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第1回

●2024/08/25


 幹線道路を1台の車が走っていた。


 山沿いの道はなだらかな上り坂になっている。見晴らしはよく、信号機はほとんどない。対向車もめったにない。要は田舎道だ。

 そういった場所であるならついついスピードを出しがちになるものだが、車は法定速度を遵守し、きっちり60キロで走行している。


 黒のセダン。とりたてて特筆すべき特徴のない車だ。そしてその車のハンドルを握っているのもこれまたとりたてて述べるほどのものがない男で、それでもあえて挙げるとするならば、一見しただけで高級品と分かるオーダーメイドスーツと、縁なしの眼鏡をかけていることだろうか。それと、額に一房だけかかった前髪。しかしこれも本人が気付いていないだけで、気付けばすぐ後ろになでつけられるのだろう。男についての印象を聞かれたなら、品のいい、家庭訪問のセールスマンではないかと、10人が10人そう答えるに違いない。


 徹底している。

 助手席に座った政秀せいしゅうは、そう結論づけると、ふらりと外の景色に目を戻した。運転席側は山腹を土砂対策のコンクリートブロックが覆った味も素っ気もないものだが、左は打って変わった絶景だ。


 この道路も山肌を切り開いて造られており、ガードレールを挟んだ向こうは崖で、その先は密集したいらかと庭木が広がっている。そしてその甍の波を越えた先には海が広がっていた。


 現在時刻は午後4時半。日の入りまで残すところあと1時間といったところか。黄色がかった朱赤のたそがれ色の空と落ちかけた夕日に染まった海。沖の水面では白波がまぶしく輝いている。全開した窓から入る風からは、かすかに潮の香がしていた。


 美しいが、それだけだ。


 5分で見飽きる景色だが、助手席に座っているだけでは、他に見るものもなかった。

 互いに無言のまま、数分が経過したころ。赤信号で停車させた男が、ぽつりつぶやいた。

「読まれないのですか」

 男が言っているのは、政秀が膝に置いたままの封筒についてだろう。

『向こうに着くまで2時間はかかります。その間に車内で目を通されるといいでしょう』

 迎えに来た車に乗り込もうとした政秀に、そう言って男が差し出してきた物だった。

 政秀はそれを無言で受け取ったが、1時間以上過ぎてもいまだ封筒は封を切られることなく膝の上に乗ったままだ。

「必要ない」

「ですが」

 政秀は食い下がろうとする男を一瞥いちべつし、

「必要な情報は契約前に全て出すことが条件だったはずだ。

 それとも、他に何か隠し事があったということか」

 と、逆に問うた。

「……いいえ」

 男は恐縮したように顎を引き、車を発進させる。


昨日さくじつ伯父貴があなたに話したとおりです。場所はこの先の山頂にある老朽化した廃校舎で、1カ月前にわれわれのグループ会社の佐久良建設が土地ごと購入して解体工事に着手したんですが、いざ工事が始まったとたん、不自然な事が多発して、作業員が怖じ気づいてしまったんです。「こんな所で働けるか」と、辞める者も出ています。その者たちが変なうわさを流すせいで、人員を補充しようと募集をかけても集まりが悪くて。

 このままでは期日に間に合わない、それはまずいんです」

「この先のトンネルの開通は、来年の夏だったか」

「そうです。トンネルが開通と同時に高速インターチェンジも開通します」

「地方中枢都市圏から遠すぎず、ほど良く離れた土地。海に山。近くには高速もあり、利便性も増した。リゾート開発には最適というわけだ」

「それもあります」

 男はこの周辺の土地を買いあさっていることを暗に認めた。

「ですが、今回あなたに見てほしいのは、山頂です」

「オーシャンビューホテルでも建てるのか」


 彼らがそこに何を建設する予定か、政秀は聞いていなかった。興味がなかったからだ。今も興味はなく、暇つぶしの相づち変わりに適当な文句を口にしているだけにすぎない。


「シニアレジデンスです。今の高齢化社会で老人を相手にするのは手堅い商売なんですよ」

 男の声には抑えきれない愉悦がにじんでいた。おそらくその構想に、この男も何らかの形でかんでいるのだろう。それから男は、そこにどういう建物を建てるか、そこで住む、あるいは保養地として購入する金持ちたちのためにどういった施設を併設するかを滔々とうとうと語り始める。

 男はレジデンス(邸宅)と口にしたが、どう聞いてもそれは専用病院付きの擁護老人ホームの集団住宅だった。


(つまるところ、ここは現代版姥捨山の1つというわけだ)

「見晴らしのいい山の上から水平線に沈む太陽を毎日眺められ、気が向けは海岸線を歩くこともできます。下の町との往復専用バスも完備、24時間コンビニもあります。

 どうでしょう? あなたも1部屋購入しますか? 手付けは8000万ほど必要ですが、あなたでしたら問題なくご用意できるでしょう。すでに9割が予約で埋まっていますが、最上階に空きがないわけでは――」

「不要だ」

 最後まで聞く気もないと、政秀は話を断ち切った。

 本当は相づちを打つのも面倒になり、もう好きなだけしゃべらせておけと考えていたのだが、話をこっちに持ってこられてはさすがに不愉快すぎて聞き流せなかった。


 男はそこでようやく彼がこの話に一切興味がないと気付いたらしい。確実にもうけられるこの投資話に興味を持たない者がいるのかと言いたげに少し驚いた表情でメールをしぱたかせ、それからこほっと空咳をした後、「ええと。それでですね」と話を戻した。

「その書類に書いてあることですが、昨日、新たな事象が起きました」

「ほう?」

 車に乗り込んで以来、初めて政秀が男へ真正面を向けた。

「2日前に聞いた話では、事象は、あちこちから笑い声や複数の走り回る足音が聞こえる、突然後ろから背を突かれる、どこからか小石が飛んできてヘルメットに当たる、作業道具が置いた場所から別の場所へ移動している、というものだったな。

 まるで子どものいたずらだ」

 くつりと笑った政秀の口元が、男の次の言葉で固まった。


「運び込んだ資材をひとまとめにしてあったワイヤーロープ止めが外れ、鉄骨が崩れたんです。逃げ遅れた作業員が足にけがを負いました。骨を折る重傷です」


 もはや子どものいたずらの範疇はんちゅうにとどまらないことだと男は言いたいのだろう、と政秀は見当を付けた。事態が悪化していると。

 その見方は正しい。事態は悪化している。だが子どものいたずらの範疇から逸脱したかということについては、彼は同意できかねた。

 ただし、その『子どものいたずら』に見えることが問題なのだと、政秀の雇用主の支倉はせくら りつは言った。


『あそこでは、4人の子どもが亡くなっているんだ。きみが生まれるずっと前の話だがね。

 作業員たちは地元民からそんなかび臭い話を聞いて今度のことに結びつけ、子どもの霊が今もいて、あそこを壊そうとする自分たちに怒っているんだと騒ぎ立てているのだろう。

 たたりだと? ふん。まったく、迷惑な話だ』


 ソファに背を預け、彼は深々とため息をついた。

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