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第4話 私の婚約者はかわいいかもしれない

 夏の終りを告げるように色なき風が吹いている。

 九月一日、『最初の始業の鐘ファーストチャイム』の日になり、それぞれの学生が新しい学年へと進むために二カ月の長い夏休みから身を起こしてきた。


「おはよう! 元気だったー?」

「夏季休暇なにしてたー?」


 友人の姿を見つけては、そこかしこであいさつが交わされている。私自身も級友からの「おはよう!」という声掛けに、その輪へ加わった。


「夏休みはどうだった、セルゲイ?」

「変わらず過ごしていたよ。君は?」

「姉さんに子どもが生まれた。女の子だったよ」

「それはおめでとう! さぞかしかわいいことだろう」

「まあね。鼻のあたりが僕に似ている」


 友人が見せたさっそくの叔父馬鹿ぶりを微笑ましく思いながら、私自身も叔父となる日のことを考えた。それは遠くない日で、私がこの学校で『最後の鐘ラスト・チャイム』を聴くことになるころだ。

 兄夫婦は、国内情勢を考えた上での政略結婚だった。それでも、仲睦まじくしているし、思いを通わせているようにも見える。外的な要素も内的な必要をも満たした、理想の夫婦の形だ。


(――私も、そのようになれたらよいのだが)


 かねてから、そう思っている。


 今日は、始業式だ。

 白いシャツに男子は黒のスラックス、女子は同色のジャンバースカート。真新しい制服に身を包んだ幼稚園あがりの新一年生たちは、襟元に下級生を表す赤いスカーフをしている。そして親と同じくらい大きな新十一年生……私の学年の生徒に手を引かれて校庭へと入場し、緊張した面持ちながらしっかりと行進する。


「おめでとう!」


 祝いの言葉が行き交い、見守りにきた父兄たちの目尻が一様に下がる。私、セルゲイも、やや腰をかがめながら小さな手のひとつを握った。


 学園長から生徒たちへ、簡便な言葉で「みなさん、勉強をがんばりましょう。元気に過ごしましょう。先生の言うことをちゃんと聞きましょう」との手短な挨拶がある。小さな子どもたちは難しい長話を黙って聴いていられないからだ。


「みなさん、わかりましたか?」

「はい!」


 大きな声が響いた。

 これから少しずつ訓練され、我慢や忍耐を覚え、そして大人になって行く。


 集会後に生徒たちはそれぞれの教室に戻り、今年一年お世話になることへの感謝の印として、新しい担任へひとり一本ずつ花を渡す。

 終わりに皆で最初の始業の鐘ファーストチャイムを聴くことで、新しい年度が始まる。

 校内に、大きな鐘の音が響き渡った。

 私にとっては十一回目であり、最後の『最初の始業の鐘ファーストチャイム』だ。


 解散し、教室を出て廊下を歩いていると、私の婚約者であり『悪役令嬢』であるところのイネッサ・ジェグロヴァ嬢が水場から自分の教室へと向かっている姿を見かけた。

 その手には花を生けた花瓶があるので、担任が持ち帰れない分を教室に飾るのだろう。

 弟君の『』のことを思い出し、自らの目で確認するため足早に近づく。


「――ジェグロヴァ嬢」


 声をかけると、ジェグロヴァ嬢は驚いたようにきょろきょろとあたりを見回した。

 私がその肩に手をかけると、彼女は跳ね上がるように驚きを示し、「きゃあ!」と軽く悲鳴を上げる。


「……元気にしていただろうか」


 先日も訪問して顔を合わせたばかりだというのに。


(――我ながら、なんて間の抜けた問いかけだろう)


 ジェグロヴァ嬢は絶句し美しい緑の瞳を見開いて私を見、そして私の手が自らの肩にあること確認すると赤面して身をよじる。

 そんな反応をされるのは初めてのことで、私も揃って絶句した。


「……み、見てお分かりになりませんかっ、問題なく過ごしておりますわっ」


 いつも返ってくるツンケンとした言葉でありながら、背けられた顔の耳は赤い。


『――お姉ちゃんはツンデレなんです。言葉の通りにとらえるとは浅はかの極みですね。

 お姉ちゃんが目をそらすのは、はずかしいからで、きつい言葉を言ってしまうのも照れかくしです。その後にひとりで落ちこむまでがワンセットです。』


 私は『じきそ状』の内容を思い返す。


(――これは、もしかして照れ隠し、なのか?)


 …………可愛いな。


 そう感じたことに、私自身も顔に熱を帯びる。


「――はっ……離してくださいまし!」


 言われて手を放すと、転げるように逃げて行ってしまった。いつもの淑女然とした振る舞いはどこへ行ったのだろう。


 思わず口元を隠し、水場に入る。鏡に映した私は、先程のジェグロヴァ嬢に負けず劣らずの赤面だった。


(……情けない顔だな)


 冷水で顔を洗いながら、これまでのジェグロヴァ嬢の言動を思い起こす。


 ――決められた婚姻と思い、淡々と過ごしてきた。

 取り決めのとおりに訪問し、当たり障りのない会話をし、それで婚約者としての務めを果たしてきたと思っていた。

 二年という婚約期間の中で、私はジェグロヴァ嬢について、なにも知ろうとしていなかったのではないか。


(……ああ、これまでしっかりと顔を見てこなかったのは、失敗だったな……)


 きっと今日のように愛らしかったに違いない。


『そんなことも今までわからなかったなんて本当にあなたはおろかですね』


「……ああ、その通りだよ、レオニート君」


 今更になって失った時間の後悔が押し寄せて来る。


(……まだ、取り戻せるだろうか)


 知らなかった。

 ――私の婚約者は、とても。


「……可愛いかもしれない」

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