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第13話

 修学旅行最終日、香村たち修学旅行生の一団は法隆寺へと向かった。

 法隆寺は世界最古の木造建築物として知られ、その荘厳な佇まいは圧巻の一言だ。

 聳える五重塔を見上げた。優雅な曲線と堂々たる姿は、時を超えて存在する神秘そのものと言える。塔の木材は長い年月を経て深い色合いを帯びており、歴史の重みを物語っていた。

 生徒たちはゆっくりと境内を歩き、金堂へと向かった。金堂に足を踏み入れると、そこには静謐な空気が漂い、仏像たちが静かに迎えてくれる。釈迦三尊像や百済観音像など、いずれもアルカイックスマイルと呼ばれる繊細な表情をたたえた仏像たちがその場に佇んでいた。


 法隆寺の見学を終えると少しの自由時間となり、皆法隆寺周辺に点在する土産物屋へと入って行く。家への土産は京都で買っていた香村も手持無沙汰だったためどこかの店へ入ろうかと周囲に視線を巡らせると、首からカメラを提げた廣川を見つけた。最終日も相変わらず仕事熱心にカメラを抱えて飛び回っていた彼は、何故か数人の男子生徒に囲まれている。

「あ、昨日の……」

 廣川を囲んでいるのが、昨日奈良公園で絡んで来たC組の生徒たちであることに気づいた香村はまた何か言われているのかと足を踏み出しかける。だが、意外にも廣川は笑って一言二言話した後にすんなりと解放されたようだった。何かを探すように視線を巡らせる廣川とぱちりと目が合う。彼は嬉しそうに目を細めて笑うと小走りに香村の元へとやって来た。

「香村もお土産買う?」

「いや、俺は京都で買ったから良いんだけど……さっきの、昨日の人たちだよね?」

 尋ねた香村に、廣川はこくりと頷いた。

「昨日は悪かったって。なんか、ナミにすげー怒られたんだってさ」

「榊原さんに?」

 何故ここで彼女の名前が出るのかと香村は首を傾げる。廣川はどこか照れくさそうにに頬を掻いた。

「昨日のアレ、ナミも近くにいたらしくて。俺や香村を馬鹿にすんじゃねーぞってマジギレだったって」

「え、俺も?」

「そう、マジになってる奴を笑うなってすげー剣幕だったらしくて。あいつらナミにビビってて俺に謝って来た」

 どうして榊原がそんなにも怒るのか、香村はますます疑問に感じる。彼女は以前廣川と交際していて今でも彼と仲が良い。だが、なぜ香村のことまで含めて怒ってくれたのだろうか。

「ナミは良い奴なんだよ。俺と同じで勉強は全然ダメだけど、俺と違って度胸があるっていうか……俺が香村にマジな事、たぶん一番わかってるから怒ってくれたんだと思う」

 確かに香村が知る榊原奈美はまさに度胸の塊といったイメージの女性だ。そもそも度胸が無ければ堂々と髪をピンクに染めては来ない。

「そっか、じゃあ俺も後で榊原さんにお礼を言っておかないと。一応、ほら……廣川君の彼氏なわけだし」

 自分で言っていて妙な気恥しさがある。昨日、宿泊先のホテルの庭で半ば勢いのままに廣川へ付き合ってみないかと提案したのは香村の方からだった。今までずっと廣川から好きだと言われ続けていて、香村はなんの返事も返さずにいたのだが、香村の中でふと廣川七瀬という男に対して自分の中で特別な立ち位置にいるのだということに気づいたのだ。それが恋愛感情であるのか香村自身もいまいち確証が持てないが、それでも良いならという条件を提示したところ彼は食い気味にそれで構わないと言った。

 そういうわけで、香村と廣川は昨夜からいわゆる交際状態に入ったのだ。

「……なんか言ってよ。俺、すべったみたいになってるだろ」

 昨夜と同じく両手で顔を覆って俯いた廣川に対し、香村は顔が熱くなるのを感じながら文句を言う。

「いや、だって……噛みしめてる」

「大げさな」

「大げさじゃないの、全然、俺にとっては全然大ごとなの」

 あの後、部屋に戻る道すがら廣川はぽつりぽつりと香村と初めて出会い好意を抱いた時の話をしてくれた。出会い、とは言っても香村自身は廣川に気づいていなかった為正しくは彼が香村を初めて見た時の話だったが、中学生の頃に両親の離婚により辛い時期があったことや、友達との距離に苦しんだ話は廣川のことを誰とでも仲良くなれるタイプの根明であると思い込んでいた香村にとって意外性に満ちた話だった。意外だと感じたということは、きっと香村も廣川に対して無意識に何かしらのレッテルを貼っていたということなのかもしれない。

 こんなことを言われても香村は困ると思って、と今まで香村を好きになったきっかけを話さずにいた廣川は苦笑を浮かべてその理由を教えてくれた。やはり、と思う。廣川は他者を困らせることを恐れる臆病な面があり、それは同時に対立を嫌う優しい面でもあるのだろう。

「昨日あれから朝まで眠れなかったんだよ」

「へえ、意外と繊細なんだね廣川君って」

「意外ってなんだよ~俺はすげー繊細ボーイなんですけどー」

 大げさな身振り手振りで嘆いてみせる廣川に、すれ違った観光客であろう親子連れがくすくすと笑う。繊細なことは知っているよ、と香村は思った。


 自由時間を終え、香村たち修学旅行生は名古屋駅から新幹線に乗り岐路につくこととなった。

 二泊三日の京都と奈良を巡る修学旅行はなんだかあっという間だったように感じた。寺社仏閣を巡るのは香村自身とても楽しかったし勉強になることも多かった。しかし振り返ってみれば、思い出のいずれの場面にも廣川が隣にいたような気がする。実際のところ彼は学校新聞のカメラマンとして香村の隣だけでなく方々へ行っていたはずなのだが、不思議とこの三日間廣川との思い出ばかりが蘇ってくるような気がした。

 もちろん、昨夜のホテルの中庭でのやりとりも。


「あ、コームラじゃん。駅弁食った?」

 トイレにでも行ったのか、座っていた生徒がいないのを良いことにピンク色の髪が特徴的な榊原奈美が当たり前の顔をして香村の隣の座席に座った。

「食べたよ。榊原さんは?」

「アタシも食べた。柿の葉寿司ってヤバくない? 美味すぎて笑う」

 確かに駅弁で食べた柿の葉寿司は驚きの美味しさだった。文字通り柿の葉で包まれた寿司だが、柿の葉にはビタミンCとポリフェノールの一種であるタンニンが多く含まれており抗菌・殺菌作用があるらしい。

 聞きかじった知識でそう言うと、榊原は長いつけまつげで縁取られた目を大きく丸くして素直に感嘆の声を上げた。

「なんでも知ってんなーコームラは」

「いや、なんでもは知らないよ……それより、榊原さん。あの、昨日はありがとう」

 香村が彼女に向き合ってそう言うと、彼女は楽し気に笑った。

「あー奈良公園のやつ? すっげームカついたからアタシが勝手に暴れただけじゃん」

「でも、その……怒ってくれて嬉しかったから」

 ふうん、と榊原は大きな目を細めて香村をまじまじと見る。香村自身人の目を見て話す方だとよく言われるが、彼女のように目力の強い女性に凝視されると不思議と後退りしたくなった。もちろん、新幹線の座席に座っているので実際に後退りなど出来ないのだが。

「付き合うんだって?」

 ああ、廣川は彼女に言ったんだなと思った。自分のことを一番知っている人だと廣川は榊原を指して言っていたので、それだけ彼女を信頼しているのだろう。

「うん」

 頷いた香村に、彼女は細めた目を笑みの形に変えた。猫のような目をした廣川にどこか似ている、と香村は思う。

「そっか。七瀬も頑張った甲斐があったってワケだ。アイツのことよろしくね」

 彼女はそう言って痛いほどに強さで香村の肩をばしばしと叩いた。衝撃でずれた眼鏡を直しながら香村は彼女に向き合い、なるべく頑張りますと言うしかなかった。


 学校の最寄り駅で電車を降りるとその場で解散となる。生徒たちは大きな荷物を抱えているので寄り道することなくそのまま家路へつく者が殆どだろう。香村も修学旅行のために購入したスーツケースをガラガラと引きながら駅から家まで歩いて帰るつもりだった。

「香村、一緒に帰ろう」

 少し歩いたところで声をかけられ振り返ると、大きなスポーツバッグを抱えて小走りで廣川が後を追ってきたところだった。

「構わないけど、家まで歩くつもりだよ?」

「良いよ、俺は香村と分かれたらバスに乗るから」

 午後のまだ日が高い時間帯に家路につくのはなんだか非日常感がある。テスト期間も普段の時間割とは異なる為ふわふわとした心持になることがあるが、それとも違ったそわそわとした気持ちになっていた。

「あ、カメラは?」

「駅前で新聞部の奴らに渡した。すげー撮っちゃったから選ぶの大変だぞー」

「何枚撮ったの?」

「千枚くらい?」

「そんなに?!」

 たくさんシャッターを切っているなとは思っていたが、どうやら香村の思っていた以上に彼は張り切っていたようだ。

「楽しくなっちゃって」

「うん、楽しそうだったからな廣川君」

 よくそんなに違うクラスの中にも入っていけるなと感心したものだ。それに、皆廣川が声をかけてカメラを向けると楽しそうにしていたように思う。香村にはけして真似のできないことだ。

「えーなになに、俺のこと気になって見てたんだ?」

 廣川が冗談めかして笑いながらそう言った。

 香村はふと思い返す。そうか、と思った。この三日間の修学旅行で思い出の中に常に廣川の姿があるのは、そういうことなのではないか。

「そう。きっと、俺は廣川君のことが気になってずっと目で追ってたんだと思う」

 不意に少し前を歩いていた廣川が立ち止まった。十月も下旬、人通りの殆ど無い昼下がりの路地を涼しい風が吹き抜ける中香村も自然と足を止める。

 廣川が香村の空いている左手を取った。少し汗ばんでいて、体温が高い。しっかりと制服のブレザーを着ている香村と違い廣川はブレザーのボタンを全て外している。一見して正反対の人間に見えるのかもしれない。

 俯いた彼の、長い前髪で表情が伺えなかった。

「廣川君?」

 声をかけると廣川が顔を上げる。いつも楽し気に笑っている琥珀色の目が、じっと香村を見つめた。その瞳に籠められた熱を感じた気がして香村は少し怯んでしまう。しかし、握られた左手は離してくれる様子はなかった。

「香村、嫌だったら言って。嫌じゃなかったら……キスして良い?」

 唐突とも思える彼の言葉に香村は目を丸くする。涼しい風が吹いているというのに、じわりとうなじに汗をかいているのがわかった。キスをする、という言葉の意味を常ならば良く回る頭がなんとか理解したころにはもう廣川の見慣れた顔が見慣れぬ位置にまで迫っていた。

 咄嗟に目を閉じた。甘さと爽やかさの混じった香りが強くなり、ふわり、と唇に柔らかなものが触れたのが分かったがそれはすぐに離れてゆく。ぱち、と目を開くと廣川は目尻をわずかに赤く染めて嬉しそうに笑った。

「……貰っちゃった、香村のファーストキス」

「……ん?」

 心臓が痛いほどに跳ねていたが、廣川の呟いた甘さを含む声に香村は思わず声を上げた。廣川は少し驚いた様子で真正面から香村を見て、そしてすぐに眉尻を下げた。

「……え?」

「あー、えっと」

「待って! え、もしかして……初めてじゃ、ない?」

 恐る恐るといった様子で尋ねた廣川に、香村は何故か若干の申し訳なさを感じながら小さく顎を引いて頷く。

 人通りの殆ど無い住宅地の路地の一角で、廣川の情けない嘆きの声が響いた。

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