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店の未来を託し、転職を決意 10

 そしてこの後は私が今回の話をするに至った経緯をもう少し詳しく説明することになった。こういうところも2人の意思決定に関係するだろうし今後、何かの役に立てばという思いもあるからだ。

「それで店長、今回のような気持ちになった理由ですが、さっきほど話されたご自分の体調不良ですか?」

「そうだね。最初のコロナかと思った時には、ニュースをいろいろ耳にしていた分、とても不安だった。もし重症化し最悪、死んだらとか思ったし、仮に軽症でも味覚や嗅覚に障害が残ることがあるそうだから飲食業に携わる場合、致命的だよね。そうなると、今日の話どころではない形で転職を考えなければならないかもしれない。幸い、そうじゃなかったし、その後も何も問題もない。でもすぐにギックリ腰になっただろう。その激痛からもう立てないんじゃないか、といった恐怖心が出てきた。病院に行っても薬をもらっただけで痛みは改善しない。そこで奥田先生に相談したらたった1回でほぼ回復した。用心してその後も施術をお願いしながら、少し休みをもらってみんなに迷惑をかけたカタチになった。2度続けて現在や将来を考えさせられる結果になったけれど、改めて健康の有難さを単なる話ではなく身体で実感した。そしてその立場でそういうトラブルで悩む人たちに何かできれば、ということを考えたんだ。俺は仕事を単に生活費を稼ぐためのものとは考えていなくて、そこにはやりがい、というキーワードがある。金銭的には贅沢ということではなく、少しゆとりがある生活ができるくらいで良いと考えている。居酒屋についても、コロナ以前の時には銀行から支店をオープンする時には相談に乗ります、という話を何度もされた。でも、堅実な経営を意識しているのである程度の自己資金を溜めてから次の店をと考えていたんだ。それで3号店を考えるだけの状態になった時にコロナの問題になっただろう。それで支店を増やすことにブレーキがかかった。もっとも、人材がいなかったら3号店の話はなかった。でも、さっき話したように君たち2人がいてくれたおかげで全然違う展開が考えられるようになった。俺は本当に周りに恵まれたよ」

 美津子は私の話を横で頷きながら聞いていた。その美津子に対して中村が質問した。

「社長のそういう考えは理解されていたんですか? 俺ならビジネスとしてもっと売り上げをアップし、ちょっとは贅沢な生活もしたいなと思うんですが・・・」

 中村は数字のほうに興味があるらしいが、仕事として居酒屋をやるなら数字を軽く考えるようでは務まらない。私が見る限り、矢島はどちらかと言えば私たちに近いように思うので、近くに数字を意識する考えを持った人材がいるのは心強い。コロナが落ち着き、少しずつ人の流れが以前のようになった時、健全なカタチで仕事の拡大を図ることは当然だ。私たちもそれを考えていたわけであり、2人がうまく噛み合うようになれば私たちが作ってきたこの店の雰囲気を壊さずに続けてもらい、さらに発展させるのではないかと秘かに期待した。

「それで整体院のことですが、俺たちはその仕事のことはほとんど知りません。これから勉強して開業なんてできるんですか?」

 矢島が心配するような感じで尋ねてきた。私もまだ全然足を踏み込んでいない世界のことだからきちんと答えられるわけはない。そのためこの問いについての回答は先ほどまで異なり、どうも歯切れが悪い。そういう感じになると場の雰囲気も少し暗めになるが、矢島はここで嬉しいことを言ってくれた。

「もし難しそうなら、またこの店に戻ってください。まだ決めたわけじゃないけれど、せっかくのお話ですので前向きに考えさせていただきたいと思っていますが、もし仮にうまく行かないような感じであればまた居酒屋をやれば良いじゃないですか」

 思っていない話に私の心には熱いもので一杯になった。同時にこういうセリフが出てきたことで、少なくとも矢島は今回の話をきちんと受け止めてくれたということが分かった分、収穫があったと思えた。


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