頬を一筋の涙が伝った。
無残な姿を見て、立ち去ろうとしたそのとき。
「あれまあ。全部、一人で殺したわけ?」
「誰だ」
ギッシュがあらわれた男を見て、美しい顔を歪めた。
「キヅチって者だけど。どんな奴が暴れてるのかと思ってきてみたら。まさかこんなにもイケメンだったとはね。ギッシュ・キルロール。〝孤高の鬼神〟と呼ばれるだけのことはある。手を組まない?」
「は?」
ギッシュは涙を拭って、訝しげな顔をした。
「こっちの正体を明かさないとだね。〝回収屋〟の元締めなんだ。骸の状態がいいから、もしこれからも誰かを殺すのであれば、その後始末を引き受けるよ。腕は確かなようだし?」
「俺はずっと誰かを殺していく。だが、どうやって殺す人間を見つければいいのか、分からない」
ギッシュは溜息を吐きながら言った。
「じゃあ怖い通り名でも決めよう。〝冷酷な鬼神〟なんてどう?」
「いいとは思うが。……なんのつもりだ?」
ギッシュは疑いの目を向けた。
「こっちで、その通り名の噂を流しておくから。それで誰かがきたら、法外な金を要求するなり、後悔しないか確認するなり、好きにすればいいよ。やってみなきゃ分かんないしね。殺しが終わったら、骸の現在地をメールするだけ。簡単でしょ? はい、これ」
ギッシュは黒のスマートフォンを受け取った。
「……分かった」
これがギッシュとキヅチとの邂逅だった。
――なにかを得たいのなら、大事なモノを犠牲にしなければ。俺は誰も傷つけずに生きられそうもない。人の闇を見続けるしかないのかもしれない。
ギッシュはそんなことを思った。
* * *
「長くなったな。悪い」
窓を見て日が落ちていることに気づいた、ギッシュが言った。
「いいんですよ」
ヴァネッサが泣きながら言った。
「それから俺は〝冷酷な鬼神〟と名乗り、オーダーを受け始めた。その中で思ったんだ。この国には誰にも知られていない、闇の側面が確かにあるのだと。警察や、法律があてにならない人が、いきつくところがない。俺はそんな人達のために、裏稼業として殺しを引き受け、代わりに彼らの恨みや怒りを晴らすことにした。これが正義だ、なんて思っちゃいない。誰も救われない。だが、見て見ぬフリはしたくなかった」
淡々と語ったギッシュの横顔には、表情が失せていた。
「……あなたは、自分のことが大事じゃないんですか?」
「そうだな。今さら自分を大事にできないしな。怪我をすることは仕方のないこと」
「怖くないんですか……? 死と隣り合わせで」
ヴァネッサは涙を拭いながら言った。
「恐怖はない。ずっと死とともに生きてきたからな」
「哀しいです! あなたは傷ついてボロボロなのに、誰にも言うことなく、独りで抱え込んできたんですよね?」
「そうだ」
ギッシュは低い声でうなずいた。
「なんで、辛いって言えないんですか!?」
「言えるわけがないだろ。誰も聞く奴なんかいない」
「私が聞きます!」
「は?」
ギッシュは思わず聞き返した。
「ここにいるだけなんて、嫌です! 話を聞くくらいしかできませんけれど、なにもしないよりはいいです!」
「怪我の内容くらいなら、話せる」
ギッシュは右手で頭を掻き、溜息を吐いた。
「今回はどれくらい大人しくしていないといけないんです?」
「明日まで。風呂はやめておく」
「今度で構いません。私の話も聞いてください」
「分かった」
短い一言に、ヴァネッサは微笑んだ。
ヴァネッサは風呂をすませ、自室に戻った。
――本当に、強い人ですね。その反面とても哀しい人にも見えます。
まさか、そんな異名を持っている人が、誰よりも痛みを引き受けていたとは、驚いた。
自分のことなんて、本当にどうでもいいのかもしれない。過酷な中、今まで生きてきたことに、出会えたことが奇跡なのではないか。そんなことを思った。
ヴァネッサがギッシュにできることは、そう多くはないし、大したことはできない。
せめて、オーダーのたびに生きて戻ってきてくれたら。ヴァネッサはそれを願うことしかできなかった。