「お姉ちゃん‼ お姉ちゃん‼」
レオニートくんが悲鳴のような声で叫んで馬車から飛び出しすがりつく。
セルゲイ殿下が呆然と血に染まった手を見つめている。
――イネッサは、脇腹の後ろからナイフを生やして、倒れている。
「誰か、早く、救護の先生を!」
誰かが走って行くのが聴こえる。
あたしは動けない。
「ハンカチ、止血を!」
居合わせた、午後授業で下校するところだった初等科の子たちがおびえて泣いている。
あたしは動けない。
レオニートくんがナイフを抜こうとするのを、セルゲイ殿下が我に返って止める。
「――駄目だ、かえってひどくなる、このまま固定し止血して医者に運ぶんだ‼」
言われてレオニートくんは首元の赤スカーフを取ってナイフが刺さったままの傷口に当てた。スカーフが赤じゃない赤になった。
救護の先生や他の先生が全速力でやってきて、ぜいぜい言いながらも絶句している。
セルゲイ殿下は先生たちと目配せしあって、自分に抱きついている状態のイネッサを、うつ伏せのまま馬車に乗せてゆく。
イネッサは目を閉じていて、人形みたいだった。
先生が一人馬を駆って、受け入れ体制を整えるため、先に病院へ報せに行った。
救護の先生とレオニートくんも乗り込む。扉を閉めるときに目が合った。
真っ青で、信じられないっていう顔。
きっとあたしも、同じ顔してる。
あたしは動けない。
――非常事態を告げるために、チャイムが何度も鳴らされている。
『――ここは「ゲーム」だけど、「本当」でもあるからじゃないですか』
先週言われたレオニートくんの言葉が、頭の中でチャイムといっしょにリフレインしている。
あたしはうなずいた。
そうだ、これは『現実』だ。
あたしはうなずいた。
そうだ、やり直しなんかできない――
ざわざわと、周囲の喧騒が聴こえる。
憲兵団が到着したらしい、声をかけられる。
目撃証言を集めているようだ。
あたしはうなずいた。
「あたし、犯人、知ってます」
ざわついていた周囲が一瞬静まって「事務所まで来て、話を聞かせてくれるかな?」という制服憲兵の言葉にどよめく。
『前』でも、こんな風に警察のお世話になるなんてことなかったのにな。
現実感がない。
それなのに、赤じゃない赤が目の奥に張り付いて離れない。
馬車に乗って、すぐに身元の確認がなされた。
ポフメルキナ子爵家長女ヤニーナ。
それが『ここ』のあたし。
――あたしはうなずいて、ちょっとだけ泣いた。
夢で見たってことにした。『前』の話をしたところで信じてもらえないだろうから。
「犯人はジヤコフ伯爵家が雇った人間です。調べてください」
これは『イベント』のひとつ。
花束贈呈イベントの後にあるのはわかっていた。
聖女に覚醒しているあたしが、なんの被害も出さずに助けるはずだった。
あたしは聖女になんかなれなくて、代わりに花束をもらった
聖女になるには『真の愛』が必要だって言われていた。攻略対象と育んだそれによって覚醒するんだと。
『ゲーム』だったら数値が見えるのに。
あたしは愛なんてわからなくて、どうしたらいいかとぼんやりと想う。
憲兵のみなさんは困ったような顔をして、あたしの証言を持て余していた。
夜遅くに帰っていいと言われた。きっとちょっと頭がおかしいと思われたんだろうな。報せを受けたばあやが、おどおどと玄関先で待っていた。その姿を見てあたしはちょっと泣いた。ばあやも泣いた。
あたしにできることを考えた。
『前』のあたしじゃない、『
『ここ』は、あたしにとっての現実だ。退くことも、辞めることもできない。
であれば、あたしはなにをすべきだろう。
『シナリオ』すらを通り越して、セルゲイ殿下をかばった
あたしは、なにを為すべきだろう。
ばあやはホットミルクを作ってくれて、おはなししてくれて、眠りにつくまで子守唄を歌ってくれた。
あたしはそれでも悲しくて、やっぱりちょっと泣いた。