ、これ……っ! 前のラグナロクの時の……!」


 口をぱくぱくさせる鍵玻璃きはりに対し、彩亜あーやは人差し指を立てる。


 その笑顔はまだ影があったが、心残りが解消されたような爽やかさがあった。


「口止め料。私が泣いてたってこと、みんなには内緒だよ。ふたりだけの秘密」


「え? でも……」


 鍵玻璃きはりは困惑してD・AR・Tダアトを二度見した。


 エデンズフォーム・ディザスターズ世界大会“ラグナロク”。そこで、彩亜あーやが鉄壁の女傑シェーンハイトを下した新たな切り札。それをもらうのは、流石に申し訳ない。


 戸惑い、まごつく鍵玻璃から一歩離れた彩亜はパチッ、とウィンクをした。


「もし、もらえないって思ったんなら……いつか、私に返しに来てよ」


「返しに……?」


「うん、鍵玻璃きはりちゃんが私より強くなったらね。約束! 覚えててくれる?」


 彩亜あーやは小指を立てて差し出してくる。


 約束。憧れの人に会いに行く。その人のカードを持って。


 鍵玻璃はD・AR・Tダアトを握っていた手を離し、指切りをする。


「いつか絶対、会いに行きます。そしたら、一緒に歌って踊って……エデンズの対戦もしたいです!」


「うん、待ってる。妹ちゃんも紹介してほしいな」


「はい!」


 指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます。


 指を切って、ふたりが離れる。彩亜あーやは数歩下がって、手を振った。


「それじゃあ私はもう行かないと。もうすぐスタッフさんが案内しに来てくれるから、ここで待ってて。ツアーライブ最後の日、楽しんで行ってね」


 そう言って、彼女はまた歩き出す。


 遠ざかる背中を、鍵玻璃きはりはいつまでも見送っていた。


 憧れの人と出会って、喋って、カードまでもらえた。夢のような時間。


 涙が溢れそうになる。


 寂しさではなく、感激から来る涙。たちまち滲む視界の中に、あの人の後ろ姿が消えていく。


 それから三分と経たず、スタッフが駆け足でやって来る。連れられて席へ赴くと、怒った父とぐずる解恵かなえに出迎えられた。


 謝りつつ、サインをもらい忘れたことに気付くと同時、会場の明かりが落ちる。


 観客の声が静まっていく。まるで潮が引くように。


 昏くなった会場で、点々と灯るサイリウム。客席を埋め尽くる光は星空のよう。


 そして、月のような輝きが広がった。その中央に立つのは当然、求文女しふめ彩亜あーやだ。


 光るステージの中にあってなお、輝く衣装を身に纏い、彼女が華麗に舞い踊る。


 ステップは軽快で、彼女の表情は満面の笑み。先ほど垣間見えた暗い感情は、微塵も感じられない。


 いつも披露しているアイドルの姿。他の客たちは声を張り上げ、メロディに導かれている。誰も彼も、すっかり彩亜の虜であった。


 声を枯らして応援しながら、鍵玻璃きはりは胸を撫で下ろす。


 ―――誰も信じてくれないんだろうな。さっきまで泣いてたなんて。


 ―――彩亜あーやさん、良かった。


 鍵玻璃きはりは他の客と同じようにサイリウムを振る。


 つい先刻まで隣を歩き、色んな話をした鍵玻璃。それも今は、大勢いる客のひとりだ。彩亜にとっては見分けのつかない、星の一粒。


 それでも一瞬、目が合った。確かにウィンクをしてくれた。


 今はそれでも構わない。だけどいつか、必ずまた会いに行く。


「お父さん、抱っこして!」


「あ、あたしも!」


 解恵かなえと一緒に抱き上げられた鍵玻璃きはりは腕を伸ばした。


 少しでも彼女から見えるようにと。首から下げた、タブレット型のD・AR・Tダアトが揺れる。


 より強くなった憧れと夢に誓って、サイリウムを突き上げる。


 ステージ脇に用意されたモニターが、ウィンクする彩亜の顔をアップで映した。


 まるで自分に向けられたみたいで心が弾む。


 ―――あたし、絶対忘れません。約束したから!


 しかし、それから二週間後、彩亜あーやは消えた。


 鍵玻璃きはり以外の、すべての人の記憶から。


 存在した証は皆無。写真も、曲も、配信データも、名前すらも見つからない。


 残ったものはただひとつ。“救世女傑メリー・シャイン”。


 同時に毎夜襲い掛かってくるようになった死神の夢。


 何が何だかわからなかったが、ひとつだけ理解したのは、彩亜が口にしていた“これまでのこと全部が無くなる”という言葉の真意。


 必死になって調べ回った。人を訪ねた。行ける限り足を運んだ。それでも何ひとつ見つからず、それどころか何ひとつとして積み上げられない。


 夏は過ぎ、やがて恐怖と狂気が心を蝕む。


 そして解恵かなえを二階から突き落としたことを期に、鍵玻璃の心は決定的に破綻した。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?