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第9話 昼想夜夢/悪意の足音

 夜、界雷かいづちマテリア総合学院、学生寮。


 解恵かなえは、余裕の笑みを浮かべてテーブルの表面に指を置く。


 食卓の上に投映されたエデンズの盤面は、既にクライマックスだ。


 ハニーに終始押され気味だった解恵だが、これで逆転勝利を収める。


「ここだっ! “サングリラツインズ・リベーラ”でトドメ!」


「う~~~~~~~~~ん、なんもないぃぃぃ~~~~~~~~~~~!」


 カードから浮き上がる踊り子のビジョン。天秤の皿に火球を生んだ踊り子は、皿を吊るす糸を振るって炎を対戦相手に叩きつけ、爆発させた。


 ハニーのカウンターが20なった。解恵かなえの勝利。


 ファンファーレとともに、卓上フィールドが消え去った。


 ゴーグル型のD・AR・Tダアトを上げた解恵は、対面のハニーに微笑みかける。


 明るく得意げな笑顔を向けられた羽新羅は、両手を伸ばして卓に突っ伏した。


 ぐえーと潰れたような声を出しつつも、どこか満足そうだった。


「負~け~たぁ~! これで28勝29敗か~」


「勝ち越しもらいっ! でもハニーも強いよ。今だって結構危なかったもん」


「とか言って~。連敗してから練習したでしょ」


「そりゃあそうだよ、ずっと負けてなんてられないし!」


 にんまりと笑いながら、解恵かなえはスナック菓子を頬張った。


 ポリポリ咀嚼しながら時計を見ると、時刻は21:28。夜も更けてきた頃合いだった。


「……ふたりとも、遅いね」


「だねぇ~……」


 ハニーが同意し、同じスナック菓子を頬張る。


 今部屋にいるのはふたりきり。ありすは兄の夜錬に付き合っているからいいとして、問題は鍵玻璃きはりの方だった。


 落ち着かない様子の解恵かなえに、ハニーが助け舟を出す。


「まあ、23時消灯なんだし、それまでに戻れば平気だよ。ありすちゃんが遅いのはいつものことだし、きはりんもちゃんと戻ってくるって」


「うん……」


 力無く返事をしながら、重く痛む体を卓に預ける。


 アイドル部の体験入部で全身筋肉痛である。体験といってもお客様感覚ではなく、入部した後のことを想定してトレーニングや練習を課せられていた。


 部活動をした上で授業に出る、宿題をやる、テスト勉強をするという、学生の本分を果たせるかどうか。いわば入部テストの真っ最中。


 けれど、なんとかなりそうだ。解恵は担当トレーナーの評価を思い出す。


 初めてやる振り付けにしては良くできている、うまく体を動かせている、と。


 その言葉を、鍵玻璃きはりにも伝えたかった。ダンスの基礎を教えてくれた彼女のおかげで、ここまで上手くなったんだよと直接言いたかった。


 メッセージアプリを開き、鍵玻璃とのチャット画面を呼び出すも、相変わらず返信はない。最後に送ったのは21時頃。既読はひとつとしてつかない。


「お姉ちゃん、返信くれない……」


「わたしもだ。打てども響かずって感じだよねぇ」


「うぅ~……お姉ちゃ……んむっ!」


 解恵がどんより思い詰めていると、口に甘いものが押し込まれる。


 慌てて噛むと、コーティングされたチョコが割れ、ふわふわした生地に歯が届く。解恵かなえに小分けのミニチョコケーキを食べさせたハニーは、気づかわしげに微笑んだ。


「大丈夫。きはりん賢い子だし、変に心配かけるようなことしないって。ちゃんと門限までには帰ってくるよ」


「……うん」


 むぐむぐと口を動かしながら頷く解恵かなえ


 ハニーは解恵の隣に映ると、検索エンジンと動画サイトを同時に開いた。


 肩を寄せ、ともにディスプレイを覗き込む。


「ところでさ、かなえんたちの初推しって誰だったの? きはりんの推し歴も教えてよ~! 聖地巡回しよ~!」


「え……。う、うん、いいよ! それじゃあ、えーっと……」


 そうして、今度はアイドルトークが花開く。


 古くから、アイドルと言えば歌い踊るだけでなく、様々なバラエティーに出演していた。


 時代は移ろい、個人でゲームの実況をし始める者が出て、AR・VRの発達に伴いエデンズが誕生。アイドルたちがプレイ動画を上げてから、爆発的に広まった。


 運営はアイドルを広告塔に。アイドルはエデンズをプレイして知名度を得る。何より、エデンズは使用者の心を表すという噂が、アイドルの人物像に深みを与える。それがファンを魅了した。


 アイドルといえば、エデンズブリンガーである。解恵かなえが物心ついた時には、既にそんな風になっていた。


 ―――それで、お姉ちゃんが好きだった人も……。


 そこまで思い返したところで、思考が急に停止する。


 奇妙な違和感。まるで急ブレーキを踏んだかのように、回想が先に進まない。


 ハニーがきょとんと目を丸くする横で、解恵かなえは急に動けなくなった。


「かなえん? どしたの?」


「……えーっと……。あれ、うーん……? んん……?」


 ―――あれ。お姉ちゃんは曲も完コピするぐらいのアイドル好きだ。


 ―――歌って踊れて、みんなに褒められて……。


 ―――けどお姉ちゃんの部屋にグッズなんて置いてなかったし。


 ―――でもお姉ちゃんがあたしにアイドルを勧めてきて……。あれ……?


 思考と記憶が噛み合わない。解恵かなえは困惑しながら、ハニーが呼び出した写真の群れをスワイプしていく。


 自分のアイドル好きは姉譲り。決して揺るがぬ事実のはずだが、姉に勧められたアイドルの名前も顔も思い出せない。どの写真もピンと来ないのだ。


「う、うーん……? お姉ちゃんの初推し、誰だったかなあ……?」


 腕を組んでも、答えが出ない。本人に尋ねるのが手っ取り早いが、姉が帰ってくる気配はなかった。


 時計の時刻は、22時を過ぎている。寮の消灯まで、あと一時間弱。メッセージは未読スルー。


 帰ってこない鍵玻璃きはりのことが、いよいよ心配になってくる。まさか、何かの事件に巻き込まれたんじゃ、と思ったところで、玄関扉の開く音がした。


 解恵かなえは反射的に立ち上がり、筋肉痛も忘れてそちらへ飛び込む。


「お姉ちゃんお帰り! 今までどこ、に……」


 つかみかかろうとしていた両手が、だらりと垂れ下がった。


 玄関先に立っていたのは姉ではなく、小柄なアルビノの少女。


 深く俯いていたありすは、前髪の下から赤い瞳で解恵を睨む。その奥にわだかまる絶望の闇が、解恵を震え上がらせた。


「……何。鍵玻璃きはりじゃなくて悪かったね」


「あ、いや……っ。……ごめん、ありすちゃん。お帰り……」


「……ただいま」


 ありすは足だけで靴を脱ぎ、重い足取りで部屋に上がった。


 床の軋む音が、いやに大きく響き渡る。項垂うなだれたありすは、まるで豪雨の中の亡霊めいていた。


 遅れて顔を出したハニーも、その様子にかなり驚く。だが当のありすに、他人を気にする余裕はないらしい。ソファに倒れ込み、動かなくなった。


 解恵かなえはハニーと見つめ合う。


 まったく予想だにしていなかった展開だ。突発的に訪れた衝撃を隠せないまま、うつ伏せになった少女に声をかける。


「あ、ありすちゃん? どうか……したの?」


「今日はお兄さんと夜錬って言ってたよね。お風呂湧いてるよ? ありすちゃんの分もご飯あるし……」


「……いい」


 ごくごく短い拒絶の言葉。それが皮切りになったかのように、ありすは小さく震え始めた。


 解恵かなえは手が歪んだ顔を半分隠す。


 見れば見るほど、過去の記憶が今と重なる。ありすと、小学五年生の鍵玻璃きはりの姿が。


 打ちひしがれたように片足を下げる解恵を余所に、ハニーがありすの傍に近づく。背中を撫でてやりながら、甘く優しく囁きかけた。


「ありすちゃん、どうしたの? 何かあった?」


「……ハニー……」


 くぐもった鼻声がクッションの隙間からあふれ出す。


 仮面で表情を隠すかのように、ぎゅうとクッションを抱きしめたありすは、弱々しく訴えた。


「お兄ちゃんに、嫌われた……!」


「へっ? お兄ちゃんって、アメフト部にいるっていう? 今日一緒に夜錬してたんだ……よね?」


「うん……ぼくはもう要らないって、ぼく、ぼく……!」


 喋っているうちに、ありすは本格的に泣き始めてしまった。


 ハニーはどうにか宥めようとあやしながら、詳しい事情を聴き出そうとする。


 解恵かなえはというと、その場から一歩も動けなくなっていた。


 ありすの姿が、心に釘打ちじみた痛みと衝撃を与えてくる。


 瞳に昔の姉の姿を、耳に未来の解恵の声を、それぞれ流し込まれるような、そんな感覚。


「お兄ちゃんが……マネージャー辞めろって……。アメフトに集中したいからって……エデンズまで消して……。なんで……」


「よしよし。とりあえず、何か淹れるよ。ココアとかどう? ゆっくりでいいから、お話聞かせて。かなえん、悪いんだけどちょっとお菓子を……かなえん?」


 ハニーが振り返ると、解恵かなえは玄関口を見つめていた。


 ありすの方はもちろん気になる。だがそれ以上に、彼女は鍵玻璃きはりのことを気にかけていた。


 今までずっと寮に引きこもっていたのに、どこに行ってしまったのだろう。


 パンパンになったふくらはぎが疼き出す。今すぐ寮を出たい気分と、ありすを心配する気持ちの板挟みになりながら、解恵はどうすることも出来ずに佇んでいた。


⁂   ⁂   ⁂


“ウォーミリウム・アレルシャカーピオ”

レギオン:奮戦レベル2

パワー:2000

レギオンスキル:『このレギオンの召喚時』“ブルートロピカル・テトラフェルグ”が自分の場にいないなら、1体場に出す。


 優しいドジっ子。だからみんなも優しく見守る。


“ブルートロピカル・テトラフェルグ”

レギオン:奮戦レベル2

パワー:2500

レギオンスキル:『自分のターン』自分の“ウォーミリウム・アレルシャカーピオ”と相手のレギオン1体を選択する。それらを持ち主の手札に戻す。


 一見冷たく見える青。だがその胸には優しい温もり。

 熱い視線は彼女のものだ。


⁂   ⁂   ⁂


 巨大な卵を見上げていた。


 惑星のように宙に浮かんで、ゆっくり自転するモノクロームの物体。表面を複雑に流れる白と黒の紋様は、大量のミミズが行き交っているようでさえある。


 またこの光景だ。視界が下がる。すぐ目の前に、死神がいた。大鎌を振りかぶり、鍵玻璃の首を狩ろうとしている。


 全身から針の如き恐怖が突き出す。拒絶の悲鳴と安堵の言葉が、同時に鍵玻璃きはりの中に流れた。


 嫌だ、死にたくない。早く殺して、楽にして。相反するふたつの本音。


 振りかぶられた死神の刃に、走馬灯が映り込んだ。入学してから今日までの。


 真っ白になっていく頭の中で、鍵玻璃は他人事のように思った。


 ―――ハニーのことは……嫌いじゃない。


 うるさくて、妙に距離が近いが、周りを気遣える人だ。同級生として、解恵かなえとも仲良くしてくれている。


 ―――ありすのことも、嫌いじゃない。


 無表情で、ぶっきらぼうで、けれど冷たい子ではない。アメフト部の兄が活躍する映像を見せようとするなど、アプローチは決して上手くないが、悪い子ではない。


 ―――両親も、教師も、寮長も、カウンセラーも、みんないい人。


 わかっている。わかっているから怖いのだ。


 ぜんぶ、自分に都合のいい妄想で。学校なんか、本当は存在しなくて。


 本当は、とっくにこの砂漠で死んでいたなら。あるいは姉妹そろって、病室に閉じ込められているだけだったなら。けれどそうではないと告げてくるものも、たったひとつだけあって。


 ―――わからない……もう、わからないの……。


 涙が一筋頬を伝う。死神の鎌が風を引っ張る。津波が来る前の引き潮じみたそれが肌を撫でた直後、刃が鍵玻璃の肩に突き刺さった。


 鍵玻璃はぎゅっと目を閉じる。まぶたの裏に映り込むのは、“救世きゅうせい女傑スターメリー・シャイン”のカードイラスト。


 肩を軽く叩かれる。それと同時に体が動くようになり、鍵玻璃は絶叫しながら目を見開いた。


「……!! はあっ、はあ……っ!?」


 喉を押さえ、肩で息する。


 唾を飲み込むと痛みが走った。耳の中に残る甲高い残響に、スラッシュメタルがサラウンドする。


 薄暗いライブの会場を払いのけると、音楽も映像も一瞬で消え去り、周囲の風景が塗り替えられた。


 暖色のライト。温もりを感じさせる木目のテーブル。ここは界雷かいづちマテリア総合学院内の、ファミリーレストランである。


 額から滴る汗が、テーブルの上にぽつぽつと落ちる。鍵玻璃きはりは汗びっしょりになりながら、搔き乱された記憶を手繰る。


 確か、流鯉りゅうりに絡まれた後、あてどなく彷徨さまよっている間にここを見つけて。しばらく勉強や食事、動画視聴をして時間を潰していたはず。


 ―――そうだ、独りになりたくて。誰にも会いたくなくて、ずっとここに。


 鍵玻璃は大切なものをつかむように胸元を握りしめた。ドクドクと心臓が慌てふためいている。死神の刃が食い込む冷たい感触が、まだ肩に残っていた。


 ぜんぶ、気のせいだ。自分にそう言い聞かせ、息を吐きながらソファに背中を預けると、すぐそばに立つ店員の姿が目に入る。


 驚愕のポーズで凍った彼は、口の端をひくひくと痙攣けいれんさせながら告げた。


「あの、申し訳ありません。そろそろ閉店時間なのですが……」


「時間……? あっ」


 止めた音楽の代わりに聞こえた言葉で、窓の外が暗くなっていることに気付く。


 時刻は22時をとうに過ぎていた。ラストオーダーどころか、寮の門限が近い。


 鍵玻璃きはりは慌てて席を立つ。


 支払いを済ませて出ると、外は星明かりもない闇だった。ぞっとして、広く閑散とした街路を駆け出す。


 D・AR・Tダアトを下ろせば、通話やメッセージが山のように飛び出してきた。解恵かなえだけでなく、ハニーまで心配しているらしい。


 ろくに読むこともせず、通知を薙ぎ払って視界を拓く。


 何かに追われるようにして、必死に走る。早く帰らなくては。そんな気持ちばかりが先行し、足の動きが遅く感じた。


 街灯に照らされてなお、夜道は暗い。暗黒の空、地平線すら見えない砂漠。それらがコンクリートに取って代わったような帰路。


 空間を満たす闇と照らし出される足元は、否応なしに鍵玻璃の肌を粟立たせる。


 悪夢の中で、必死に逃げ惑っている気分。


「はっ、はっ、はっ、はっ……」


 犬にも似た自分の呼吸が、惨めでならない。


 寮の明かりはまだ見えない。体がどんどん熱くなり、汗が右目を塞ぎにかかる。思わず閉じると、あの灰色の刃が右から襲ってきたような気がした。


「!!」


 鋭い悲鳴を上げると同時、足がもつれて転んでしまう。


 派手に転がり、街灯に背中をぶつける。体に走る痛みは、安堵と屈辱感を同時に呼び起こした。


 右目を袖で拭って開き、手袋越しに地面を撫でる。


 ざらついたアスファルト。立方体の砂ではない。立ち上がるための支えにした街灯も、確かな手応えを返してくれる。汗ばんだ額を柱につけると、金属の冷気が熱を僅かに吸い取った。


「現実……こっちが現実……私は、おかしくなんてない……!」


 ぐりぐりと額を押し付けて、言い聞かせる。


 そうでもしないと、たちまち夜の闇から抜け出せなくなってしまいそうだった。


 名前も顔も知らない同級生の囁き声。途方に暮れた両親の会話。呆然とした妹の声。鼓膜に響く幻聴は、みな鍵玻璃きはりがおかしいと告げてくる。


 おかしくなった、発狂した、気が触れた、と。


「違うっっっ!」


 思い切り柱に頭突きし、幻聴を振り払う。おかしくない、狂ってない。だって、何もかも幻だったら、メリー・シャインは……。


 鍵玻璃きはりはイヤイヤをするように首を振り、街灯から離れた。


 どれだけ走ったか、あとどれだけ走ればいいのか曖昧だ。


 それでもこの暗黒から逃れようとして一歩踏み出す。


 その時だった。


「―――ぁぁぁあああぁぁあ―――!」


 どこからともなく聞こえた声が、鍵玻璃きはりの体を竦ませた。


 急いで周囲を見渡すが、誰もいない。


 嫌な予感が体の底から湧き上がる。理性が狂おしく鳴らす警鐘に急かされ、鍵玻璃は駆け出した。


 風に吹かれて木々がざわめく。がさがさと梢の揺れる音が鍵玻璃のうなじをささくれ立たせる。


 気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ。必死に言い聞かせ、走る。ここには自分以外の誰もいないと。


 そうしてまた、何本目かの街頭の下を抜けた時、突然目の前に何かが飛び出す。


 鍵玻璃は悲鳴を上げかける。地べたを這いつくばるそれは、大きめの四足獣に見えたが、違う。明らかに人間だった。


 界雷かいづちマテリア総合学院指定のジャージを着た、白髪の少年。街灯の下にまろび出て来た彼と、目が合う。


 赤い瞳をした少年は、鍵玻璃の足に縋りつき、ぜえはあと息をしながら訴えかけた。恐怖に染まった、真っ青な顔で。


「た、た……助けて……! 助けて、誰か……!」


 反射的に蹴り払いかけた鍵玻璃きはりは、急な出来事に取り乱しかけた。


 少年の瞳孔は小さくすぼまり、言葉を話すのも難儀するほど呼吸が荒い。ガチガチと震える歯の隙間から、強張った舌先が覗いた。


 なりふり構わず助けを求める姿が、自分と重なる。オレンジの髪をした幼い少女が、手を伸ばしてくる。必死になって、訴えてくる。


「違う、違う、違う違う違う! おかしいのはみんなの方だ! なんで……忘れちゃったの? なんで、あの人のこと……みんな忘れちゃってるの? ねえ……!」


 鍵玻璃きはりはその場に釘付けとなる。


 おかしくない。おかしいのはみんなの方。悪いのは、解恵かなえの方。稚拙な主張が、全身に耐えがたい掻痒感そうようかんを爆発させる。


 たまらず喉を掻き毟る。そのまま叫び出し、縋りついてくる自分の幻影を蹴り払い、背を向けて逃げてしまいたい。体中を出血するまで掻き毟り、喚き散らしたい。


 けれど、それは叶わなかった。猛禽の、異様に歪んだ甲高い声が突風のように押し寄せてきて、鍵玻璃を正気付かせたからだ。


「ヒイッ!」


 怪鳥音を聞いた少年がビクッと背後を振り返る。尻餅をついた姿勢で、ばたばたと後退してくる背中に足を巻き込まれ、鍵玻璃きはりはその場に倒れ込んだ。


 見上げた先で、街灯がバチッと音を立てて明滅する。


 少し顎を上げると、そこは闇。来た道を転々と照らしていたはずの街灯が、気づけばすべて消灯していた。


 残っているのは、少年と鍵玻璃を照らしているものと、その先にあるもうひとつ。


 少年が脇を通り抜けようとする中、鍵玻璃は操られるように身を起こす。少し離れた場所に下りた、スポットライトのような光の円を、新たな人影が踏み荒らした。


 鍵玻璃の時が、停止した。


「――――――え?」


 ドクンと心臓の音がする。光に照らす出されているのは、あまりに見慣れた異様な風貌。


 白と黒が入り乱れた不気味なローブに、灰色の刃を備えた大鎌。


 その真上に、何かがふたつ現れる。白黒の砂嵐に覆われた目。それが少年を見下ろして、甲高い叫びを上げた。


 吹き寄せた闇が、周囲を閉ざす。


 鍵玻璃きはりを置いて逃げ出そうとしていた少年が、闇の奥に向かって手を伸ばしながら何かを叫んだ。鍵玻璃には、キンとした耳鳴りにしか聞こえない。


 それらを風切り音と、不気味な咀嚼音が塗り替えた。


 真横を突き抜けた大きく、柔らかく、生暖かい物体が少年を捉えていた。


 フライドチキンを骨ごと噛み砕いているような、水っぽさを含む破砕音。


 すぐ近く、数センチの距離で、少年が何かに貪られている。鼓膜をズタズタに引き裂くような絶叫が続く中、鍵玻璃はまったく動けない。


 ただただポカンとしている間に、静寂が戻って来た。


 闇が晴れ、街灯の光が戻る。


 ゆっくりと首を巡らせる。しかし、さっきまで隣にあった生き物のような気配はそこになく、背後にあの少年はいなかった。


 影も形も、遺品もない。初めから誰もいなかったみたいな空虚がそこにある。


 鍵玻璃きはりは緩慢な動きで前を見た。


 死神がいた。あの死の砂漠で鍵玻璃を殺そうとするあれが。妹や身近な人の姿を借りて近づいてくる不気味な色彩の人影が、そう遠くない場所に佇んでいる。


 次の獲物を、自分を見ている。


 逃げなくちゃ。頭の中では滅茶苦茶に警報が鳴り響き、全身に指示を出しているのに、動けない。魂が抜けた人形のように、立ち上がることもままならない。


 泡のように浮かんだ疑問が、ぱちんと弾けた。


 ―――ここはどこ? 砂漠? 学校? 病院? それとも……私は死んでるの?


 ―――あんたは誰? 今のは何? 私は、一体……。


 茫然としている間に、死神が大鎌を鍵玻璃に向ける。


 次はお前だと言われた気がして、心臓が縮み上がった。


 鍵玻璃は自分の声を聞く。意識を置き去りにして叫ぶ、自分の声を。


 気づけば、体は自動的に逃げ出していた。死神はただ淡々と、鎌を打ち振る。


 鍵玻璃は、魔手から逃げられなかった。

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