あたしがジェグロヴァ公爵家にお世話になって、三カ月が経った。
その間に、セルゲイ殿下を狙った結果イネッサを刺して逃げた実行犯は捕まって、それに伴って首謀者のジヤコフ伯爵家の三男坊も捕まり、ともに処刑された。単独での行き当たりばったりな計画だったけれど、責任を問われてジヤコフ伯爵家は子爵に降格、領地没収の上で一家は僻地に飛ばされ離散。
当主から、イネッサを癒やしたことについて本当にていねいな御礼状をもらった。自分の息子が犯した罪を一生かけて償っていくつもりだ、と書かれていて、いけないことかもしれないけど、あたしは祝福を風に乗せて少しだけ届けた。
毎日イネッサとレオニートくんと学園に通っている。すごく仲良くなって、ジェグロヴァ家はあたしにとって、第二の実家みたいって思うようになった。
帰ったら『前』みたいに「おかえりなさい」って言ってもらえて、あたしは「ただいま」って返す。
ジェグロヴァ夫人はすごくいい人で、あたしのことを実の娘みたいに可愛がってくれて、上位貴族に立ち向かえるよう一生懸命いろいろなお作法を教えてくれる。午前中は夫人の特訓、午後は学校。正直しんどいけど、それも『ここ』で生きていくためだ、と思ったら、前向きになれる。
週末はだいたいセルゲイ殿下がイネッサへ会いに来て、お昼をみんなでわいわい食べたら、あたしはポフメルキナ家へ。そんな一週間。
そういえば、みんなあたしのことを「ポメ」って呼ぶようになった。ちゃん、君、さん、先輩と、後ろにつくのは違うけど。……いやまあいいんだけど。
そして、雪が解けて、草花が芽生えてきたころ。『ゲーム』の『シナリオ』の、終わりが見えてきた。
あたしは、最終学年に上がるための試験。レオニートくんは中等科に上がっちゃうから、新学期からは午前と午後で授業が離れてしまう。そして、イネッサは卒業だ。その前に、あたしはポフメルキナ家に帰ろうと思う、とジェグロヴァ家のみなさんに告げた。
「――実家の事業も、公爵のご指導によりおかげさまで軌道に乗ってますし、家ももうちょっといいところに借りられました」
夕飯の席で言ったら、みんなしーんとした。
「……あたしが聖女だって公表するのはまだ先って聞いてますけど、その前に、ポフメルキナの人たちに孝行したいんです。たぶん、今までみたいにのんきな生活なんてできないし……時間を、大切にしたいと思います」
「それは……いつ?」
イネッサが静かに尋ねる。イネッサは、あたしが名前で呼ぶことを喜んでくれていた。
「うーんと、あっちのあたしの新しい部屋が今内装入っているそうなので、それが終わり次第帰っていいか、皇宮にきいてみようと思うんですけど」
あたしが言うと、ジェグロヴァ公爵が執事を呼び寄せて耳打ちした。
「……内装会社に手を回せ、工期を遅らせろ。皇宮にもだ」
「……は」
「えええええええ⁉」
あたしが思わず叫ぶと、ジェグロヴァ夫人が涙目で切々と訴えてきた。
「ポメちゃん……あなた、わたくしたちが嫌いになったの?」
「まさか、そんなこと!」
「じゃあなぜ、出ていくなんて言うんです!」
ええーっと、さっき説明した通りなんだけど……。あたしは、助けを求めてレオニートくんを見た。目が合うと、彼はにこーっと笑って、とくに助けてはくれなかった。
なんだかとんでもなくいろいろ盛り上がって、夕食の席は終わった。その後、イネッサが「ちょっと、お庭を散歩しません?」と声をかけてくる。
ジェグロヴァ公爵家の
「ねえ、ポメさん。ずっと、あなたに聞きたかったことがあるの」
庭の池に差し掛かったとき、イネッサがそう言った。
「……でもね、どう尋ねればいいのかわからなくて……でも、知りたくて。ずるずるとここまで来てしまったけれど」
なんの話だろう、と思った。イネッサは、考え深い表情でどこか遠くを見ている。
「さっきのあなたの言葉で、やっと勇気が出たわ。あなたとの時間も、限られてしまうのね。だからわたくしも時間を大切にするわ。――ねえ、だからこの機会に、よかったら教えてくださる?」
イネッサは池に張り巡らされた石垣へ腰を下ろした。あたしもその隣に座る。
「あなたとレオは……誰なの?」
あたしは、びっくりしすぎて言葉を失った。
「……なにかね、確証があるわけでも、レオからなにか聞いたわけでもないの。それとなく、あの子に尋ねてみたこともないわけじゃないわ。でもはぐらかされてしまって」
泣きたいような、それを我慢しているような、そんな顔。探し当てた言葉をそっとみせてくれるみたいに、イネッサはあたしへ言った。
「――でもね、ずっと、ずっと感じていることがあったの。レオは、もしかしたらレオじゃないのではないかって。――あの子、ときどきわたくしを通して違う人を見ているのよ」
イネッサは、池の水面を振り返って見下ろした。あたしは次の言葉を待つ。
「……昔、わたくしたちがまだ小さかったころ、この石垣はなかったの。この池はむき出しでね、その景色がとても美しかったのだけれど。あるとき、わたくし、レオを突き飛ばしてしまって、溺れさせてしまったの」
「そんなことがあったんですね……」
「ええ、しかも冬に。一時は命が危うくなってしまったのよ。そのときに、レオはうわごとで、ずっと『おねえちゃん』って誰かを呼んでいたの」
ああ、とあたしは思った。レオニートくんが『前』を思い出したのは、きっとそのときなんだ、と直感した。きっとそれは、『前』の『おねえちゃん』のことで。
……そして、そのときから、イネッサはそれが自分のことではないと気づいていたんだ。
「……わたくしが枕元に行くとね、わたくしを見て、なんて言ったと思う? 『あくやくれいじょうイネッサ』よ。わたくし、びっくりしてしまって。そして、納得もしたの。弟を池に落としてしまう姉なんて、たしかに『あくやくれいじょう』だわって」
うふふ、とイネッサは笑う。あたしはなんとも言えない気持ちになって、「そんなこと、ないですよ」と慰めにもならないことをつぶやいた。
「……ときどきね、ポメさん。あなたもね、レオと同じ目をするの」
あたしはイネッサを見た。
イネッサもあたしを見た。
「あの子ね、ときどき『幸せになろう』って言うの。みんなで幸せになろうねって。でもね、そう言うときの目は、とても寂しそうで、どこか辛そうで、わたくし、そうねって言うことしかできないの」
目に浮かぶような気がした。レオニートくんのそんな姿、あたしは見たことはなかったけれど。それでも。
「まだ十二歳。それなのに、どうしてあんなこと言うの? あの子、ジェグロヴァ家で不自由なく暮らして来たはずだわ。どうして?」
すごくきれいな緑の瞳は、ちょっとだけ悲しそうだった。
「あなたは……レオを理解できるんでしょう? 見ていてわかるわ。わたくしも、あの子を理解したい。もし……あなたさえよければ」
ちょっとだけ、悩む。
あたしが、かってにレオニートくんのこと話しちゃっていいのかなって。
でも、言葉を選んで話すことにした。だって、イネッサは、とても……つらそうだったから。
「――これから言うことは、理解しづらいと思います。でも、これだけは先に言わせてください。あたしも、レオニートくんも、『あたし』で、『レオニート』くんです。他の誰でもありません」
その上で、話した。『前』、あたしがどんな人だったか。『前』、あたしがどんな話を聞いたか。
そして、レオニートくんはきっと、あたしが聞いたニュースの子だっていうこと。
あたしの話を遮ることなくじっと聴いて、あたしが話し終えたあとも、イネッサは黙っていた。
あたしはその言葉を待った。
それしかできなくて待った。
「……レオが、もし、その男の子だというならば」
少しだけかすれた声で、イネッサはつぶやいた。あたしはイネッサを見た。
とてもきれいな瞳で、どこかを見ていた。
「……わたくし、その子のお姉ちゃんにだって、なろうと思うのよ」
こぼれた涙は、きっといろいろな気持ちがつまっていたと思う。
あたしも、ちょっとだけ泣いた。お互い顔を見合わせて、「淑女らしくないわね」「ジェグロヴァ夫人に怒られちゃいますね」って、笑った。
とてもきれいな夜だった。
これまで本当にいろんなことがあった。疲れたし、もう一度やれって言われてもムリだけど。
でも今、あたしはちょっと……いい気分。