五年前。小学五年生の
ひとりぼっちで、どこだかわからない場所をひとりで歩く。
父からのコールが鳴りやまない。今すぐ出るべきだ。しかし少し口を開けば、泣き出してしまうのは確実だった。
―――だめだめ、あたしはお姉ちゃんなんだから。
泣き声を聞かれたくない一心で、コールを無視。
加えて、そのうち誰かに会えるかもという期待が、足を動かす。
しかし結局、事態の打開は叶わない上、さらに迷う悪循環。
戻るべきか進むべきか、それさえもわからなくなってしまっていた。
―――どうしよう、もうすぐライブ始まっちゃう。
―――カナもお父さんも心配してる。このままだとがっかりさせちゃう。
―――せっかく
目尻を赤くしながら、鍵玻璃は両手でタブレット型の
映っているのはフライヤー。神秘的な銀のロングヘアーに、星型のカットアウトを散りばめたアイドル衣装を纏った女性が大きく映し出されている。
“
それが今日、訪れたイベントだった。
トップアイドル、
類まれなる行動力から、あらゆる面で注目を集める彼女は、鍵玻璃が最も憧れた人。待ちに待ったそのイベントで、こんなことになるなんて。
「ひぐっ、うぅ……っ!」
頬が目元のあたりで硬く強張る。
始めは、
鍵玻璃は立ち止まり、
「う、うぅぅ……っ、うぇぇぇぇぇ……」
顎を伝った滴が
手の甲でいくら拭っても、後から後から湧き出してくる。いよいよ恥も外聞もなく、大声で泣きだしてしまうというところで、
「ぐすっ。……?」
道の先に、誰かいる。廊下の端に
自分と同じ迷子だろうか。そう思って涙を払うと、嗚咽が喉に引っ込んだ。
その人が、あまりに見慣れた姿をしていたからだ。
星のカットアウトが散りばめられた、白いのキャミソール型のトップス。
朝焼けの水平線を思わせる、短い青のプリーツスカート。
神秘的なシルバーホワイトのロングヘアには、編み込みと精緻な星の髪飾り。
そこにいたのは、
まさかここで、憧れの人に会えるだなんて。けれど、はしゃぐ気分にはなれない。
膝を抱えた彼女の姿が、泣いている妹と重なったから。
彼女は気づいていないのか、ぼろぼろと涙を流してすすり泣いていた。
「……どうしたんですか?」
彼女と目が合う。彩亜はとても驚いていたが、すぐに赤い
「な、なんでもない! 泣いてなんかいないから!」
「でも……」
「泣いてないったら!」
洟を鳴らす
「こほん。えーっと、あなた、どうしたの? ここは関係者以外立ち入り禁止よ?」
それを聞いて、
サインが欲しさに迷子になってしまったなんて、言いたくなかった。
怒られるかと思っていた鍵玻璃は、上目遣いで彩亜を見つめた。
「さては、迷子になっちゃったんでしょ。誰かと一緒に来たの? お父さんとか、お母さんとか」
「お父さんと、妹……。でも、わかんない……はぐれちゃって……」
「そうなんだ。ありがとう、来てくれて嬉しい。でも、立ち入り禁止は破っちゃだめだぞ?」
つんと眉間を突かれて、顔が赤くなってしまう。
細くて白くて、けれど自分よりも大きな手。ずっと憧れていた人に優しくあやされ注意される感触は、嬉しいけれど、恥ずかしい。
サインをください。どっちに行けばいいですか。言いたいことは色々あったが、突いて出たのはまるで別の言葉であった。
「どうして……泣いてたんですか?」
「えっ!? な、泣いてないったら! ほら、笑顔!」
それは確かに、画面越しにずっと見て来た表情とよく似ていたが、決定的に違うと感じた。きゅっと胸が締め付けられる。触れてはいけない気がしたが、触れずにはいられなかった。
「うそ。
「…………」
アイドルの笑顔が凍てついた。
彩亜は数秒固まった末、溜め息を吐いて両手を落とす。首を振り、天井を見上げる顔には苦い笑み。
「あっはは……はぁ。やっぱりダメだなあ、私。年下の子に見破られたんじゃ、ファンの人たちにも申し訳が立たないや」
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、いいの。悪いのは私の方だから。あなた、お名前は?」
「
「鍵玻璃ちゃんか。きーはーり、きはりっと」
呼び出したディスプレイに何かを打ち込んで消す。そしてその手を
「お父さんと妹さんには、先に席で待っているように放送かけてもらったよ。席、近いんだよね?」
「はい。三人一緒で」
「それならよかった。じゃあ、スタッフさんに拾ってもらえるところまで一緒に行こっか。ライブもちゃんと見られるよ」
「ほんと!?」
憧れの人と一緒に歩ける。グッズを買えない落胆も、迷子になった寂しさも、それで全て消し飛んだ。
柔らかくて、暖かい。宙を泳ぎ、ファンに向かって差し出される手を、今は独り占めできている。歓喜が体を軽くした。
歩幅を合わせつつも、スキップをしそうな足取りの鍵玻璃を横目に、彩亜は他愛もない話題を切り出す。
「今回のツアーライブ、来たのは初めて?」
「はい! お父さんがチケット取ってくれて、一緒に行こうって。ずっとライブ見に行きたかったんですけど、いつも売り切れちゃってて……」
「そっかぁ。じゃ、私も張り切らないとね」
どこか感慨深そうに呟く
「あの、
「妹さんと仲良いんだ。歳は同じなの?」
「双子です。でも、見た目ぐらいしか似てなくて。あの子、いっつも泣いてるし、そのせいでいじめられてるし……」
「いっ、いじめられてるの!?」
「あ、でも、今は違いますよ! 彩亜さんの曲を歌ってあげてたら、だんだん明るくなって、友達も作れるようになって……今では家で一緒に踊ったりしてるんですよ。えへへ、彩亜さんのおかげです!」
「……私のおかげ、か」
やや沈んだ声音にまばたきをする。
何か、嫌なことを言ってしまったのだろうか。失敗に失敗を重ねて焦り、ぐるぐると思考を回して話題を探す。
「えーっと……あっ、あたし、エデンズやってる
「ふふ、そっか。いっぱい見てくれてるんだね。
「えへへ……はい」
良かった、声色が元に戻った。
胸を撫で下ろしてから、ふと思う。なんで泣いていたのか、まだ聞いていない。
あるインタビューで
“目を合わせて微笑むと、誰でも元気になれるから。私はいつも、カメラに向かって笑うんです。私自身も含めて、みんなに笑ってほしいから”
そんな彼女が、どうしてあんなに落ち込んでいたのだろう。
なんで、泣いていたのだろう。
内心首を傾げていると、今度は彩亜から話題を出してきた。
「
「あ、はい! 楽しいし、きらきらできるし!」
「きらきらか。エデンはどんな感じなの?」
「実は……
「私?」
きょとんと聞き返されて、ついつい顔を背けてしまった。
対戦しているとよく言われるのだ。鍵玻璃のエデンは
煌びやかな星のステージ、銀色に染まる髪、美しい衣装。初めてエデンが完成した時、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。自分が憧れの人みたいになれるだなんて。
浮かれて戦い続けるうちに、気付けば誰より強くなってしまっていた。
でもそんなことを本人に打ち明けるのは、照れくさい。
頬を染める鍵玻璃は、一瞬、彩亜の瞳に陰りが走ったことに気付かなかった。
「私みたいに……か」
その声色が気になった。
上手く言えないが、寂しそうで、それでいて謝られているかのような。
だんだんと、声の調子が下がり始める。次の問いは、彼女らしからぬネガティブなものだった。
「その、さ。私以外に、好きな人とかいないの? かっこいいなとか、可愛いなとか思う人。アイドルもブリンガーも、私以外にたくさんいるし……」
「え……っ」
まったく予想だにしない言葉に、
どうしてそんなことを聞くんだろう。
アイドル兼エデンズブリンガーは数多いる。が、
代わりなんて、欲しくない。何より、彩亜本人にそんなことを言ってほしくない。
鍵玻璃は強く彩亜の手を握りしめ、大きな声を張り上げた。
「いませんっ! あたしの好きな人は、
立ち止まり、真っ直ぐに目と目を合わせる。
口元を押さえ、目を潤ませる。またその顔だ、と鍵玻璃は思った。
折に触れて覗く表情。どうして笑ってくれないのだろう。泣いている
誰かにいじめられたのだろうか。それとも、嫌なことがあったのだろうか。
そういえば、前に彩亜宛てに殺人予告が届いたというニュースをみかけたことがある。一緒に見ていた父親の、こういう救いようのない馬鹿者がいるから、アイドルも楽ではないんだという呟きとセットで記憶していた。
―――もしかして、それが嫌で引退したがってる、とか……?
―――だめ……そんなの絶対にだめ!
ピン、と灯った幼い閃きと、それを拒絶する気持ちが湧いた。
だって、
どんなに辛い状況に置かれた人でも、彼女は笑顔にしてしまう。
どこにでも行って、誰かのために尽力できる。そんなきらきらした姿に憧れた。
そんな彼女が失われるのは嫌だった。鍵玻璃の夢も消えてしまうから。
意を決し、彩亜の手を引く。
無言の要求を汲んで屈んだ彼女に、思い切って抱き着いた。
妹にそうしてやるように、優しく頭を撫でてやる。
彩亜は目を見開いて、体を固くした。
「お願いです、やめないでください……! あたし、
「……目標。いなくなったら悲しい……」
「だからいなくならないで! 彩亜さんをいじめる人がいるなら、あたしがやっつけますから! あたしが……だから……!」
彩亜は無言で、鍵玻璃の背中を抱き返す。
少女の頭を撫で返し、くすんだ涙声で小さく囁く。
「ううん、違うの……私だって、やめたいわけじゃない。でも、行かなくちゃいけないところがあるから」
「それって……」
「人には言えない、遠いところ。そこに行ったら、私はアイドルじゃいられなくなるんだ。それにね」
滑り込んだ指先が、
鍵玻璃は憧れの人に顔を寄せ、一言一句聞き逃すまいと耳をそばだてた。
「誰も、悲しんだりはしないよ。だって、みんな私のこと忘れちゃうからさ。
「……いやです」
彼女の言っていることを、完璧には理解できない。
何か深い理由があるのかもしれない。それでも、嫌だ。
子供っぽくても、目に焼き付いた憧れの人が、自分をそんな風に言うなんて。
口元をきゅっと引き締め、力強くしがみつく。彩亜は目を閉じ、鍵玻璃の背中をさらさらと撫でた。
「ふふ。
「すぐ……大きくなるもん」
そうしたら、
―――だから、やめたりなんかしないで。ずっと一番星でいて。
切なる願いを込めて、目元を押し付ける。彩亜はしっかりと鍵玻璃を抱くと、体を離した。
再びディスプレイを呼び出し、いくつか操作をすると、
また父からのコールだろうか。そう思って画面を見た瞬間、目玉が飛び出しそうな衝撃を受けた。
通知の送り主はエデンズだ。内容は、“
急いでエデンズを開いて確認すると、新たなカードが映し出される。
“
銀髪と宇宙服を思わせるアイドル衣装が特徴の少女。
鍵玻璃は絶句し、彩亜を見上げた。
「こ、こ、こ、これ……っ! 前のラグナロクの時の……!」
口をぱくぱくさせる
その笑顔はまだ影があったが、心残りが解消されたような爽やかさがあった。
「口止め料。私が泣いてたってこと、みんなには内緒だよ。ふたりだけの秘密」
「え? でも……」
エデンズフォーム・ディザスターズ世界大会“ラグナロク”。そこで、
戸惑い、まごつく鍵玻璃から一歩離れた彩亜はパチッ、とウィンクをした。
「もし、もらえないって思ったんなら……いつか、私に返しに来てよ」
「返しに……?」
「うん、
約束。憧れの人に会いに行く。その人のカードを持って。
鍵玻璃は
「いつか絶対、会いに行きます。そしたら、一緒に歌って踊って……エデンズの対戦もしたいです!」
「うん、待ってる。妹ちゃんも紹介してほしいな」
「はい!」
指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます。
指を切って、ふたりが離れる。
「それじゃあ私はもう行かないと。もうすぐスタッフさんが案内しに来てくれるから、ここで待ってて。ツアーライブ最後の日、楽しんで行ってね」
そう言って、彼女はまた歩き出す。
遠ざかる背中を、
憧れの人と出会って、喋って、カードまでもらえた。夢のような時間。
涙が溢れそうになる。
寂しさではなく、感激から来る涙。たちまち滲む視界の中に、あの人の後ろ姿が消えていく。
それから三分と経たず、スタッフが駆け足でやって来る。連れられて席へ赴くと、怒った父とぐずる
謝りつつ、サインをもらい忘れたことに気付くと同時、会場の明かりが落ちる。
観客の声が静まっていく。まるで潮が引くように。
昏くなった会場で、点々と灯るサイリウム。客席を埋め尽くる光は星空のよう。
そして、月のような輝きが広がった。その中央に立つのは当然、
光るステージの中にあってなお、輝く衣装を身に纏い、彼女が華麗に舞い踊る。
ステップは軽快で、彼女の表情は満面の笑み。先ほど垣間見えた暗い感情は、微塵も感じられない。
いつも披露しているアイドルの姿。他の客たちは声を張り上げ、メロディに導かれている。誰も彼も、すっかり彩亜の虜であった。
声を枯らして応援しながら、
―――誰も信じてくれないんだろうな。さっきまで泣いてたなんて。
―――
つい先刻まで隣を歩き、色んな話をした鍵玻璃。それも今は、大勢いる客のひとりだ。彩亜にとっては見分けのつかない、星の一粒。
それでも一瞬、目が合った。確かにウィンクをしてくれた。
今はそれでも構わない。だけどいつか、必ずまた会いに行く。
「お父さん、抱っこして!」
「あ、あたしも!」
少しでも彼女から見えるようにと。首から下げた、タブレット型の
より強くなった憧れと夢に誓って、サイリウムを突き上げる。
ステージ脇に用意されたモニターが、ウィンクする彩亜の顔をアップで映した。
まるで自分に向けられたみたいで心が弾む。
―――あたし、絶対忘れません。約束したから!
しかし、それから二週間後、
存在した証は皆無。写真も、曲も、配信データも、名前すらも見つからない。
残ったものはただひとつ。“救世女傑メリー・シャイン”。
同時に毎夜襲い掛かってくるようになった死神の夢。
何が何だかわからなかったが、ひとつだけ理解したのは、彩亜が口にしていた“これまでのこと全部が無くなる”という言葉の真意。
必死になって調べ回った。人を訪ねた。行ける限り足を運んだ。それでも何ひとつ見つからず、それどころか何ひとつとして積み上げられない。
夏は過ぎ、やがて恐怖と狂気が心を蝕む。
そして