――どうしよか。作業員さんじゃないみたいよ?
――同じだよ、どうせあの会社の人でしょ。
声の主は背後の資材の山のどこかに隠れているようだ。
政秀は気付いているそぶりをあえてせず、足元のスポーツバッグを持ち上げて肩に担ぎ上げると、廃校舎を眺めているふりを続ける。
――でも、作業員さんじゃないなら、今度こそ話を聞いてくれるかもしれないわ。
――同じだよ! きっと作業を再開できるか、見にきたんだって!
――じゃあ、どうするの……?
――前のときと同じ手でいこう! 加奈子は向こうで準備して。あたしがおびき寄せるから。
――……ん。分かった。気をつけてね、美っちゃん。
声の主は2人いて、どちらも少女のようだと見当をつけたとき。資材の影から1人が出てきた気配がした。
ひょいと体を横に移すと同時に後ろから飛んできた小石が頭の横を通り過ぎ、前の斜面に当たって転がる。動かずにいたら、ちょうど頭に当たっていたに違いない。
「危ないな」
振り返り、そこにいる少女に面と向かって言う。
TシャツにGパン姿で、日に焼けた健康そうな肌、鼻柱にはうっすらソバカスが散っている。頭の形がきれいに浮き出たショートカットの、見るからに活発そうな女の子だ。
背格好で、中学生くらいか、と政秀は見当をつけた。
一方、少女は石がまとを外れたことに驚いた様子で、石を投げた直後のポーズのままでしばらく固まっていたが、政秀が最初から彼女の存在に気付いていたのだと気付いた瞬間、ぱっときびすを返して逃げようとする。しかしそうすると読んで準備のできていた政秀のほうが素早く動けた。
「やっ……、放して!」
腕をつかみ止められ、少女は振りほどこうともがいたが、政秀は少女よりずっと大きく、びくともしない。
「放せったら! このばかっ! デクノボー!」
悪口とともにぶんぶん振り回されるもう片方のこぶしをつかんで殴られないようにしたら、今度は蹴りが飛んできた。
とんだじゃじゃ馬だ。
チッと舌を打ち、政秀は命じた。
「そんなことをしても無駄だ、やめろ! おとなしくしろ!」
しかしその言葉が少女の耳に入っている様子はなく。
「放せ! このチカン! ヘンタイ! ロリコン野郎!!」
体を揺すって暴れ、思いつくそばから口にしているだけの悪口雑言に政秀は閉口し、少女の手首を握る力を強めると両足のつま先だけがつくように少女の体を持ち上げた。
両手両足を封じられ、攻撃手段を失った少女に顔を近づけ、政秀は一言一言強調しながら告げる。
「いいか、少しの間でいいからその口を閉じて、俺の話を聞け。いいな? 俺がおまえに言いたいのは、たった一言だ。
おとなしくするなら放してやる。
さあどうだ?」
少女は目をぱちぱちとさせると、今の言葉が本当か推し量るようにしばらく政秀を見つめたあと、応じるように脱力して口を閉じた。
少女が自分の言葉に完全に従ったところで政秀は両手の拘束を解く。
自由になり、地面にかかとをつけた少女はまた逃走する可能性が大きかったが、意外にも約束を守って少女は逃げなかった。きつく握られていた手首をさすりながら政秀をにらみ上げ、
「ちょっと。痛いんだけど。ほら、見てよ。赤くなってる。これが大人のすること?」
ぷくっと不満げに片ほおを膨らませる。対し、政秀は「自業自得だ」と腕組みをして見返す。まるで我慢競べのようにしばらく互いに互いをにらみ合っていると、少女の後ろにある鉄骨の山の奥のほうからもう一人の少女のか細い声がしてきた。
「……美っちゃん、ま、まだ……?」
「あ! 忘れてた! 加奈子――」
「……も、わたし、限界……っ」
その震える言葉に少女はあわてて鉄骨の山の後ろへ走ったが、一歩遅かった。もう一人の少女が鉄骨をまとめているワイヤーロープをつかむ手助けをする前にワイヤーロープは少女の手からするりと抜けてしまった。
解き放たれて自由となったワイヤーロープはさながら頭をつぶされたヘビのように宙をのたうち回って暴れ、しゅるしゅるしゅるっと擦過音を立てて緩んでいく。
大きく目を
鉄骨が次々と地面にぶつかって転がる重くて大きな音に、2人の少女は思わず首をすくめてしまう。
「おじさん大丈夫っ!?」
大急ぎ、少女は表の政秀のもとへ戻ろうとしたが。
「だれがおじさんだ」
返答はすぐ近くから返ってきた。
崩れずに残った鉄骨の向こう側で、政秀が腕組みをして立っている。
どこにもけがを負っていないようだ。そのことに心からほっとして、そして少女はそう思ったことを悟られまいとするようにそっぽを向いて表情を隠した。
「俺はまだ38だ」
「アラフォーは十分おじさんじゃん」
唇をとがらせて生意気なことを返しながらも、この人38歳なのか、と少女は思う。180を軽く超えた長身、鍛えられた肉体と整った顔立ちのせいか、歳よりずっと若く見えた。
柔和さはどこにもなく、むしろ荒削りの岩のような鋭さがあり、一般的な美男とは認められないだろうが、猛禽類を思わせる険しい目の中にほのかに見える憂いの影が人の心を引きつけ、じっと見ているとその引き結ばれた唇に自分の唇を押し当てて頑なさをほどきたくなる女性も少なくないだろう。
少女はまだ幼く、女性としてそこまでの成熟さはないが、それでも十分、この男は並ならぬ魅力の持ち主だと感じ取れていた。その魅力が男の内側からにじみ出る力、ひいては己を知る自信に裏打ちされたものだと。
政秀と見つめ合っているうちに、少女の中で何かが動いた。
もしかするとこの人なら、自分の力になってくれるかもしれない。