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第5回

「こっちです」


 言葉で説明するより見てもらったほうが早い。加奈子は案内するように先に立って歩き出し、政秀は黙って後ろに従った。

 ドアのない正面玄関を入ると、がらんとした空間がある。床の変色具合からしておそらく靴箱があったのだろうが今はなかった。作業員によって運び出され、解体されたに違いない。ほとんどが作業員のものだと推察できる、大人の靴跡だらけの木でできた長い廊下が正面にあり、右側に横並びで3部屋あった。一番奥の突き当たりにあるのが階段だろう。


 外から眺めた時点で分かっていたが、この2階建て校舎は部屋数が少ない。建てられた当時18人しか生徒はいなかったのだから、むしろこれでも多いほうだろう。引き戸の上に室名札、廊下の壁に掲示板と、内装は学校だが、構造は民宿に近い。


 1階にあるのは教員室、食堂、文芸・工作室。それらの前を通って廊下を進む。大きな窓からそれぞれの室内がのぞけた。窓は格子状のすりガラスが嵌まっていたが、どれも経年で変色し、割れるか、ひびが入っている。中の様子は外観から想像していたとおり、廃墟のそれだった。漂う空気はほこり臭く、かすかにカビ臭い。木製の壁、天井、全てが風雨に浸食されて黒ずみ、割れた窓から入った土とそこから生えた雑草だらけの床に、壊れた天井板の一部が垂れ下がっている。机、椅子、棚などといった物がなく、がらんどうの部屋の中央に砕けた一部の木片があるだけなのはいささか不自然に見えたが、おそらくそういった大物はすでに作業員が運び出したあとなのだろう。


 廊下も同じで、政秀が足を乗せ、体重をかけるたびにぎしぎしときしみ音をたてる。老朽化がかなり進んでいて、場所によってはもろく、踏み抜きそうなほど湾曲する所もあった。


「こっちだってば! 早く早く!」

 政秀と違って何度もここへ入っている美都子には、廃校舎内のそういった一切はもう関心のらち外なのだろう。周囲に目を配りながらゆっくり歩く政秀には付き合えないというように横をすり抜けて前へ出、軽やかな足取りで後ろを振り返って彼を急かしてくる。

「おじさんはやっぱり、歩きが遅いなー」

「おじさんじゃない。おまえがせっかちなだけだ」

「あっ、それ、よく言われるー」

 くるっと回転して、あははっと笑う。

 その笑顔は、ようやく彼女の話をまともに聞いてくれる大人、弟を見つけてくれるかもしれない大人がやって来た、という安堵から出たものなのかもしれなかった。


 階段付近は窓がなく、雨風にさらされていない分、壁や床はましだった。ただし、その分暗い。踊り場の上に採光用のはめ殺しの小さな窓があったが、政秀の親指ほどもありそうな太い木のツタが何重にも重なって覆っていて、光はほとんど入ってきていない。

 加奈子は踊り場にいて、階段の下にたどり着いた2人に、「ここです」と奥の隅を指した。

「英ちゃんは外の暗がりと同じくらい校舎を怖がっていて、中に入るのを渋ったんですが、ちょうど小雨が降り出したこともあって、ここへ避難したんです」

 道中、雨が降るかも、と言っていたのを腹立ちまぎれに頭から否定してやりこめたのを思いだして、美都子は視線をそらす。

 政秀は10段ほどの階段を途中まで上がり、そこを見た。そこもやはりほこりが積もって上へ行く靴跡だらけだったが、加奈子が指し示した隅だけほこりがない。

「ここで美っちゃんが下りてくるのを待とうね、って。最初のうち、英ちゃんは怖がっていたんですが、ここでじっと雨の音を聴きながら座っていると、だんだん慣れてきたのか退屈するようになって」



 そのうち、もぞもぞ身じろぎするようになった。お尻が落ち着かない。

『英ちゃん、もしかしてトイレ行きたいの?』

 見当をつけて訊くと、英一は恥ずかしそうに俯いて、小さくうなずいた。

 お手洗いは別棟だった。廃校舎から少し離れた場所に平屋で建っていて、当然くみ取り式だ。水洗ではないので使えるとは思うが、老朽化していて危ないかもしれない。

『我慢できない?』

 と訊くと、頭を振られてしまう。

 どうしようか迷っていたら、すっくと英一が立ち上がった。

『……ぼく、ちょっと、行ってくる! かなちゃんは、ここで待ってて!』

『えっ? わたしも一緒に行くよ?』

『いいから! 待ってて! すぐ戻ってくるからっ』

 言い捨てるように英一は階段を駆け下りるとばたばた廊下を走って行ってしまった。



「あの子、生意気にも加奈子のこと好きなのよ。小っちゃいくせに。だから恥ずかしかったんだと思う。家だと夜中にあたしのとこ来て「怖いからトイレについてきて」って言うくせにさ」

 姉に対してはそうだろう。美都子は口をへの字にして、姉としてないがしろにされていると憤慨しているが、政秀にもそれと似たようなことで身に覚えがあった。もう30年近く前の話だが。


 そういった話を片手間に聞きながら、政秀は階段の下に作られた物置の開き戸を開けた。

 階段の形で三角の形をして、天井が低い。色あせた毛布や布、それにこまごまとした掃除道具が放り込まれている。奥に行くにつれて細くなっており、奥の壁のフックにかけられたほうきに手を届かせるには中へ入るしかない。政秀のような大柄な大人は腰をかがめればどうにか入れそうだが、おそらく身じろぎするのも難しいだろう。

(まあ、入りたくもないが)

 たっぷり3センチはあろうかというくらい砂ぼこりが堆積した床を見ていると。

「どうしたの? そこ、何もないよ?」

 美都子がやってきて、肩口から一緒に中をのぞき込んだ。

「ああ、何もないな」

 政秀も応じて開き戸を閉じる。

 立ち上がり、腰を伸ばして後ろで立っている加奈子を見た。

「それで? 英一は戻ってきたのか?」

「ううん」

 答えたのは、やはり美都子だった。

「あたしが上の教室の写真を撮り終えて階段を下りたらそこに加奈子がいて。英一がトイレに行ったって聞いたから2人で戻るの待ってたんだけど、いつまでたっても戻ってこなかったの」



『遅い! もうこれ以上待てないっ!』

 美都子は癇癪を起こして廃校舎から外に出た。小雨は上がっていて、外はもうすっかり夜だったが、星明かりで十分敷地の端から端まで見渡せた。

 美都子は平屋に向かってずんずん歩いていった。すっかり腹を立てていた。ここまで徒歩で1時間以上かかった。帰りは切り開いた道を下りるだけだから急げば20分くらいで自転車を置いてきた下の道まで戻れそうだったが、そこから家までたっぷり30分はかかる。

『絶対、お母さんたち怒るよ』

『美っちゃん……』

『加奈子んちだってそうでしょ?』

『うちは、今日はお母さん、遅いから……』

 加奈子の家は母子家庭だ。看護師をしている加奈子の母が夜勤の日だと確認して、今日ここへ来たのだ。

『でも、10時くらいに確認の家電入るって言ってたじゃん。それまでには戻らないとやばいよ』

 加奈子の母は、母一人子一人ということもあって、加奈子をものすごくかわいがっていた。優しい加奈子。いい子の加奈子。それに比べて美都子は言葉遣いが乱暴だし、がさつですぐ羽目を外してはしゃいではけがを負ったりする。それに巻き込まれる加奈子を心配するあまり、たびたび美都子を敵を見るような目で見ていた。

 「あの子とどうしても友達でなくちゃいけないの? 母さんは、加奈子には別の、もっとおとなしい子が似合うと思うんだけど……」遠慮がちではあったが、はっきりとそう言われたことを、加奈子は美都子に言っていない。言っていなかったが、美都子は感じ取っているようだった。

(今日のことがバレたら、今度こそおばさんに加奈子を誘わないでって言われちゃうかも)


『英一! いつまでこんなとこにこもってるの! 帰るわよ!』


 力いっぱい、がらりと平屋の引き戸を開けた。暗い平屋の中の個室の戸は開いていて、中には誰もいないのが入り口からもよく見えた。

『英一!? どこ!? いいかげん、隠れてないで出てきなさい!! こんなの、ちっとも面白くないんだから!! 怒るわよ!!』

 外に向かって大声で何度も名前を呼んだが、いくら待っても返事は返ってこなかった。



「それで、あたしたち、もしかして行き違ったんじゃないかって思ったの」

 廃校舎のどこかに隠れて、戻ってきた美都子たちをおどかそうとしてるんじゃないかとも思った。

 あれだけ怖がっていた英一がそんなことをするだろうか、と通常なら考えただろうが、そうであってほしいという気持ちが強かった。


 どこにもいないなんて、まさかそんなこと、あるわけない……。


 だが恐れていたとおり、いくら捜しても、英一の姿はどこからも見つけることができなかった。

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