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第12話

 修学旅行二日目、奈良のホテルの中庭はすっかり夜の気配が濃くなっていて、遊歩道を橙色の明かりが足元から照らししっとりと雰囲気のある景色になっている。庭に出ている宿泊客は他にいないようで、十月の少しひんやりとした風が心地よく吹きわたっていた。

「ごめん、その……立ち聞きしようと思ってたわけじゃなくて」

 開口一番に謝ってきたのは廣川だった。足元の明かりとホテルから洩れる暖かな明かりのお陰で近づけばきちんと彼の表情を窺い知ることが出来る。彼はばつが悪そうに苦笑を浮かべた。

「良いよ、言い訳を聞きましょう」

 聞かれたものは仕方がないと香村が大仰に頷くと、廣川は困った様子で頬を掻く。なんだかここまでしおらしい様子の廣川は珍しい。

「奈良公園で、香村にすげー迷惑かけちゃったから謝りたくて」

「別に廣川君が謝る事は無いだろ」

 むしろ彼は被害者と言っても良い。だが、廣川は首を横に振った。

「俺は別に何言われても良いんだけど、香村を巻き込んじゃったから」

 苦笑いを浮かべてそう言った廣川に対し、香村はまたじわりと胸の奥が焼けるような不快感を覚える。何だか今日はやけに感情が高ぶってしまっていけない。そう思うのだが今日の香村は一度緩んでしまった感情の箍が外れやすくなってしまっているようだった。

「巻き込んじゃったってなに。いつも俺のこと構ってくるのに、こういう時だけなんでそんな事言うんだよ」

 まるで自分が悪いとでも言いたげな廣川の言い方が気に入らない。香村は目を丸くしている廣川を正面から睨みつけた。

「何言われても良いわけないだろ。誰も、廣川君を傷つけて良いわけないんだよ」

「俺は、別に傷ついてなんか」

「傷つけよ、酷いこと言われたんだぞ。傷ついて、怒るべきだよ。鈍感になるなよ、俺がこんなに怒ってるのに!」

 これではまるで八つ当たりだ。自分だけが腹を立てているのが馬鹿らしく思える。それでも、気に入らないものは気に入らなかった。

「俺は廣川君が傷つけられるのは嫌だよ。廣川君は優しすぎる。そんな廣川君が無神経に傷つけられるの、俺は我慢できない。そんなの理不尽じゃないか」

 拳を握り、思うがままに声を上げる。声量を抑える努力だけはなんとかしていたが胸の中を渦巻く怒りが抑えられない。

 不意に視界が塞がれた。驚いている間もなく、香村は廣川に正面から抱き締められていることに気づきドクリと心臓が大きく鳴った。

「っ……急だな」

「うん……ごめん、でも……我慢できなかった」

 ぎゅう、と香村を抱き締める腕に力が籠る。少し苦しいくらいの強さで抱き締められながら、頬に当たる髪の柔らかさを感じる。ふわりと甘さを含んだ爽やかな香りが鼻腔を満たし、香水だろうかとどうでも良いことを香村の良く回る頭は考える。何に怒っていたのか、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。

「俺、香村のこういうところが好き」

 抱き締められながら呟かれたのは独り言じみた言葉。腕の力を緩めないままに廣川はこれまでのような余裕のある態度も軽薄な仕草もかなぐり捨てて、まるで縋るように香村を抱き締めたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「他人の理不尽に怒ったり、反論したりしてくれるところがずっと好きだった」

「……ずっと、って」

「初めて香村を知った時から、ずっと」

 そんな話を、香村は知らない。一目惚れみたいなものだったと言ったくせに、何も一目惚れではないではないか。

「覚えてない」

「うん……俺が一方的に香村を知って、勝手に救われただけだから」

 救われた、という言葉に重さを感じてしまう。香村は自分が廣川を救った記憶など全く無いが、彼は救われたと感じる程の何かを背負っていたのかもしれない。そう思うと、明るく優しく誰とでも仲良くなれそうな廣川七瀬という男を、不器用な人だなと思った。

 ドク、ドク、と、ずっと心臓が大きく音を立てている。抱き締められて中途半端に上げた両腕をどうしたらいいのか分からない。そのまま下すのもおかしい気がして、香村はそっと彼の広い背中に掌を置く。自分のものとは違う筋肉のついた男の背中は少し体温が高く感じた。

 不意に、ドクドクと心臓の音が走り出すように早まった。

 いや、違う。これは……廣川の心臓の音だ。

「うー……やばい」

 突然呻きだした廣川に、香村は慌てて強引に彼を引き剥がす。具合でも悪くなったのかと彼の顔を見れば、彼は情けないほどくしゃりと顔を歪ませて苦笑を浮かべた。

「香村のこと、好きだ」

 真正面から紡がれた言葉に香村は思わず息を飲む。自分が背中に触れただけで驚くほどに鼓動を速めた彼の心臓を思い、じわりと耳から顔が熱くなってゆく。何度も彼の口から聞いた言葉であるにも関わらず、何度もはぐらかしてこれた言葉であるにも関わらず、今日は何故か彼の目から視線を外せない。

「ひ、ろかわくん」

「好きだ、香村。誰にも取られたくないんだ」

 取られるって何だよ、人を物みたいに言うな。そう言いたくて唇を開き、喉に舌が貼り付いたかのように言葉が出て来ない。胸が痛い、苦しい、体が熱くて息が浅くなってくる。それでも、彼の情けなく下がった眉と請うような琥珀色の目から逃れられないのがわかった。

「っ……俺は、別に、廣川君が思ってるほど良い奴じゃないよ」

 先ほども女の子を泣かせてしまった頭の固い人間だ。そういう自覚はある。理不尽が嫌いで、頑固で、人の感情に疎くて……欠点がいくつもある人間なのだ。だからきっと、それを知れば廣川は興ざめするかもしれない。

「良いよ」

 廣川は簡単な事のように一言そう言うと、猫のような大きな目を細めて笑った。まるで愛おしいものを見るように、大切なものを見るように。その視線の先には、香村がいる。

「俺だって、全然良い奴じゃないよ。香村みたいにちゃんと人に意見するのが苦手で、なあなあで済ませようとするし。誰かに嫌われるのも怖いし」

 いつも明るいクラスのムードメーカーである廣川の、それはきっと本心に近い言葉なのだろう。香村はそう思った。

 なによりそんな脆く柔らかい部分を自分に見せてくれた廣川七瀬という男を、ああ、可愛い男だなと思ったのだ。

「なあなあにするんじゃないよ」

「……ごめん」

「俺にはあんなに強気にぐいぐい来るくせに」

「だってそれは、誰にも取られたく無くて」

 廣川七瀬は策士なのだと、そう思っていた。恋愛に慣れていて、駆け引きが上手くて、策を巡らせて追い込もうとしているのだと。

 けれど、もしかしたらただ臆病なだけなのかもしれない。好きな人を誰にも取られたく無くて必死で、それでも恰好だけはつけたかっただけなのかもしれない。

「じゃあ……つき、あう?」

 馬鹿みたいに心臓が跳ねていた。背中に触れられた時の廣川など比では無い程にバクバクと暴れる鼓動をどうか聞かれないようにと願いながら、少しだけ余裕ぶって見せたくて問うてみる。

 廣川は一瞬何を言われたのか分からないという様子でポカンと間の抜けた顔をした後、みるみる動揺しはじめて終いにはその場で屈み込んでしまう。

「えっと……今、付き合うって言った?」

 廣川の前に同じように屈みこんだ香村はこくりと顎を引いて頷く。

「うん。期待に応えられるかわからないけど」

 自分は吉野のように恋愛に興味が無いのだと言い切れるタイプではない。どちらかと言えば女性を恋愛対象としてきたが、なんだか昨日も今日も廣川の事ばかり考えている事に気づいて腹を括った。この男が傷ついて欲しくない、傷つけられることが許せない。そんな激しい衝動が自分の中に存在していることに気づいて、もう言い訳出来なくなっていた。

 廣川は両手で真っ赤になった顔を覆う。

 香村の耳に、蚊の鳴くような声が辛うじて耳に届いた。


「よろしくお願いします……」

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