スピーチコンテストへ参加することになったのは、英語教師であるクラス担任の推薦があったからだ。香村が自分から積極的に応募したいと言ったわけでは無い。そのようなコンテストが存在することすら知らなかった。
そもそも香村健臣は自分から行動する、といった積極的なタイプでは無い。保育園児のころはヒーローごっこをしてもだいたい敵構成員役であったし、イベントの実行委員などに立候補したことも無かった。ただ、昔から勉強だけは得意なタイプだったので推薦されて委員長的な立場になる事はある。現在二年B組でクラス委員をやっているのも他薦であり、香村は部活動にも入っていないからまあ良いかとそれを受けただけである。頼まれると断れない性格と言えばなんだか優しい人間のようであるが、実際の所はただ自分で何かを決められない決断力の無い人間というだけだ。香村は自分のことをそう分析している。
「うーん、まず香村の場合は自己アピールが課題な気がする」
自己アピール……と香村は廣川の言葉を鸚鵡返しに口にする。
英語スピーチコンテストの県大会に向けて担任教師直々に香村へのアドバイザーを任された廣川はやる気に満ち溢れているようだ。本当に廣川と香村は仲が良いなと担任教師に満面の笑みで言われたが、香村にしてみれば何故か懐かれているという感覚が正しい。
ただ、つい先日廣川が香村に向ける感情が所謂恋愛感情であるとはっきり確信してしまった。もちろん高校生にもなってあからさまに寄せられる好意の意味を理解出来ないほど初心ではないつもりだが、面と向かって好きだと言われるとどうして良いのかわからない。付き合って欲しいと言われたわけでも、同じだけの気持ちを要求されたわけでもない為なおさらどうしたら良いのかわからなくなってしまうのだ。確かに、何においても自己アピールが課題なのかもしれない。
「ボディランゲージ……みたいなこと?」
スピーチ練習の為宛がわれた放課後のLL教室は開いた窓から心地いい風が入り込み、西日を遮る為に引かれたカーテンが膨らんだり萎んだりしている。同じ階にある音楽室からは吹奏楽部の練習の音が漏れ聞こえてくる中で、教室にいるのは香村と廣川の二人だけだった。
「確かにボディランゲージしてる人もいたね」
廣川はそう言って手元のスマートフォンを見た。
教壇側に立っているのが香村で、廣川は手元でスマートフォンで去年のスピーチコンテストの動画を確認している。ダンス部だから、香村と仲が良いからという理由で練習の手伝いを申し付けられてしまった廣川だったが彼は随分と楽しそうだ。
「俺はそういうの苦手なんだよなあ」
身振り手振りといった表現は確かにスピーチの内容を伝えるのに効果的だとは思うが、どんなことでも人には向き不向きというものがある。
廣川の手元にあるスマートフォンを覗き込めば、確かに昨年の全国大会出場者の中には身振り手振りを使って大胆なパフォーマンスを取り入れたスピーチもあった。香村にはとても出来そうに無い。
下を向いていたためずれた眼鏡を直しながら顔を上げると、思いのほか至近距離に廣川の顔があって驚く。
「……近いな」
「近づけてるし。俺香村の顔が好きだから」
「真面目にやって」
「やってるやってる」
本当かなあ、と思いつつ協力してくれていることにはとても感謝しているのでわかったからと言って廣川の頭を押しやる。以前から距離感が近いとは思っていたが、先日面と向かって自分が香村を好きになったのはいつからなのかスピーチコンテストが終わってから教えると言われて以来どうにもその近さが気になってしまうようになっていた。
「香村はボディランゲージは苦手だけど、人の目を見て話すのは得意だよな」
先ほどより少し廣川との距離が開いて内心ほっとする。
「まあ……目を見て会話しろって昔から親に言われてたから。ただコンテストだと審査員はひとりじゃないからな」
「でも目の前にいるわけじゃん? だったらその人たちの目を見ながらスピーチするのは大事な気もするけど……試しに俺の目を見ながら言ってみてよ」
そう言って廣川は自分の色素の薄い目元を指差す。彼との身長差はあまり無いが、今は彼が座っていて香村はその傍らに立っている為見下ろす視線が少し新鮮だった。
「言うって、何を?」
「廣川君大好きって」
「……」
「すみません調子に乗りました」
浮かれているなあ、と思う。廣川は先日から明らかに言動が浮かれきっている。その原因は恐らく自分なのだろうと、自惚れで無くそう思うので香村はなんとも面映ゆさを感じてしまう。同級生だけでもこんなにたくさんの人がいるのにどうして自分なのだろうと、最近よく考えてしまうのだ。
以前隣の席の中津に言われてしまった。廣川の好意を迷惑と思っていないのなら一度きちんと考えてみるべきだと。きっぱりと断るのなら断らないと廣川が可哀想だと言われてそれは確かにとも思ったが、香村にしてみれば何故彼が自分をそこまで好いてくれているのかがわからない以上受け入れるのか断るのかといった話へ進むことが出来ないでいた。
「廣川君の言う好きって、恋愛感情って意味だろ?」
香村は真っすぐに廣川を見据えて尋ねる。廣川は面食らった様子で大きな目をぱちぱちと瞬かせたあと、そうだよと言って柔らかく笑った。その笑みに何故か喉の奥がぐっと詰まったような気がして咄嗟に視線を下に落としてしまう。先ほど目を見て話せるという話をしたばかりなのに、何故だか急に真っすぐに彼の明るい茶色の瞳を見る事が出来なくなってしまった。
「別に、俺の事嫌だったら振って良いよ」
優しい声音に落とした視線が揺れてしまう。
「……いや、ではないけど」
狡い言い方をしているという自覚はあった。彼の好意をわかっていて嫌では無いなんて、逃げも同然だ。
「なんで、いつから」
拘るじゃん、と廣川の笑い声が教室に響く。いつの間にか吹奏楽部の騒がしい楽器の音が止んでいる事に気づいた。窓から吹き込んでくる風が少しひんやりとしていて、カーテン越しに空の赤さがわかる。窓の外からは僅かに運動部の声が聞こえていた。
「きっかけなんて、なんでも良いじゃん。俺は香村の事良い奴だなー好きだなーって思った、それだけ」
かたん、と廣川が机にスマートフォンを伏せて置いた。それだけ、なんて簡単に言ってくれるじゃないかと思う。人を好きになって、それを口に出す事に躊躇が無くて、まんまと香村の頭の中を自分でいっぱいにすることに成功した廣川はやっぱり強力な策士なのだろう。自分だったらきっとそんな事は怖くて出来ないだろうと、香村は思うのだ。
「好きになるって、そんな簡単なこと?」
「好きだなーって思うのは簡単じゃない? でも、俺の事を好きになって貰うのはすげー難しいけどね」
そういうものだろうか、と香村は考える。
「廣川君はいつもそんな感じなのか」
「えっ待ってそれは誤解! 好きになるきっかけは単純だけど、誰でも簡単に好きになるわけじゃなくって……えーっと、難しいなこれ」
――その言い方だとまるで、俺のことが特別だって言ってるみたいじゃないか。
「それに、言ったでしょ? 大会が終わったら教えるって。まあ……聞いても香村は覚えて無いと思うけど」
「……どういうこと?」
「だから、まだ秘密」
いまいち良くわからない。人を好きになる程の何かなら、香村が覚えていないわけが無いと思うのだが。
「それじゃあ、香村が俺のうっすーい話を聞く為にも練習に戻りますか」
ぽん、と廣川が軽く机を叩いた。薄いのかよ、と少し笑ってしまい香村は漸く顔を上げる。彼はどこか、ほんの少し、ほっとしたような顔をして笑った。
高校生英語スピーチコンテストの県大会は、県庁所在地にある文化会館の大ホールで行われる。県内の地区大会を勝ち抜いた高校生が七名出場し、ここで優勝した生徒が冬に行われる全国大会へ行く事になる。
基本的に観客はおらず、ステージに上がった出場者の前には数人の審査員しかいないとう状況だ。だが、動画配信サイトでの中継があるためライブカメラが二台観客席に入っていた。
廣川は自分もついて行きたいと子供のようにごねたのだが当然許可されるわけがない。中継の動画を見ると宣言していたが担任教師から授業中だと怒られもしていた。それを思い出し、香村は舞台袖でふふっと笑ってしまう。
「お、余裕だな。先生なんてもう、手汗がやばいぞ」
付き添いの担任教師が傍らでずっとそわそわしている。スピーチを読み上げる香村よりよほど緊張しているようで、自信を持てよお前なら出来るぞと先ほどから何度も声をかけられている。
「傍にめちゃくちゃ緊張してる人がいると逆に冷静になります」
「えっ」
香村は程よい緊張感はあるもののガチガチになるほどでは無かった。もうここまで来てしまったら、なるようにしかならない。
手元の原稿用紙に目を落とす。すべて暗記してあるので文字を目で追うわけでは無いが、要所要所に赤ペンで書き込みが加えられている。それは香村自身が書いたものもあれば、廣川が書き込んでくれたものもある。
今、ステージではひとりの女子生徒が滑らかな発音の英語で環境問題をテーマとしたスピーチを行っている。彼女の次が香村の番だった。
一応確認しておこうと原稿の束を見返す。ここで審査員の目を見る、この箇所は少し大げさになどというアドバイスは廣川がしてくれたことを香村が書き込んだものだ。約二週間、放課後にほぼ毎日二人はLL教室に通っていた。廣川と二人きりであんなに密に話したのは初めてで、時折ふざけたりはしたものの彼は真面目に香村に付き合ってくれた。ダンス部は遊びだと言っていたわりに指導も適格で意外に思ったものだ。それは香村にとって、廣川七瀬という男の新たな一面を垣間見ることが出来た時間だった。
原稿用紙の最後の一枚を捲って香村は手を止めた。余白部分に赤いペンで書かれた見慣れない文字。いつの間に書かれたのだろうか。
〝香村の情熱的なスピーチ、楽しみにしてるからな!〟
英語なんて全然わからないくせに、と唇に思わず笑みが浮かんだ。
スピーチコンテストを終えた翌日、いつものように学校へ登校する。教室に入るとクラスメイト達が口々にお疲れ様と言って労ってくれた。思わぬ反応に香村は面食らう。
「昨日、ちょうど現代文の時間だったんだけど廣川が先生に掛け合って香村のスピーチの時だけライブ動画見せて貰ったんだよ」
「だからみんなで見てたぞ」
現代文の授業はそれで良いのかと一瞬頭を過ったが、予想外の展開にだんだんと顔が熱くなってくるのを感じた。そこまで皆を巻き込んでいるとは思ってもみなかったのだ。
「あー……なんか、ちょっと照れる」
つい、声が小さくなってしまった。
「おは……あっ! 香村ー!」
朝の挨拶もそこそこに大きく元気な声が教室内に響く。来た来た、とクラス中の生徒たちが苦笑いのような含み笑いのような表情を浮かべていて、香村はその声が誰であるかわかり切っていながら教室の入り口を振り返る。
「昨日のアレ、すげー良かったじゃん! 次全国じゃんマジ惚れ直した!」
わふわふと全力で尻尾を振る大型犬のように満面の笑みで教室内を突進してきた廣川はその場で思いきり香村を両腕で抱き締める。驚いて固まる香村を余所に自分の席から中津がヒュウと口笛を吹き、他のクラスメイトもイチャイチャすんなと野次を飛ばしている。
廣川が言うように昨日のコンテストでなんと香村は審査員特別賞などという賞を貰ってしまい晴れて全国大会への出場を勝ち取ったのだった。
「廣川君、色々ありがとう」
固まっていた香村だったが、ふと体の力を抜いて自分をぎゅうぎゅうと抱き締める彼の腰のあたりをぽんぽんと軽く叩く。
廣川がなぜ自分の事を好きになったのか、そのきっかけを知りたいと思っていた。人を好きになる程の何か理由があるはずで、それを知らなければ彼の気持ちにどう返せば良いのかわからないと思っていた。
けれど確かにきっかけなんて些細な事だったりするのかもしれない。例えば、そう、たった一言の手書きのメッセージで気持ちが綻ぶようなこともある。そのおかげで、ひとりの人間を強く意識して、彼ならどうするだろうと思い浮かべれば自然と苦手な自己アピールを乗り切る事も出来たのだから。
顔を上げた廣川は本当に嬉しそうに笑って、言った。
「やっぱり俺、香村のこと好きだなあ」
面と向かってそんな笑顔でしみじみと口にした廣川に対し、香村は一瞬全ての音がざあっと自分から遠のくような感覚を覚える。
そんな顔、そんな声、そんな言葉はあまりにも狡い。
――ああ、やっぱりこの男は策士だ。策士に違いない。
教室中がどよめいた中で、香村は自分の体温が一気に上がっていくのを感じながらそう確信するのだった。