あまりに静かだ。日の当たらない廊下は薄暗く、まるで霊廟のようですらある。
賑やかなリビングとは正反対。その奥で、
―――これでもダメか……。
―――みんなでラグナロクを見れば、もしかしてって思ったのにな。
解恵は失敗に終わった計画を、ひとりで反省し始める。
エデンズフォーム・ディザスターズ世界大会“ラグナロク”。億単位のプレイ人数をカウントする今、この大会は世界的な熱狂の種である。
その熱を友人たちと共有し、盛り上がることができればきっと。そう思っていたのだが、見通しはあまりに甘すぎた。
何度呼びかけても部屋を出ず、無理矢理連れ出したって戻ってしまう。悲嘆と苦痛を抱えた顔で、ひとりになろうとしてしまう。
―――ブリンガーをやめたなんて、そんなわけないのに。
―――どうして、そんなこと言うの? なんで戻って来てくれないの?
―――何が原因で、そんなふうになっちゃったの? お姉ちゃん……。
ずぶずぶと思考の沼に沈むにつれて、ずっと昔の光景が蘇ってくる。楽しくエデンズをプレイしていた、幼い頃の姉の姿が。
遠くなってしまった時間に思いを馳せかけたその時、背中に衝撃が走る。
「か~なえんっ! おーい!」
「ひゃっ!? 何!?」
飛び上がった
呼びかけてきたのは、派手なツインテールの少女である。
「ま~たきはりんのこと考えてたでしょ~。心ここにあらずだったよ~」
「ご、ごめん! なんの話してたっけ!?」
「新パックのカード、何が出たって話。結果報告してないの、かなえんだけだよ?」
「あ……っ。ま、まだ引いてないや。えへへ」
「だろーと思った」
誤魔化し笑いを浮かべる
カードパック購入画面を急いで開き、ゲーム内通貨をつぎ込んでいく。その間にも、心は姉の方へ引っ張られていた。
正直、姉が部屋に戻って以降のことを覚えていない。興奮も高揚も引いた心の内は、姉のことでいっぱいだった。
友人たちは、呆れながらも怒りはしない。入学してから二週間ほど。解恵のシスコンぶりは、もはや余人の知るところである。
分厚いデバイスで目元を覆った先輩が、両の人差し指を向けて来た。隠れた両目に代わって、デバイスの液晶が逆さのVをふたつ並べる。簡易的な笑顔の顔文字。
「
「わ、わかってるよぉ! ……あ、UR出た」
「だから反応薄いってんだよ! 何が出た? オレにも見せろ!」
先輩が、ハニーと一緒に
左右からプレスされ、解恵がむぎゅうと呻いた。その様子を見ながら、メンバーの中で一番の年長者である女性が頬に手を当てる。
「
「あはは……そりゃあだって、ねえ?」
「ルームメイトがあんな調子だったら、誰だって気になる。一緒に住んでるんだし」
派手なツインテールの少女と小柄な少女が首肯する。
小柄な白髪赤目の少女、
「でも、ぼくは
「また? もう八杯目じゃない、お腹壊しちゃうわよ」
差し出したカップを押し返されたありすは、手持ち無沙汰気味に膝の絆創膏を引っかき始める。
その様に不安を伝えられ、
ゴーグル型デバイスのレンズ越しに、姉に渡せなかった水と錠剤が映り込む。
テーブルの上には、裏側のカードがズラリと並ぶ。それは、たった今手に入れた、初心者向けの汎用カードだ。
解恵は半端に手を持ち上げ、呟く。
「でも、だって……約束したんだもん。お姉ちゃんが、そう言って……」
「その話、もう百回は聞いたっつーの」
真横の先輩が
ARヴィジョンは設定により、他の人にも見えている。引き当てたカードはパッとしない。元々解恵の眼鏡に適うカードは、封入されていないのだ。
先輩の反対側で、ハニーがもたれかかってくる。
「昔はかなえんよりキラキラしてたんだっけ? ちょっと信じられないけど……だからこそ、元に戻ってほしいんだよね。わたしも。今のきはりん、苦しそうだもん」
「だからって、あれはどうかと思うけどね」
「う……っ」
ありすにジトッとした半眼を作られ、
あれとは即ち、
それは見事、成功裏に終わったのだが。既にその話を聞いていた、大人びた女性が苦笑いを浮かべた。
「お姉ちゃん大好きなのはわかるけど、流石にあれはね。多分、そのこともずっと引きずってるのよ」
「ん~、どれの話? オレを置いてけぼりにすんなよ」
「入学式の話。先輩、聞いてないの?」
「オレはそんとき、遠征出てたから知らねー」
先輩が肘で
首と肩を縮こまらせる後輩に、先輩はにやにやした笑みを近づけ来た。。
「な~にがあったんだよ。ほれ、言ってみ? 先輩命令」
「え、えぇ~……。でもみんなダメだって言ってるし……」
「んだよ、今更減るもんでもねぇしいいだろ。お前が良いと思えばそれでいんだよ。ほら、早く話してみろって」
大人びた先輩が咎めるように咳払いをする。が、一顧だにされない。
ありすもハニーも助け船を出すつもりはないようだ。むしろ無言で、話をしろと促してくる。前に聞いた時には、目に見えてドン引きしてたくせに。
どうやら退路はないらしい。解恵は肩を落として、仕方なく自分を奮い立たせた。
―――しっかりしろ、あたし!
―――お姉ちゃんのためにやったことだし、恥ずかしいことなんて何もない!
意を決して胸いっぱいに息を吸う。
それと同時に、入学式とその直前の記憶が蘇って来た。
⁂ ⁂ ⁂
“研究も。就職も。夢を追うのも。やりたいことが、最先端”
自宅のリビング。ソファに寝っ転がった
様々な服装をしたキャラクターが何十人も並ぶ、壮大な広告。それがなんの宣伝なのか、今やタイトルを見るまでもなくわかる。
胸を高鳴らせ、瞳を煌めかせる解恵の耳に、最後の宣伝文句が届いた。
“未来をアップデートする君へ。
「ふふふ、えへへへへへ!」
思い切り顔をふやけさせながら、左右に寝返りを打った。
狭いシートの上から落下し背中をぶつける。けれど鈍い痛みでは、綻ぶ頬を止められない。受験シーズンを乗り切って、第一志望に合格した喜びは、その程度では薄れないのだ。
近くでそれを見ていた父が、暖かい目を向けてくる。
「人生楽しそうだな、カナ」
「えへへ、うん!」
返事して、
視界に移るブラウザを指で操り、開きっぱなしのページを呼び出す。
クラッカーとファンファーレ。桜のエフェクトが解恵を何度でも高揚させる。
かなり難易度の高い試験だったし、自己採点でもギリギリだった。かなり心配していただけに、喜びもひとしおであった。
「にしても、本当によく頑張った。新しい学校とはいえ、倍率かなり高いのに」
「お姉ちゃんに勉強教えてもらったからね! エデンズは……だめだったけど」
そう言って、
卒業すれば、プロブリンガーは当然として、あらゆる分野で成功できるという。そんな学校に入る権利を、解恵は努力の末に勝ち取った。
報告を聞いた両親、教師、友人たち。その全員が、盛大な祝福を送ってくれた。我がことのように喜ぶ彼らの表情を、恐らく一生忘れはしない。
けれど、姉は。姉だけは……。
さかさまになった視界には、皿を洗う母の後ろ姿。
「お母さん、お姉ちゃんは?」
「もう上がって部屋に行ったわよ。解恵もお風呂入りなさい」
「えっ!? もう、なんで教えてくれなかったの!?」
話があるって言ったのに。文句を心の中に押し込め、向かう先は
ノックもせずに飛び込むと、ラベンダーの香りがふわっと解恵を包み込む。
姉の匂いだ。そしてその当人は、彼女は解恵とおそろいのゴーグル型デバイスを着け、ぼんやりと椅子に腰かけていた。
黒い寝間着を見に纏い、タオルの下には水気を帯びたダークブルーのロングヘア。よほどの音量で音楽を聴いているのか、解恵にまったく気づいていない。
「お姉ちゃん!」
「っ!!」
デバイスを奪われた
壁に背中をくっつけた姉から、湯熱の火照りが消え失せる。幽霊に襲われたような表情をして息を荒らげる彼女の姿に、
わざわざカラーコンタクトを入れた姉の瞳はくすんだ銀。両手には黒い手袋。鍵玻璃は息を荒げながら、俯き気味に叱りつけて来た。
「私の部屋に入って来ないで! 何度言えばわかるのよ!」
「だ、だってお姉ちゃん、いくら呼んでも気づかないじゃん! それに……うっ!」
すると、鼓膜を突き破るような大音量で、暴力的な音楽が流れ込んで来た。
景色が部屋から、サイケデリックな光をぶちまけるライブハウスへ。ARでミュージックビデオを見ていたらしい。
予想を裏切るほどの音量と凄まじいフラッシュに飛び跳ねながら、慌てて再生を停止する。アーティスト名は英語のようだが、なんて読むのかわからない。
解恵はゴーグル型のデバイスを外し、姉に詰め寄る。
「やっぱり、また変な曲聞いてる! あたしが昨日オススメしてあげたやつはー?」
「……聞いたわよ。ちょっと、近づいてこないで! あっち行って!」
姉は顔を限界まで背け、
数歩後退しながら、解恵は胸に不満を落とした。
―――うそつき。
履歴にも、ライブラリにも、解恵が勧めたアイドルポップは入っていまい。姉はすっかり変わってしまった。
息を詰まらせていると、鍵玻璃にゴーグルをひったくられる。
姉は解恵に背を向け、壁に両腕と額を押し当てた。
「出て行って」
「やだ! 話があるって、あたし言ったよね!」
「いいから出て行って! あんたと話すことなんてない……関わらないでよ!」
鋭い拒絶に、
近づけない。触れられない。まるで姉の背中に針鼠のようなとげとげしさを感じ取る。いくら見つめて待ってみても、彼女は決して目を合わせてくれない。
小さな背中だ。少し前まで、背丈は同じくらいだったはずなのに。髪も、瞳も、趣味だって。それが今は、何もかも異なっていた。
どうして、こんなに変わってしまったのだろう。双子なのに、生まれた時からずっと一緒にいたはずなのに、どうしてこんな隔たりがある?
解恵にできるのは、縋るように問うことだけだ。
「本当に……来ないの?
「行かない、記念受験って約束したでしょ。行きたいならひとりで行って」
「そんな……お姉ちゃん、トップで合格したんだよ!? 向こうからもぜひ来てほしいって何回も……エデンズだってやめてないんでしょ? なら……」
「いい加減にして!」
手袋を嵌めた指先が、
ぐうぅ、と唸りながら手袋を嵌めた手で喉や顔、体を掻き毟る。その姿を見て、解恵は前に見たホラーゲームの実況配信を思い出した。
主人公の目の前で、苦しみながら怪物と化すキャラクター。その凄惨な姿に今の姉の姿が重なった。手袋を嵌めているし、パジャマは長袖長ズボン。肌が傷つく心配はない。それでも、解恵は耐えられなかった。
姉の両手をつかんで制止しようとするが、それすら振り払い、鍵玻璃は叫んだ。
「私はもう、あんたとはいられないのよ! だめなの……あんたが一緒にいたら、だめなのよ……!」
「お姉ちゃん……!」
「お姉ちゃんって呼ばないで! 私は……私、は……っ!」
心臓を針金で縛られるような苦痛を感じ、
解恵が呼ぶと、姉はいつでも応えてくれた。眩しい笑顔で、手を引いてくれた。解恵が泣くと抱きしめて、慰めてくれた。
頭が良くて、何でもできて、かっこいい姉。目標で、憧れで、自慢の姉と一緒に夢を叶えたいと、ずっとそう思っている。今でも変わっていないのに。
「無理……だよ……」
離れたくない。その一心で呼びかける。
「あたし、お姉ちゃんより頭悪いし、入試もギリギリで……学校に入った後もついていけるか不安だし、教えて欲しいこと、いっぱいあるのに……それに、まだあたし、一回も勝ててない……約束だって、まだ……」
体を丸め、耳を塞いでひたすらに拒絶のポーズを取り続けている。
弱々しくて、無力な姿。数年前、喚いて暴れて、泣き叫んでいた頃に戻ってしまったようだった。もう治ったと思っていたのに。
行き場を失った感情が、
―――うそつき。
さっきと同じ非難が、また沸き上がってきた。
喉につっかえたそれをなんとか押し込める。代わりに出たのは、別の問い。
「……どうして?」
―――なんであたしを嫌いになったの?
―――何が、お姉ちゃんをそんな風にしちゃったの?
言葉にしきれない問いが、頭の中をしきりに巡る。もはやはっきり口にせずとも、姉には伝わるはずだった。もう幾度となく同じことを問うてきたから。
しかし返事はなかった。いつも通りに。
これ以上、この部屋にはいられない。
閉じた扉に背中をくっつけ、深く俯く。喉に重苦しい感情がつっかえている。強く歯を噛み締めた痛みが、顎にまで響いてきていた。
微かに、すすり泣きが聞こえてくる。姉もまた、苦しんでいた。
「お姉ちゃん……」
ぽつりと零した独り言など、届くはずもない。それでも、
どうしていいのか、もはや誰にもわからなかった。両親も、かかりつけの精神科医も、
明るくて、強くて、太陽のようだった彼女の変貌。その原因を、誰も知らない。
効果を見せた対症療法も、いつの間にか拒否するようになり。果てには家族から離れ、遠くでひとり暮らしを始めると言い出した。
できるわけがない。今の鍵玻璃をひとりにするなんて、そんなこと。
それに解恵だって、自分の夢を諦められない。昔からずっと夢に見て来た、鍵玻璃とアイドルになるという夢を。
解恵は大きく息を吸い込み、体に酸素を送り込む。
「お姉ちゃん。あたし、諦めないからね」
昔の
そのための布石はもう打った。あとは姉を連れて行くだけだ。
親にも確認は取ってある。これで鍵玻璃は逃げられない。
決して、独りにはさせない。傍にいる。姉のためならなんだってする。姉を救うためなら、どんなことでも。
「待っててお姉ちゃん。必ず、助けてあげるから」
自分にそう言い聞かせ、
Xデーは、入学式の日。