ゴオッ、と荒い風の音を聞き、
そこは立方体の砂に覆われた砂漠。墨で塗り潰したような黒い空には、巨大なモノクロームの卵が浮遊している。
不気味に蠢く
―――まただ。これは……
他人事じみた思考とは裏腹に、呼吸はどんどん荒くなる。手足が震え、肺が激しく収縮するのを感じ取る。
こんなところにいちゃいけない。わかっているけど、逃げられない。
砂漠の地平は真っ平。隠れる場所など存在せず、前後左右も不明瞭。すべてが浮かぶ卵の下にある。まるで巨大な瞳に見つめられているかのようだ。
上手く酸素を取り込めない。卵を眺めているうちに、ゲシュタルト崩壊が起こって頭がクラクラしてくる。
意識が遠のきかけたところで、不意に
飛び散った砂に肌を削られ、冷たい汗が噴き出した。鍵玻璃の全神経が逃げろと鞭を打ってくる。
けれど、足は動かない。氷漬けにされたみたいに、身動きができない。
ざらざらした音を立てて渦巻く人間大の砂嵐。その中から鎌が飛び出した。
死神だ。鍵玻璃の視界に、背後に立つ何者かの姿がへばりつく。
今となっては見ずともわかる。モノトーンのローブをまとい、灰色の刃がついた大鎌を持つ、人型の何かがそこにいるのだ。
―――……やめて……。
口の中は干上がって、舌は喉の奥で縮こまる。首筋にあてがわれた刃が、残った体温を奪っていった。
心臓が限界まで縮こまり、勢いよく押し流された血で脳が張り裂けそうになる。鍵玻璃は声なき声で悲鳴を上げた。
―――やめて、嫌! もういい加減にしてよ! 一体なんなの!?
―――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!
ぶおんっ、と風を切る音がする。
死神が鎌を振り下ろし、鍵玻璃を真っ二つにしようとするのを、卵だけが黙ってみていた。
そこでようやく、目蓋だけが動かせるようになり、鍵玻璃は強く目をつぶる。
―――助けて、誰か―――!
巨大な氷柱を突き込まれたように全身が冷え切ったその時、激しい殴打の音と
耳鳴りのように鼓膜を突く声。聞きなれた声。いつまで経っても、痛みはやってこない。
視界には砂の代わりに、机があった。ゴーグル型のデバイスがちょこんと置かれた勉強机。周囲の景色も砂漠ではなく、六畳ほどの部屋の一室に変わっていた。
顔を下ろすと黒手袋を嵌めた自分の両手。それを首筋にあてがうと、汗でびっしょりと濡れぼそった。
―――夢? 幻覚? それとも……今度こそ、死んだ?
額に手の甲をあてがい、問いかける。乾燥した砂混じりの風、刃の冷気。あれらは今も、べったりと肌に張り付いている。あまりにもリアルな感覚だった。
椅子の上で苦しい呼吸を繰り返している間にも、騒音は続いている。
乱暴なノックの音と、妹の声。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお―――ね―――え―――ちゃ―――ん! すごいよ、勝ったよ! 十連覇だよ! 早く来てよ、お姉ちゃ―――ん!」
体に力が入らない。立ち上がるのがあまりに億劫。
重い腕をなんとか動かし、ゴーグル型のデバイスを装着。提示されたARヴィジョンを漁り、音楽アプリのアイコンに触れようとしたところで、妹が飛び込んで来た。
「お姉ちゃ―――――――ん! 何してるの、もうラグナロク終わっちゃったよ!? 優勝者インタビューも見逃しちゃうよ!?」
「うるっさいわね……! 静かにしなさい!」
力を振り絞って叫ぶと、妹の
それなりに背丈はあるが、くりくりとした翡翠の瞳はまだ幼い。アシンメトリーに整えた橙色のショートヘアを萎びさせ、肩をすぼめる妹に、
「興味ないって言ってるでしょ……放っておいてよ」
「だ、だぁってぇ……」
妹の言い訳が、途中で止まる。気にせず音楽アプリを立ち上げようとすると、すぐ真横にぬくもりが近寄って来た。
「……また、うなされてたの? お薬は? 飲まなかったの?」
「あんたには関係ない……出て行って!」
「またそうやって……うーん」
自分ではない何かを飲み下していると、解恵が急に飛びついてきた。
腕をホールドした妹の顔が、鍵玻璃の視界に滑り込む。
鍵玻璃の目に映ったのは、オレンジ色の髪ではない。白と黒が複雑に絡み合うフード付きローブ。その下にあるのはローブと同じ色合いの皮膚。
机も部屋も消え、白砂の砂漠に変わる。歪んだ妹の声が鼓膜を揺さぶった。
「
「―――――――っ!」
凍り付いた
完全に機を逸した鍵玻璃は明滅するように目まぐるしく切り替わる視界に目を回しながら、よたよたと歩いた。
足音が二重に聞こえる。フローリングの軋む音。砂を蹴る音。ゴーグル越しに見える景色が安定しない。妹の声も、歪んだものとそうでないものが入り混じっていた。
「みんなといればチョットハ気モ紛レルよ! それにお薬飲んでないんでしょ! 持ッテ来てルかラ飲みに行こ!」
―――離して!
目が回る、吐きそうになる。きつく目を閉じ、息を止めると、水中のようにくぐもった妹の声が耳に届いた。
「おっ待たせー! お姉ちゃん、連れて来たよ!」
いきなり腕が解放された。一歩踏み込んで転倒を免れた
そこでは、四人の死神が佇み、鍵玻璃を待ち構えていた。
いや違う。ここはリビングで、いるのは死神ではなく少女たち。それぞれおやつやジュースを口にしながらこちらを見ている。皆、姉妹のルームメイトだ。
そのうちのひとり、派手な色の髪をツインテールに結った少女が、ソファの背もたれ越しに手を振ってくる。
鍵玻璃は大きく息を吸い、先客たちから目を逸らした。
「お、きはりんだ。今日初めて見た。おっはー」
「……おはよう、
「ハニーって呼んでよ~。それに、邪魔じゃないって! かなえん、せっかくだからジュース取って来てくれる~?」
「え~……自分で取ってよぉ」
派手なツインテールの少女は背もたれに顎を乗っけて、立てた足を交互に揺らす。
「世紀の一大決戦だったのに、なんできはりんは見に来ないのさ。エデンズブリンガー必見の激熱バトルだったんだよ~? ……体調、そんなに悪いの?」
「ええ……だから、そっとしておいて欲しかったのよ。それに私は……もうエデンズブリンガーじゃない……」
「うっそだぁ」
「嘘じゃ……ない」
半ば自分に言い聞かせつつ、
無秩序な視界の変遷は、束の間の落ち着きを見せた。誰にも気取られないように深呼吸をしながら、ハニーたちが座るソファの前、壁に投映された配信映像に目を向ける。
今は閉会式直前のインタビュー中。凛とした美しい女性が、どこか冷たい表情で質問に応対している。
「ミス・シェーンハイト! 最後に使ったあのカードは、今日初めて使われたものですよね。もしかして、新カードですか?」
「いや、それなりに前からデッキにあった。使うほどの相手がいなくてな……まさか、使う羽目になるとは思っていなかったから驚いた。恐ろしい攻撃力だったよ」
「オールドボーイは既に次のラグナロクでリベンジすると決意表明をしていますけど、女王から何かコメントは?」
「見事な戦いぶりだった。負けたとはいえ、奴を笑う者はいないだろうよ。最後に咲かせる花としても悪くない。生涯夢を追うのもいいが、そろそろ落ち着いた余生を過ごすのもありだろうよ。ジャズでもゆっくり聞いていればいい」
「永劫のロックスターになんてことを!?」
インタビュアーが大げさに驚き、笑いを取った。リビングの少女たちもつられて笑う。シェーンハイトは薄く口角を上げ、次の質問に答え始める。
―――夢、か。
アルカイックスマイルで応える女王。鍵玻璃は、その瞳にかかる微かな影を見て、頭痛を覚えた。
自分の奥底に伝わる痛みが、頭と胸の奥で何かを激しく騒がせる。体が乗っ取られそうだ。鍵玻璃は奥歯を噛み締め、首筋を掻き毟った。
黒皮と肌の擦れ合う音を聞いて気を落ち着けていると、冷蔵庫を漁っていた
「あっ、もうジュースない……? ハニーごめん、お水でもいい? お姉ちゃんも、お水あげるからお薬飲んでよ!」
「いらない……私は、部屋に戻る……」
そう呟いて踵を返すと、談笑していた面子のひとりが口を差し挟んで来る。
確か、ひとつ上の先輩で、
「まーまー、気分転換だと思ってよ。シェーンハイト、本当にすげーから。十連覇のチャンピオンはやっぱ違うっつーかさぁ!」
「いいよね、シェーンハイト様! 綺麗だし、すごく強いし! 女優兼エデンズブリンガーっていうのも悪くないかも!」
「ま、オレはオールドボーイ派なんだけどなっ」
ハニーが先輩と一緒になって盛り上がっている。
シェーンハイト、絶対無敵のチャンピオン。女優や歌手としても大活躍中。
輝かしい戦歴、実力、美貌に魅了され、憧れる者は後を絶たない。今もっとも注目されている、世界最強のエデンズブリンガー。
鍵玻璃は画面の中でフラッシュを浴びる女王を見つめ、拳を握った。
―――違う、あなたじゃない。あなたはそこにいるべきじゃない……!
きつい頭痛が眼球にまで伝播してくる。目元を覆う手袋の黒が、徐々に赤みを帯び始める。全身を強張らせると、リビングに背を向け暗い廊下に踏み込んだ。
その足を、妹の声が引き留める。
「お、お姉ちゃん、戻っちゃうの? 一緒にご飯食べようよ。先輩がご飯とかお菓子とか作ってくれたよ? それにずっと部屋に籠もってたら……」
「……休ませて」
「あ、ちょっと! お姉ちゃんってば! せめてお薬だけでも……!」
ぎし、ぎし、とフローリングを緩慢に踏む音が、しんと静まったリビングにまで響いてくる。
一同が、闇に溶け込むようにして離れて行く鍵玻璃を見送っていると、ソファの上で体育座りをした少女がぼやいた。
「そっとしておけば。
「うう……でも」
「それに多分、あの人、
「う゛っ」
ナイフで刺されたかのような反応をしたのち、
その手から、水の入ったコップが滑り落ちかける。一番の年長者である大人びた女性が底を支え、解恵をソファに導いた。
先輩が唇をへの字に曲げて、小柄な少女を指差し咎める。
「チビっ子~、もうちょっとお前、言い方とかさぁ……」
「あんなことたら、嫌われても仕方ないと思う。あとチビっ子って言うな……!」
ふたりが口論する横で、大人びた先輩が
廊下の奥から聞こえるバタンという音が、ますますリビングの空気を重くした。
和気あいあいとした空気が冷める。誰もがこの雰囲気をどうするか悩んでいると、ライブ映像から勇ましいBGMが鳴り響いてきた。
派手なツインテールの少女が、ここぞとばかりに配信画面へ身を乗り出し、解恵を叩いた。
「おっ、CM始まった! かなえんも先輩もこっちおいでよ! 見よ見よ!」
「あ、うん……」
生返事をした
姉の姿は、もう見えない。
―――お姉ちゃん……。
解恵はためらって足踏みしていたが、結局先輩に連れられて、友人と一緒のソファに腰を下ろした。
始まるプロモーションビデオ。エデンズフォーム・ディザスターズと書かれたロゴを、大きな白い羽根が包み、語り部が重い口調で言葉を紡ぐ。
“絶えず……世界は嵐に襲われてきた”
“積み上がっていく無数の死。天災、人災。過去から未来にまで至る、果てしなき戦いの連鎖。今こそ……断ち切れ!”
仰々しいキャッチコピーは、部屋に戻った
鍵玻璃は扉に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。かけっぱなしのゴーグルは、通知とともに解恵たちが見ているものと同じプロモーションビデオを流す。
旗を掲げる女騎士。カンテラで夜を照らす冒険家。身を起こす骸骨たち。
それらの光景を機械の天使が……シェーンハイトの切り札、“極光のエタニティオン”が抱き寄せる。
“たとえ儚き夢であろうと、我らは進む。泰平の楽園へ! 血に濡れていない地平を目指して! 迷わず……進め!”
“マスターピースカードゲーム、エデンズフォーム・ディザスターズ。新オールマイティパック。
“我らの道は、途切れることなし”
作り込まれたPVは、
エデンズフォーム・ディザスターズ―――通称エデンズ。今世界中で大人気の、
個人で異なるカードや戦術、そして大迫力の対戦は数億人を魅了し、今やプロとその養成学校が作られるほど。
プレイヤーはエデンズブリンガー、あるいはブリンガーとも呼ばれており、かつては鍵玻璃もその一人だった。いや、今でもそうと言えなくもない。
鍵玻璃は指を持ち上げ、エデンズのアプリを開く。
タイトル、メインメニュー、デッキ編成画面と移動。いくつかあるデッキの中からひとつを選び、そのリストを表示する。目当ては、一番最初にあるカード。
拡大されたカードには、宇宙服に似たアイドル衣装を纏う銀の少女が描かれていた。星座のような冠を戴き、グランドクロスを背負ってポーズを決めている。
その名を、“
じっと見つめているうちに、あの狂騒がぶり返してくる。
拍動のたび、心臓が痛む。抗いがたい衝動が指の先まで駆け巡る。それに耐え、拳で胸元を擦ってみるが、その程度では収まらない。破砕音が頭の中で次々響き、理性を苛む。
鍵玻璃は激しく首を横に振った。
―――やめて……出て行って! あんなの、私じゃない……!
急いで音楽アプリを開き、スラッシュメタルで頭を埋める。斬り刻むようなギターの音色とヒステリックな甲高い声が、すべての思考を八つ裂きにした。
大音量の音楽、視界を埋めるミュージックビデオ。荒ぶるステージライトに集中すると、少しだけ気分が落ち着いてきた。
別に、メタルが好きなわけではない。本当に聞きたい歌は他にある。だが、それらは既に失われ、歌い手とともに忘れ去れた。
残されたのはただひとつ、メリー・シャインのカードだけ。
楽器をかき鳴らす指先、デスボイスで歌う同年代の少女の顔を凝視する。できる限りたくさんの情報を取り込んで思考を圧迫していると、急に
あの妹は、ルームメイトと何を話しているのだろう。姉を心配しているのか、一緒にアイドルを目指すと吹聴しているのか。
それとも、絶望の表情で恨み節を吐いているのか。
どれであっても変わらない。彼女は拷問じみた苦痛をもたらしてくる。
「助けて……誰か、解放して……!」
掠れた声は、絶叫じみた歌をすり抜ける。
顔を上げると、そこはARのライブフロアなどではなかった。さきほども見た、白い砂漠だ。目の前に、いつの間にかあの死神が佇んでいた。
喉に舌が張り付いて、息ができない。ローブを羽織った影越しに、巨大なモノクロームの卵が見える。
恐怖が脳を麻痺させて、自分ではない何かの叫びが胸を突き破ろうとする。
意識が遠くなり、視界が黒く狭まっていく。程なくして完全に目を塞いだ暗黒の中に、メリー・シャインの面影が映り込んだ。鍵玻璃は縋るように問いかける。
―――教えてよ、メリー・シャイン……これは、どっちなの……?
―――
―――わからない……もう何もわからない……。教えてよ、お願い……!
過去の記憶が流れ出す。
一緒に踊る幼い
ごうごうというノイズの中に、様々な人の声が混じった。
知らない、知らない、知らないなぁ、誰? そんな言葉の数々が、自分の悲鳴で塗りつぶされる。だんだん悲鳴が大きくなる中、記憶の映像が血の色に染まり始めた。赤くなった自分の手、押さえつけてくる大人たち。階段から落ちた妹。
白い砂漠に幾度となく迷いんだ鍵玻璃に、その都度死神が鎌を振るう。卵が孵る。猛禽じみた耳障りな声。赤黒い怪物の影。悪夢の中の存在たちが、鍵玻璃を貪り喰らおうと押し寄せてくる。
繰り返される。そのたび大きく、大きくなって、脳がパンパンに腫れ上がっていくような感覚がして……。
突然、過去の声がぴたっと止まった。閾値を超えて、もはや何も聞こえなくなる。
突然訪れた静寂の中、鍵玻璃は儚く小さな言葉を残した。
―――なんて、なんて悪い夢。
座り込んだ鍵玻璃の目から、光が消える。白と黒の死神は、灰色の刃を備えた大鎌を掲げると、少女に向けて振り下ろした。