中学三年生の二学期から三学期にかけて廣川は少し不登校気味になっていた。特に虐められていたとか、そういった直接的な事があったわけでは無い。
きっかけははっきりと覚えている。両親が離婚し、母親の旧姓を名乗るようになってからだ。中学三年生で家庭の事情で今日から廣川になります、と担任教師から説明を受けて意味を理解出来ない子どもはいない。呼び方ひとつ変わるだけで小さな違和感は生まれ、両親が離婚した可哀想な子どもという認識は廣川を孤立させた。誰も酷い言葉を浴びせたわけでは無く、逆に皆気を遣ってくれていることがよくわかって、思春期真っただ中の廣川はそれが耐えられなかったのだ。
そんなことがあったから、高校は中学から離れた学校にしたかった。自分を知っている人が誰もいない環境で心機一転出来ればと思い、息子の不登校に頭を悩ませていた母親もそれを快く承諾してくれた。ちょうど母親の転職も決まったところであり、二人で再始動という気持ちでこの街へ越して来たのだ。
廣川七瀬という人間を誰も知らない、そんな環境は居心地が良かった。元々人との関わりを好むタイプであった廣川はようやく息がしやすくなったような気がしたのだ。
そうして新しい生活に馴染み、一緒にいれば楽しい彼女も出来て順風満帆に青春を謳歌しようとしていた廣川の前に現れたのが隣のクラスだった香村健臣という男だった。
放課後、掃除当番だった廣川は教室のゴミ箱を抱え渡り廊下を通って外のゴミ置き場まで歩いていた。放課後は友人たちとカラオケに行く予定で、早く掃除を終えてしまいたくて早足になっていたように思う。
「ねえ聞いた? B組の村山さん、お父さんが亡くなって苗字が変わるらしいよ」
不意に聞こえて来た声に廣川の脚は止まった。ドキリ、と心臓が大きく脈打って掌に嫌な汗がどっと滲む。
「可哀想だよね、帰りは暫く誘わない方が良いかも」
――違う、そうじゃないんだ。
廣川は無意識に渡り廊下の柱に身を隠していた。自分の事を言われているわけでは無い。わかっているのに指先が震えて来てゴミ箱を抱えていられなくなる。同じ一年生だろうか、そもそも廣川は会話の中の村山という生徒の事は全く知らない。それなのに、キンと耳鳴りがするほど体が動揺している。
可哀想だと思われたいわけじゃない、距離を置く優しさを欲しているわけじゃない、突然放り込まれた非日常の中でこれまでとけして変わらぬ日常が欲しいだけだ。村山という生徒がどう思っているのかはわからないが、少なくとも廣川はそうだった。今まで通りで良いよと言うと、友人たちには「でも大変でしょう?」「気を遣わなくても大丈夫だよ」と言われて酷くショックを受けたのだ。彼らが善意でそう言ってくれていたのだとしても、距離を取られるのが耐えがたかった。
「誘っても良いと思うよ」
澄んだ声が響き、廣川は顔を上げた。耳に馴染むような、低く穏やかな声だった。
「香村君。でも、悪くないかな」
「無理だったら村山さんが断るだけだよ。村山さんだってお父さんが亡くなって環境の変化で大変だと思うから、尚更いつも通りに大変だったねって声掛けて一緒に遊べばいいと思うよ」
廣川の視線の先にいたのは、黒髪に眼鏡の真面目そうな少年だった。
彼の、恐らく何気なく言ったであろう一言に廣川の心は軽くなった。
あの瞬間、言葉を交わしたわけでも目が合ったわけでもないというのに廣川七瀬は香村健臣という男に救われてしまったのだった。
だからきっと、彼は廣川が恋に落ちた瞬間を覚えてすらいない。それは廣川が勝手に香村という男に救われてしまった瞬間なのだから。