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第4話

 中間テストも無事に終わった五月後半、通常ならば六月から衣替えとなる予定が年々季節が前倒しされるかのように夏の暑さとなっている五月、既に生徒の大半は半袖で登校していた。香村健臣こうむらたけおみも例に漏れず五月の連休明けから既に半袖で、母が毎日作ってくれている弁当も底に保冷剤を敷いてきている。蝉の声はさすがにまだ聞こえはしないが、もうすっかり初夏というより夏本番といった気温だ。ただ、梅雨前故にからりと乾いた暑さはそれほど不快ではない。

 担任の教師に呼び出された放課後、香村は一人職員室へと入っていった。そこには何故か、廣川七瀬ひろかわななせの姿もあった。

「おー香村、悪いな来てもらって」

 五十代半ばあたりであろうと思われる担任の男性教師は職員室へ入って来た香村に気づくと軽く手を挙げた。廣川も顔を上げて嬉しそうに笑う。先ほどまで同じ教室内で顔を合わせていたというのにどうしてそうも嬉しそうなのか。

「いえ、スピーチコンテストの事ですか?」

「話が早くて助かるよ、あと二週間も無いからな」

 スピーチコンテストというのは来月開催される高校生英語スピーチコンテストの県大会のことだ。この大会で県の代表に選ばれれば全国大会へ出場出来る。これまでこの高校で英語スピーチコンテストの県大会へ進んだ事は無いようで、教師陣が妙に張り切っているのを香村はひしひしと感じていた。主に筆頭はこの担任兼英語教諭なのだが。

「他の高校はさー基本的には英語弁論部的な部活があって部活単位で出場することが多いんだよね。でも香村は単独で地区予選突破しちゃったから大したもんだよ」

 真正面から褒められるのはさすがに気恥ずかしい。香村は口の中でもごもごと「いえ」とか「そんな」などと意味のない言葉を転がしていたが、廣川が感嘆の声を上げた。

「よくわからんけど香村が凄いってことはわかった。ところで英語ベンロン部って何すんの?」

「別に凄く無いよ。弁論は……こういうスピーチコンテストに向けて練習する部活じゃないかな。運動部とか吹奏楽部もそうだろ、大会を目標にして練習するって」

「あー、ね。じゃあやっぱ凄いじゃん香村」

 そうなんだよ凄いんだよ、と担任教師が鼻息を荒くする。顔が熱くなってきて、やめてくださいと苦笑を浮かべるしかなかった。

「そこで、香村にひとつ提案がある。君の英語で書かれた文章も発音もとても素晴らしいことはわかっているんだが、スピーチってのはそれだけじゃないんだよ」

 提案、という言葉に香村は担任教師の方へ体を向け直した。彼は大げさに身振り手振りを加えながら説明を続ける。

「香村はなんていうか、感情の起伏が少ない」

「……はあ。そう、ですか?」

「あれ、自覚無い?」

 教師は隣に立つ廣川を見上げる。彼は教師の言葉にうんうんと力強く頷いた。というか、未だに何故彼がここにいるのかわからない。

「英語弁論に関してはただすらすらとスピーチ出来れば良いってだけじゃなくてね、見ている人に伝える伝達力というか、演出も必要になって来るわけだ。去年の全国大会の様子が動画であるから後で見ておいてね」

 伝達力や演出と言われて香村は腕組みをしながら唸り声をあげてしまう。自分が感情の起伏が少ないタイプであるという自覚はこれまでまるで無かったが、担任の言うようないわゆるパフォーマンス的な分野が得意かと言われると全く得意ではない。

「それで俺の出番ってワケ」

 そう言いだしたのは、先ほどから何故か隣で話を聞いていた廣川だった。いったいどういうことかと香村は彼と担任教師の間で視線を行ったり来たりさせる。

「お前ら最近仲良いみたいだから廣川に頼んだんだよ」

「え、何をですか?」

「そりゃあ感情を表に出す練習をな。ほら、コイツダンス部だろ?」

 そういえば廣川は陽キャと言えばお馴染みのダンス部だった。

「それなら演劇部の方が良いんじゃ……」

「演劇部は夏の高校演劇祭に向けて頑張ってるからなあ」

 確かにこの高校の演劇部は高校演劇界隈ではそこそこ名が知れているらしく、香村ひとりの為に部員を割いてもらうわけにもいかない。香村自身演劇にはさして興味が無いのだが幼馴染の吉野立花よしのりっかが演劇部員であるため、ここ最近部活動の為帰宅が遅いことはよくわかっていた。

「俺はありがたいですが……廣川君だって忙しいだろ?」

「全然暇だから気にすんなって! 困ったときはお互い様だろ~」

「廣川もこう言ってるし、LL教室使って構わないから放課後空いてる時に練習しておいてくれ」

 なんという丸投げ……と香村は若干遠い目をしてしまうが、担任がそう言うのであればやらないという選択肢は無いのだ。香村はそういったところで生真面目さを発揮してしまうのが常だった。


 LL教室は基本的に英語のリスニングの授業が行われる教室である。長机には生徒が三人横並びで座る事が出来、生徒ひとり一人に対してモニターとヘッドセットが準備されている。

「せっかくの放課後なのに、本当に良かったのか?」

 去年の英語スピーチコンテスト全国大会の動画を見る為、教師側の席でDVDをセットしながら顔を上げた香村に対し廣川は手持無沙汰な様子で席のヘッドセットをつけたり外したりしながらにこりと笑う。

「別に良いって、俺らダンス部は別に大会に出る予定とかは無いしさ。毎年文化祭目指して練習するくらいなんだから実質暇部」

「暇部って……でも毎日活動はあるだろ?」

「まあね、動画見ながら練習したり。踊ったのを撮影してアップしたり」

 香村自身運動神経が悪いわけでは無いが、ダンスはまったく未知の領域だ。体育の授業の一環として少しやったことがある程度で楽しいと思った事は無かった。

「見てすぐ覚えられるもん?」

「ものによるとしか言えないかも。一回見れば覚えられるものもあるし、頭では理解してても体が全然ついて行かない時もある」

「へえ……結構奥が深いんだな」

 香村は廣川がどのようなダンスを踊るのか知らない。彼の言う通りこの学校のダンス部は大会出場を目指すような部活動ではなく、学校の文化祭や近所の夏祭り等で披露するような類の部活動だ。昨今のダンス人気にあやかって五年程前に新設された部活動らしく、本職のコーチが就いているわけでもなく生徒たちが自主的に活動している同好会の延長のようなものであり、その緩さからとりあえずで籍を置いている幽霊部員も多いらしい。ただ、香村の知る限り廣川は殆ど毎日部活動へ顔を出しているようだった。

 DVDをセットし、教室前方の大きなモニターに映像を映し出す。どこかのホールのステージだろう、上部には全国高校生英語スピーチコンテストという大きな横断幕が掲げられた中でそれぞれの学校制服を身に纏った少年少女たちがステージ上のマイクで英語スピーチを披露してゆく。

「げ、字幕って無いの?」

 廣川が苦虫をかみつぶしたような顔で隣に座る香村に文句を言った。確かに全文英語のスピーチに字幕が無いのは英語が苦手な廣川にとって苦痛かもしれない。だが恐らく記録用と思われる映像に対しさすがに日本語字幕を付けてくれとは言えまい。

「なんか……凄いな」

 一人三分という持ち時間で披露されるスピーチは、確かにただ紙面を読み上げるというだけではなくいかに短い時間の中で言いたいことを審査員に伝えるかという創意工夫と熱量に満ちていた。また決まったテーマが定められていない為スピーチ内容も様々で、地球の環境問題を切々と訴える者から推しアイドルの素晴らしさを全力で伝える者、好きな人へのラブレターのようなものまであった。

 時間にしてみれば約二時間程の映像であったものの、香村も廣川も圧倒されるばかりであった。さすが全国から選ばれた者たちだけのことはある。

「英語全然わかんないけど、こりゃあ確かにセンセーが演出が必要だって言うものわかる」

 おそらくスピーチの内容を殆ど聞き取れていないであろう廣川だが、映像の中から迸る熱量のようなものは伝わったらしい。香村もスピーチ原稿自体は自身があったものの、全国から集った代表たちのスピーチを前にしてなるほど自分には圧倒的に伝達能力が足りていないようだと自覚させられることとなった。

「うーん、とりあえず……どこから手をつけたら良いかな廣川君」

「そこは廣川センセーって呼んで?」

「えっ……じゃあ、廣川先生どうしたら良いですか?」

「最高」

 満面の笑みを浮かべる廣川に思わずため息をつきながら、香村はひとまず用意してきたスピーチ原稿に目を通す。地区大会の際に担任からの修正も入って何度も書き直した原稿だ。

「じゃあ、まずは香村が思うように一回スピーチして見せてよ。目の前にいる俺に伝わるように」

 廣川はそう言うと椅子にどっかりと座り直して香村に対し前でスピーチをするように促す。確かに改善点を見つけて貰うのなら今の香村の実力を見て貰うしかないだろう。促されるまま前に出た香村は、教卓に原稿を置いた。

「廣川君聞いてわかる?」

「おっ、煽るじゃん~」

「煽って無いです先生」

「正直全然わかんないと思うけど、そんな俺にも伝わるように喋ってみてよ」

 致し方ない、と香村は原稿に目を落とし口を開いた。


「……以上です」

 パチパチパチ、と大げさな拍手が二人しかいないLL教室に響く。

 香村がスピーチのテーマに選んだのは現在の若者が抱える漠然とした将来への不安についてだった。若者らしいテーマであり、理路整然とした文章に担任の評価は上々で、地区大会でも審査員から高評価を受けて県大会へと進んだ自信作だ。

 香村自身、自分の将来に対して説明のし難い不安を抱えている。とりあえず勉強を頑張り、可能な限り良い大学へ行く事で将来の選択肢を広げたいと考えているが、実際のところ大学へ行って何を学びたいのかこれといった展望があるわけでは無かった。どちらかと言えば文系の方が得意ではあるので文系の国公立大学を目指している、ただそれだけに過ぎない。しかし、自分と同じ年齢で将来のヴィジョンを明確に捉えている者などどれだけいるだろうか。

「やっぱ香村の話してる事全然わかんなかったんだけどさ」

 教卓の上の原稿用紙に目を落としていた香村は、かけられた言葉に我に返って顔を上げる。彼の目は真っすぐ香村を見ていて、それがあまりに真っすぐすぎて思わず視線を逸らしてしまった。

「香村の言いたいのってさ、一緒に考えようって訴えたいの? それとも、俺の意見を聞けー! って感じ?」

「……いや、そこはあんまり考えた事無かったかも」

「あーじゃあそれかも。そこを意識しないとどう演出すれば良いのかわからないかな」

「難しいな」

「そう? そんなに難しく考える事無いんじゃない? 例えば……俺、香村が好きだよ」

 唐突とも思える言葉に驚いて、逸らしていた視線を廣川へ向けた。

 彼は相変わらず真っすぐに香村を見つめたまま、ふわりとその双眸を柔らかく解して笑う。ぎゅうっと心臓の辺りを鈍い痛みのような、苦しみのような、それでいてどこかふわふわと足元がおぼつかなくなるような感情が湧き出してきて目が逸らせなくなる。

 彼が香村への好意を惜しげもなく曝け出すのはいつもの事だ。けれど、ここまで直接的な言葉を目を見ながら言われたのは初めてだった。

「……ほら、伝わって欲しいって願いながら言えば伝わるでしょ?」

 そう言って廣川はいつものようにからりと笑う。

 窓が閉め切られた教室はやけに暑くて、香村は額に滲む汗を拭い頷く事しか出来ない。

「なんで……そんなに俺のこと」

「こんなに好きかって? 香村はそれ、考えてくれたんだ」

――じゃあ、当ててみてよ。俺がいつから香村の事が好きなのか。

 そう言われたあの日からいつも常に頭の片隅に廣川の存在があった。いつ、どこで、どんなタイミングで彼は香村に好意を抱く事になったのか、考えてみたところで香村自身全く身に覚えがない。

「……わからないよ、だって二年になるまで全然喋ったこと無かったし」

「そうだね、中学は別だったしね」

「気になって、集中出来ない」

 困る、と言いながら汗でずり下がってきた眼鏡を直す香村に対し廣川は何度かぱちぱちと瞬きをした後本当に楽し気に笑う。夕陽ではなく白色LEDの下であるにも関わらず、彼の耳は赤く染まっていた。

「うん、じゃあ……香村の県大会が終わったら教えてあげる」

「え、そんなの何も手に着かなくなっちゃうだろ」

 頬杖をつきながら目を細めた廣川は、策士の顔で言ってのけた。


「何も手に着かなくなっちゃえば良いよ」

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