始めのうちは、いつも自分の悲鳴で目を覚ましていた。
隣の部屋で眠る
解恵が大慌てでノックしてきて、やっと自覚するのだ。
妹にあやしてもらい、約束をして、また眠る。
あの頃は、まだ一夜の悪夢に過ぎなかった死神の夢。しかしある日を境に、それは現実を侵食してきた。
ふとした時に重なる景色。目に映るすべての人に、あの異様なローブ姿が重なって、やがて誰も直視できなくなってしまった。
昼と夜は境を失い、悪夢も
その果てに、悪夢は実存を主張してきた。幻とは思えないほど、強く。
「はあっ、あ゛……っ」
全身が石のように固まって、内臓が沸騰しているかのようだ。
一度心臓が脈打つごとに、脳がはち切れそうになる。頭がマグマのように溶け落ち、ずっと抑えていた何かが顔を出そうとする。
吐瀉物の酸味、砂やカードが手に触れる感触。激しい苦しみ。実感が、鍵玻璃の自我を磨り潰していく。
「“パーセノジェネシス・パスファインダー”を召喚。レギオンスキル」
死神は冷徹にプレイを続ける。傍らに出現した蜘蛛型ロボットが腹部を展開し、大鎌の刃に2枚のカードを送り込む。
「自身と同名のカード2枚をデッキに加え、誓願カードを1枚手札に。誓願成就、“
獣のように荒い呼吸を繰り返しながら、
肌は冷たい。なのに体の中は燃えるように熱い。涙が止まらない。
血走り、理性を失いかけた瞳で死神を睨みつける。視界が赤い光で眩んだ。
巨大な芋虫型のドローンが再び現れ、鍵玻璃を照らし出したのだ。
「“ラベノスワーム・ドローン”のレギオンスキル。そして誓願成就、“計画通りの未来”。相手のデッキの上から3枚のカードをめくり、同名カードが相手の場にある場合、それらを自分のデッキの1番下へ」
死神は大鎌を2度振るい、斬撃を飛ばす。
目に見えない巨大な斬撃を喰らったルクバーとカノープスが消滅。彼らの成れの果てである光の粒子が、死神の刃に吸収された。
奪われていく。かつて、ずっと共に戦っていたカードが次々と。
あの少年もそうだったのか。あの人もそうだったのか。
同じように、すべてを奪って消し去ったのか。
即ち、狂気が。
「奪うな……っ、奪うなぁぁぁぁぁぁっ!」
「“星集めの商人・ベーミン”を召喚」
「……!!!」
相手の場に出る、自分のレギオン。その姿が
死神の場にたくさんの宝物が詰まった戸棚の幻影が現れ、膨れ上がったバックパックを背負った少女が得意げに胸を張った。
自分のカードが牙を剥く。
「“星集めの商人・ベーミン”で“クラフトアプレンティス・ポラリス”を攻撃」
ベーミンは巨大なバックパックを持ち上げ、跳躍する。
閾値に達した恐怖と狂気。身に染みついた経験が反抗を促した。
「があああああっ!」
誓願成就、“なぞり紡ぐ
ポラリスにパワー+1000。さらにカードを1枚手札に。
ベーミンが肩ひもをつかんでリュックを振り回し、力いっぱい投げつけて来た。
「ポラリス―――ッ!」
光を浴びたポラリスは、ベーミンのバックパックをフルスイングで打ち返す。
ピッチャー返しに驚愕するベーミンは、彼女の数倍膨らんだバックパックの爆発によって消し飛んだ。
花火のような色とりどりの閃光が、砂漠を照らす。
死神は淡々と、次の攻撃を宣言した。
「“ラベノスワーム・ドローン”の攻撃」
「ポラリス、そいつも壊しなさい! 誓願成就、“
ポラリスのパワー+500、さらに追加で1枚ドロー。
全身をさらに輝かせたポラリスは、ジグザグに地を蹴って駆け、芋虫型ロボットのビームを回避しながら肉薄していく。
アッパーカットのような木槌の振り上げが、機械の頭部を打ち砕く。“ラベノスワーム・ドローン”はバチバチと電光を散らし、爆発して消え去った。
死神:ハザードカウンター7→8
これで死神の場にいるレギオンは、“パーセノジェネシス・パスファインダー”1体。死神はそれ以上の攻撃をしなかった。
「ターンエンド。“満杯の宝棚”のレリックスキル、誓願カード“あたたかな贈り物”を手札に加える」
頭を抱えた
赤く染まった視界に焼き付く炎と、輝くポラリス。反撃の成功が、狂気に溺れかけた理性を僅かに引き上げたのだ。
思考を蝕む狂気と、体を支配する恐怖の間で板挟みになりながら、顔や喉を激しく引っかく。
「ううっ、ううううう……っ! はあっ、だめ……っ! うぁぁっ!」
狂った舞いを披露しながら、焼け付く体を抱きしめる。
意識が過去に戻されかかる。五年前、初めてこの狂気が生まれたあの日。
その時の記憶が、限界まで飢えた獣のように猛る狂気を傷つけた。
―――だから、呑まれたらダメ……!
きつく瞑った目尻に涙が浮いて、視界を洗う。再び目を開いたとき、滲んだ己の手札が再確認できた。
手札は6枚。“星に願いを”、“導かれし未来・デネブ”、“憧憬の望遠鏡”、“スカイハイ・タッチ”、“煌めく服飾”。それと、“
「メリー……シャイン……」
空中に固定されたそれは、手のひらに収まるサイズでありながら、倒れそうな鍵玻璃を支えた。
胸元を握りしめ、ひゅう、ひゅう、と掠れ切った呼吸を落ち着かせる。
恐怖と狂気が、心にかかる闇の中へと後退していく。決して消えたわけではない。すぐそこで、隙あらば鍵玻璃を乗っ取ろうと企んでいる。
だが、のたうち回るほどの苦痛は、水際でなんとか抑え込む。
死神、卵、エデンズ。そして先の反撃が、諦観を振り払う。
戦える。倒せる相手だ。死神を倒せるのだ。それに、メリー・シャインもついている。
「大、丈夫……。私は狂ってない……おかしくなんかない!」
側頭部を叩き、死神を見据えた。怯懦が忍び足で近寄ってくるのを、全力で首を振って振り払う。
空中分解寸前の理性と、空虚な腹から込み上げる熱を頼りに、カードを放った。
「“導かれし未来・デネブ”を召喚! レリック、“憧憬の望遠鏡”!」
望遠鏡の幻影が揺らめき、隠れる。
手札を減らし、次のドローの布石を打つ。鍵玻璃は裏返りそうな声で攻撃を宣言した。
「デネブ! “パーセノジェネシス・パスファインダー”を攻撃!」
黄金剣を携えた少女が、蜘蛛型ロボットに切りかかる。
カタツムリのように飛び出す八つの機械眼球を薙ぎ払い、前足を切り落としてから、無防備となった頭部に切っ先を突き立てる。
傷口からシャワーのように火花を吹き出した“パーセノジェネシス・パスファインダー”は、やがて青色の炎を放って爆散した。
「ポラリス、ダイレクトアタック!」
木槌を両手で握った少女が大ジャンプ。
回転しながら繰り出された殴打を、死神は掲げた鎌の柄で受け止める。
ガァァァン、と地を揺るがすような衝撃と金属音が、砂漠の中で乱反射する。
死神はポラリスを鎌の一振りで追い払ったが、その刃には不気味な数字が浮かび上がっては消えた。
死神:ハザードカウンター8→14
奮戦レベル2のラインを超えて、ギリギリ3の手前で留まる。
ご馳走を見つけた獣の群れのように、攻勢に乗った狂気が騒ぐ。血に飢えた衝動がエスカレートするより早く、手札のメリー・シャインに縋りつき、額を押し当てて深呼吸。
首から胸元へ爪を引き下ろし、脳を食い千切られるような痛みを必死で堪えながら、なんとか終了を宣言した。
「ターン、エンド……!」
「この瞬間、“
「!」
奇妙な砂が巻き上げられて、卵を中心に大きく渦巻き模様を描く。
ゆっくり、ゆっくりと回転しながら、強烈な引力を発する卵。砂で銀河を形成するが如き、壮大ながらもどこか寒々しい風景。
その下で、死神は鍵玻璃の手札を指差した。
「相手のデッキの上から1枚、相手の手札からランダムに1枚、このカードに融合させる」
「融、合……? 私の、手札から? ……!」
初めて聞く能力のことを考えるよりも早く、手札が抜かれた。
すると卵は回転を止め、不気味に脈打ちながら紋様を激しく動かし始めた。
鍵玻璃は肺が膨張するのを感じ取った。
狂気と恐怖を抑え込むのに気を取られ、すっかり頭から抜けていたこと。
死神は、こちらのカードを奪い取る。
一度は身を引いていた恐怖が、抑え込まれた反動とばかりに押し寄せてくる。
手の中にある、シルバーホワイトの髪を輝かせた、煌びやかなアイドルのイラスト。ある意味狂気の根源にして、壊れそうな鍵玻璃の支えとなってきたもの。それが今、失われる瀬戸際にある。
「嫌……」
か細く拒絶を示した
死神は大鎌を掲げ、レベルアップを宣言した。
「奮戦レベル2、レベルアップボーナス獲得」
手札を7枚に増やした死神は大鎌で目の前の空間を引き裂いた。黒い裂け目が押し開かれて現れたのは、奇怪な形の鳥型ドローン。
「“メモリーイーター・ノイマン”を召喚。レギオンスキル発動」
「ノイ……マン……」
フードの闇から放たれる視線が、鍵玻璃の心臓を鷲掴みにする。
“メモリーイーター・ノイマン”。それは相手の手札を奪う者。
最悪の予感が、鍵玻璃のみぞおちに突き刺さった。
一層強くメリー・シャインを抱きしめながら、鍵玻璃は喚いた。
「まさか……やめて、嫌っ!
「相手の手札をランダムに1枚選び、自分のデッキの1番下に置く」
「や……ッ!」
大きく渦を巻く風が、鍵玻璃を捉える。
手札は4枚。確率は4分の1。鍵玻璃は口から心臓を吐き出すような想いをしながら、メリー・シャインを強く抱く。
―――嫌、嫌、嫌っ! 失いたくない……!
―――これがなくなったら、私……っ!
他のカードなら、いくら差し出しても良い。だが、メリー・シャインだけは。
しかし悪夢は非情であった。
「あ……っ」
両手の中から、硬い感触が消え失せる。
“
急いで手を伸ばし、つかもうとするが、指は虚しく透過する。
見開いた目から涙をこぼす鍵玻璃の前で、ノイマンは奪ったカードを見通せぬ暗闇の中へと取り込んでいった。
たった1枚。この世にたった1枚だけ、心を繋ぎ止めていたもの。エデンズから離れた後も捨てるに捨てられなかったカードが、奪い取られた。
―――あの人から、もらったカードが。私には、あれしかないのに……。
心が砂の城のように形を失う。
白砂が、呆然とへたり込む鍵玻璃の膝を咥えた。
「あ……ぁ……。あ、あ、あぁぁぁ……っ」
頭の中で現在と過去が渦を巻いて絡み合う。
胸の奥が騒ぎ始める。恐怖に狭窄していく視界に、血の色が滲み始めた。
ずっと心を奪われ続けた、星のようにまたたく記憶を。
メリー・シャインを渡してくれた、憧れの人との思い出を。