夜、
食卓の上に投映されたエデンズの盤面は、既にクライマックスだ。
ハニーに終始押され気味だった解恵だが、これで逆転勝利を収める。
「ここだっ! “サングリラツインズ・リベーラ”でトドメ!」
「う~~~~~~~~~ん、なんもないぃぃぃ~~~~~~~~~~~!」
カードから浮き上がる踊り子のビジョン。天秤の皿に火球を生んだ踊り子は、皿を吊るす糸を振るって炎を対戦相手に叩きつけ、爆発させた。
ハニーのカウンターが20なった。
ファンファーレとともに、卓上フィールドが消え去った。
ゴーグル型の
明るく得意げな笑顔を向けられた羽新羅は、両手を伸ばして卓に突っ伏した。
ぐえーと潰れたような声を出しつつも、どこか満足そうだった。
「負~け~たぁ~! これで28勝29敗か~」
「勝ち越しもらいっ! でもハニーも強いよ。今だって結構危なかったもん」
「とか言って~。連敗してから練習したでしょ」
「そりゃあそうだよ、ずっと負けてなんてられないし!」
にんまりと笑いながら、
ポリポリ咀嚼しながら時計を見ると、時刻は21:28。夜も更けてきた頃合いだった。
「……ふたりとも、遅いね」
「だねぇ~……」
ハニーが同意し、同じスナック菓子を頬張る。
今部屋にいるのはふたりきり。ありすは兄の夜錬に付き合っているからいいとして、問題は
落ち着かない様子の
「まあ、23時消灯なんだし、それまでに戻れば平気だよ。ありすちゃんが遅いのはいつものことだし、きはりんもちゃんと戻ってくるって」
「うん……」
力無く返事をしながら、重く痛む体を卓に預ける。
アイドル部の体験入部で全身筋肉痛である。体験といってもお客様感覚ではなく、入部した後のことを想定してトレーニングや練習を課せられていた。
部活動をした上で授業に出る、宿題をやる、テスト勉強をするという、学生の本分を果たせるかどうか。いわば入部テストの真っ最中。
けれど、なんとかなりそうだ。解恵は担当トレーナーの評価を思い出す。
初めてやる振り付けにしては良くできている、うまく体を動かせている、と。
その言葉を、
メッセージアプリを開き、鍵玻璃とのチャット画面を呼び出すも、相変わらず返信はない。最後に送ったのは21時頃。既読はひとつとしてつかない。
「お姉ちゃん、返信くれない……」
「わたしもだ。打てども響かずって感じだよねぇ」
「うぅ~……お姉ちゃ……んむっ!」
解恵がどんより思い詰めていると、口に甘いものが押し込まれる。
慌てて噛むと、コーティングされたチョコが割れ、ふわふわした生地に歯が届く。
「大丈夫。きはりん賢い子だし、変に心配かけるようなことしないって。ちゃんと門限までには帰ってくるよ」
「……うん」
むぐむぐと口を動かしながら頷く
ハニーは解恵の隣に映ると、検索エンジンと動画サイトを同時に開いた。
肩を寄せ、ともにディスプレイを覗き込む。
「ところでさ、かなえんたちの初推しって誰だったの? きはりんの推し歴も教えてよ~! 聖地巡回しよ~!」
「え……。う、うん、いいよ! それじゃあ、えーっと……」
そうして、今度はアイドルトークが花開く。
古くから、アイドルと言えば歌い踊るだけでなく、様々なバラエティーに出演していた。
時代は移ろい、個人でゲームの実況をし始める者が出て、AR・VRの発達に伴いエデンズが誕生。アイドルたちがプレイ動画を上げてから、爆発的に広まった。
運営はアイドルを広告塔に。アイドルはエデンズをプレイして知名度を得る。何より、エデンズは使用者の心を表すという噂が、アイドルの人物像に深みを与える。それがファンを魅了した。
アイドルといえば、エデンズブリンガーである。
―――それで、お姉ちゃんが好きだった人も……。
そこまで思い返したところで、思考が急に停止する。
奇妙な違和感。まるで急ブレーキを踏んだかのように、回想が先に進まない。
ハニーがきょとんと目を丸くする横で、
「かなえん? どしたの?」
「……えーっと……。あれ、うーん……? んん……?」
―――あれ。お姉ちゃんは曲も完コピするぐらいのアイドル好きだ。
―――歌って踊れて、みんなに褒められて……。
―――けどお姉ちゃんの部屋にグッズなんて置いてなかったし。
―――でもお姉ちゃんがあたしにアイドルを勧めてきて……。あれ……?
思考と記憶が噛み合わない。
自分のアイドル好きは姉譲り。決して揺るがぬ事実のはずだが、姉に勧められたアイドルの名前も顔も思い出せない。どの写真もピンと来ないのだ。
「う、うーん……? お姉ちゃんの初推し、誰だったかなあ……?」
腕を組んでも、答えが出ない。本人に尋ねるのが手っ取り早いが、姉が帰ってくる気配はなかった。
時計の時刻は、22時を過ぎている。寮の消灯まで、あと一時間弱。メッセージは未読スルー。
帰ってこない
「お姉ちゃんお帰り! 今までどこ、に……」
つかみかかろうとしていた両手が、だらりと垂れ下がった。
玄関先に立っていたのは姉ではなく、小柄なアルビノの少女。
深く俯いていたありすは、前髪の下から赤い瞳で解恵を睨む。その奥にわだかまる絶望の闇が、解恵を震え上がらせた。
「……何。
「あ、いや……っ。……ごめん、ありすちゃん。お帰り……」
「……ただいま」
ありすは足だけで靴を脱ぎ、重い足取りで部屋に上がった。
床の軋む音が、いやに大きく響き渡る。
遅れて顔を出したハニーも、その様子にかなり驚く。だが当のありすに、他人を気にする余裕はないらしい。ソファに倒れ込み、動かなくなった。
まったく予想だにしていなかった展開だ。突発的に訪れた衝撃を隠せないまま、うつ伏せになった少女に声をかける。
「あ、ありすちゃん? どうか……したの?」
「今日はお兄さんと夜錬って言ってたよね。お風呂湧いてるよ? ありすちゃんの分もご飯あるし……」
「……いい」
ごくごく短い拒絶の言葉。それが皮切りになったかのように、ありすは小さく震え始めた。
見れば見るほど、過去の記憶が今と重なる。ありすと、小学五年生の
打ちひしがれたように片足を下げる解恵を余所に、ハニーがありすの傍に近づく。背中を撫でてやりながら、甘く優しく囁きかけた。
「ありすちゃん、どうしたの? 何かあった?」
「……ハニー……」
くぐもった鼻声がクッションの隙間からあふれ出す。
仮面で表情を隠すかのように、ぎゅうとクッションを抱きしめたありすは、弱々しく訴えた。
「お兄ちゃんに、嫌われた……!」
「へっ? お兄ちゃんって、アメフト部にいるっていう? 今日一緒に夜錬してたんだ……よね?」
「うん……ぼくはもう要らないって、ぼく、ぼく……!」
喋っているうちに、ありすは本格的に泣き始めてしまった。
ハニーはどうにか宥めようとあやしながら、詳しい事情を聴き出そうとする。
ありすの姿が、心に釘打ちじみた痛みと衝撃を与えてくる。
瞳に昔の姉の姿を、耳に未来の解恵の声を、それぞれ流し込まれるような、そんな感覚。
「お兄ちゃんが……マネージャー辞めろって……。アメフトに集中したいからって……エデンズまで消して……。なんで……」
「よしよし。とりあえず、何か淹れるよ。ココアとかどう? ゆっくりでいいから、お話聞かせて。かなえん、悪いんだけどちょっとお菓子を……かなえん?」
ハニーが振り返ると、
ありすの方はもちろん気になる。だがそれ以上に、彼女は
今までずっと寮に引きこもっていたのに、どこに行ってしまったのだろう。
パンパンになったふくらはぎが疼き出す。今すぐ寮を出たい気分と、ありすを心配する気持ちの板挟みになりながら、解恵はどうすることも出来ずに佇んでいた。
⁂ ⁂ ⁂
“ウォーミリウム・アレルシャカーピオ”
レギオン:奮戦レベル2
パワー:2000
レギオンスキル:『このレギオンの召喚時』“ブルートロピカル・テトラフェルグ”が自分の場にいないなら、1体場に出す。
優しいドジっ子。だからみんなも優しく見守る。
“ブルートロピカル・テトラフェルグ”
レギオン:奮戦レベル2
パワー:2500
レギオンスキル:『自分のターン』自分の“ウォーミリウム・アレルシャカーピオ”と相手のレギオン1体を選択する。それらを持ち主の手札に戻す。
一見冷たく見える青。だがその胸には優しい温もり。
熱い視線は彼女のものだ。
⁂ ⁂ ⁂
巨大な卵を見上げていた。
惑星のように宙に浮かんで、ゆっくり自転するモノクロームの物体。表面を複雑に流れる白と黒の紋様は、大量のミミズが行き交っているようでさえある。
またこの光景だ。視界が下がる。すぐ目の前に、死神がいた。大鎌を振りかぶり、鍵玻璃の首を狩ろうとしている。
全身から針の如き恐怖が突き出す。拒絶の悲鳴と安堵の言葉が、同時に
嫌だ、死にたくない。早く殺して、楽にして。相反するふたつの本音。
振りかぶられた死神の刃に、走馬灯が映り込んだ。入学してから今日までの。
真っ白になっていく頭の中で、鍵玻璃は他人事のように思った。
―――ハニーのことは……嫌いじゃない。
うるさくて、妙に距離が近いが、周りを気遣える人だ。同級生として、
―――ありすのことも、嫌いじゃない。
無表情で、ぶっきらぼうで、けれど冷たい子ではない。アメフト部の兄が活躍する映像を見せようとするなど、アプローチは決して上手くないが、悪い子ではない。
―――両親も、教師も、寮長も、カウンセラーも、みんないい人。
わかっている。わかっているから怖いのだ。
ぜんぶ、自分に都合のいい妄想で。学校なんか、本当は存在しなくて。
本当は、とっくにこの砂漠で死んでいたなら。あるいは姉妹そろって、病室に閉じ込められているだけだったなら。けれどそうではないと告げてくるものも、たったひとつだけあって。
―――わからない……もう、わからないの……。
涙が一筋頬を伝う。死神の鎌が風を引っ張る。津波が来る前の引き潮じみたそれが肌を撫でた直後、刃が鍵玻璃の肩に突き刺さった。
鍵玻璃はぎゅっと目を閉じる。まぶたの裏に映り込むのは、“
肩を軽く叩かれる。それと同時に体が動くようになり、鍵玻璃は絶叫しながら目を見開いた。
「……!! はあっ、はあ……っ!?」
喉を押さえ、肩で息する。
唾を飲み込むと痛みが走った。耳の中に残る甲高い残響に、スラッシュメタルがサラウンドする。
薄暗いライブの会場を払いのけると、音楽も映像も一瞬で消え去り、周囲の風景が塗り替えられた。
暖色のライト。温もりを感じさせる木目のテーブル。ここは
額から滴る汗が、テーブルの上にぽつぽつと落ちる。
確か、
―――そうだ、独りになりたくて。誰にも会いたくなくて、ずっとここに。
鍵玻璃は大切なものをつかむように胸元を握りしめた。ドクドクと心臓が慌てふためいている。死神の刃が食い込む冷たい感触が、まだ肩に残っていた。
ぜんぶ、気のせいだ。自分にそう言い聞かせ、息を吐きながらソファに背中を預けると、すぐそばに立つ店員の姿が目に入る。
驚愕のポーズで凍った彼は、口の端をひくひくと
「あの、申し訳ありません。そろそろ閉店時間なのですが……」
「時間……? あっ」
止めた音楽の代わりに聞こえた言葉で、窓の外が暗くなっていることに気付く。
時刻は22時をとうに過ぎていた。ラストオーダーどころか、寮の門限が近い。
支払いを済ませて出ると、外は星明かりもない闇だった。ぞっとして、広く閑散とした街路を駆け出す。
ろくに読むこともせず、通知を薙ぎ払って視界を拓く。
何かに追われるようにして、必死に走る。早く帰らなくては。そんな気持ちばかりが先行し、足の動きが遅く感じた。
街灯に照らされてなお、夜道は暗い。暗黒の空、地平線すら見えない砂漠。それらがコンクリートに取って代わったような帰路。
空間を満たす闇と照らし出される足元は、否応なしに鍵玻璃の肌を粟立たせる。
悪夢の中で、必死に逃げ惑っている気分。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
犬にも似た自分の呼吸が、惨めでならない。
寮の明かりはまだ見えない。体がどんどん熱くなり、汗が右目を塞ぎにかかる。思わず閉じると、あの灰色の刃が右から襲ってきたような気がした。
「!!」
鋭い悲鳴を上げると同時、足がもつれて転んでしまう。
派手に転がり、街灯に背中をぶつける。体に走る痛みは、安堵と屈辱感を同時に呼び起こした。
右目を袖で拭って開き、手袋越しに地面を撫でる。
ざらついたアスファルト。立方体の砂ではない。立ち上がるための支えにした街灯も、確かな手応えを返してくれる。汗ばんだ額を柱につけると、金属の冷気が熱を僅かに吸い取った。
「現実……こっちが現実……私は、おかしくなんてない……!」
ぐりぐりと額を押し付けて、言い聞かせる。
そうでもしないと、たちまち夜の闇から抜け出せなくなってしまいそうだった。
名前も顔も知らない同級生の囁き声。途方に暮れた両親の会話。呆然とした妹の声。鼓膜に響く幻聴は、みな
おかしくなった、発狂した、気が触れた、と。
「違うっっっ!」
思い切り柱に頭突きし、幻聴を振り払う。おかしくない、狂ってない。だって、何もかも幻だったら、メリー・シャインは……。
どれだけ走ったか、あとどれだけ走ればいいのか曖昧だ。
それでもこの暗黒から逃れようとして一歩踏み出す。
その時だった。
「―――ぁぁぁあああぁぁあ―――!」
どこからともなく聞こえた声が、
急いで周囲を見渡すが、誰もいない。
嫌な予感が体の底から湧き上がる。理性が狂おしく鳴らす警鐘に急かされ、鍵玻璃は駆け出した。
風に吹かれて木々がざわめく。がさがさと梢の揺れる音が鍵玻璃のうなじをささくれ立たせる。
気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ。必死に言い聞かせ、走る。ここには自分以外の誰もいないと。
そうしてまた、何本目かの街頭の下を抜けた時、突然目の前に何かが飛び出す。
鍵玻璃は悲鳴を上げかける。地べたを這いつくばるそれは、大きめの四足獣に見えたが、違う。明らかに人間だった。
赤い瞳をした少年は、鍵玻璃の足に縋りつき、ぜえはあと息をしながら訴えかけた。恐怖に染まった、真っ青な顔で。
「た、た……助けて……! 助けて、誰か……!」
反射的に蹴り払いかけた
少年の瞳孔は小さくすぼまり、言葉を話すのも難儀するほど呼吸が荒い。ガチガチと震える歯の隙間から、強張った舌先が覗いた。
なりふり構わず助けを求める姿が、自分と重なる。オレンジの髪をした幼い少女が、手を伸ばしてくる。必死になって、訴えてくる。
「違う、違う、違う違う違う! おかしいのはみんなの方だ! なんで……忘れちゃったの? なんで、あの人のこと……みんな忘れちゃってるの? ねえ……!」
おかしくない。おかしいのはみんなの方。悪いのは、
たまらず喉を掻き毟る。そのまま叫び出し、縋りついてくる自分の幻影を蹴り払い、背を向けて逃げてしまいたい。体中を出血するまで掻き毟り、喚き散らしたい。
けれど、それは叶わなかった。猛禽の、異様に歪んだ甲高い声が突風のように押し寄せてきて、鍵玻璃を正気付かせたからだ。
「ヒイッ!」
怪鳥音を聞いた少年がビクッと背後を振り返る。尻餅をついた姿勢で、ばたばたと後退してくる背中に足を巻き込まれ、
見上げた先で、街灯がバチッと音を立てて明滅する。
少し顎を上げると、そこは闇。来た道を転々と照らしていたはずの街灯が、気づけばすべて消灯していた。
残っているのは、少年と鍵玻璃を照らしているものと、その先にあるもうひとつ。
少年が脇を通り抜けようとする中、鍵玻璃は操られるように身を起こす。少し離れた場所に下りた、スポットライトのような光の円を、新たな人影が踏み荒らした。
鍵玻璃の時が、停止した。
「――――――え?」
ドクンと心臓の音がする。光に照らす出されているのは、あまりに見慣れた異様な風貌。
白と黒が入り乱れた不気味なローブに、灰色の刃を備えた大鎌。
その真上に、何かがふたつ現れる。白黒の砂嵐に覆われた目。それが少年を見下ろして、甲高い叫びを上げた。
吹き寄せた闇が、周囲を閉ざす。
それらを風切り音と、不気味な咀嚼音が塗り替えた。
真横を突き抜けた大きく、柔らかく、生暖かい物体が少年を捉えていた。
フライドチキンを骨ごと噛み砕いているような、水っぽさを含む破砕音。
すぐ近く、数センチの距離で、少年が何かに貪られている。鼓膜をズタズタに引き裂くような絶叫が続く中、鍵玻璃はまったく動けない。
ただただポカンとしている間に、静寂が戻って来た。
闇が晴れ、街灯の光が戻る。
ゆっくりと首を巡らせる。しかし、さっきまで隣にあった生き物のような気配はそこになく、背後にあの少年はいなかった。
影も形も、遺品もない。初めから誰もいなかったみたいな空虚がそこにある。
死神がいた。あの死の砂漠で鍵玻璃を殺そうとするあれが。妹や身近な人の姿を借りて近づいてくる不気味な色彩の人影が、そう遠くない場所に佇んでいる。
次の獲物を、自分を見ている。
逃げなくちゃ。頭の中では滅茶苦茶に警報が鳴り響き、全身に指示を出しているのに、動けない。魂が抜けた人形のように、立ち上がることもままならない。
泡のように浮かんだ疑問が、ぱちんと弾けた。
―――ここはどこ? 砂漠? 学校? 病院? それとも……私は死んでるの?
―――あんたは誰? 今のは何? 私は、一体……。
茫然としている間に、死神が大鎌を鍵玻璃に向ける。
次はお前だと言われた気がして、心臓が縮み上がった。
鍵玻璃は自分の声を聞く。意識を置き去りにして叫ぶ、自分の声を。
気づけば、体は自動的に逃げ出していた。死神はただ淡々と、鎌を打ち振る。
鍵玻璃は、魔手から逃げられなかった。