新学期が始まった。
九月になってもまだ暑い日が続き、夏の盛りといった雰囲気の日はまだ続いている。
学校での生活は、俺が思っていたよりも変化がなかった。
懸念していたのは、『夏休み中に俺と高嶺さんが一緒に居る姿を誰かに見られて噂になっていないか』ということだったのだが、どうやらそれも取り越し苦労だった。
純也も祭りの日のことは聞いてこない。
お面を被った高嶺さんを親戚の子と言ったことを信じているか、察していて聞いてこないのかはわからないが、とにかくあいつはいつも通りだ。
二学期からの俺は、ときおり剣道部で竹刀を振るわせて貰うことになった。
別に部活へ入ったわけじゃない。たまに純也と竹刀を合わせて汗を流させてもらうだけだ。これは中学の頃の俺を知っていてくれたという剣道部顧問の先生が、俺の事情を知って融通してくれた結果だった。
「純也の面打ち、昔に比べてだいぶ鋭くなったよな」
「まあな、自慢じゃないけどこれでストレートに三段を取れたんだ。いまや面は俺の得意技といっていいぞ」
自慢じゃないが、と言いつつどこか自慢げな純也だ。
しかし素直な喜びが溢れる言い方でもあるので、まったく嫌味じゃない。
俺は「褒め甲斐があるな」と苦笑しながらかぶりを振った。
「お褒めに預かり恐悦至極。とは言え、和臣が調子を戻したら今みたいに面を狙うのは難しくなるんだろうけど。おまえの面抜き逆胴、すげーから」
「いや、そんなことは」
「謙遜するなよ。時子さん仕込みの逆胴だ、時子さん、面抜き逆胴の名手だったんだろ?」
時子さんは面抜き逆胴で全日本を優勝している。
確かに時子さんの必殺技的な技だった。
面抜き逆胴とは名の通り、相手が面を狙ってきて竹刀を上げたところに逆胴を当てる技。
一見カウンター技にも見えるこの技だが、実際は違う。
先の先を狙う攻め技で、面を打たせて取る技なのだ。
俺はこの技を、時子さんからみっちり仕込まれていた。
あれだけ練習したのに、と少し悔しい。
この一年と少しのブランクで、諸々の技が錆びついてしまったのだった。
竹刀を合わせ終わったら、帰る前に俺は少し純也と話をしていく。
例によって俺たちは、グラウンド側の道場軒下に胴着のまま座り込んだ。
「それはそれとしてだけどよ、俺も見ちゃったよ、最近話題だったもの」
唐突に、純也が話し始める。
俺は純也の顔を見るでもなく問い返した。
「なんだそれ?」
「知らねーのかよ、氷の姫君の笑顔だよ!」
「へ?」
と振り向いて純也の顔を見る俺。
「あのクール姫が、って感じだよなぁ。笑うとカワイイんだな、どちらかと言えば綺麗な人だったからあの笑顔は意外だった。ずるいわ破壊力ありすぎ!」
――俺は知らぬ顔を装ったものだった。
そう、最近の高嶺さんは、少し変わり始めていた。
トレジュアボックスでも、積極的に接客をするようになった。お客さまに、満面の笑みとはいかないまでも、そっと笑いかけることができるようになってきた。
ミオンみたいなところでショッピングをするときも、前のように俯いたりはしない。目を逸らしながら店員に話し掛けたりしない。
ことが終わったあとに俺の前で、「ふう」と大きく息を吐くこともある。
「緊張しました!」と笑って報告にくることもある。
だけど、どんなときでも今の彼女は前向きだ。
自分の意志を以て、変わろうとしている。
「天堂くんのおかげですよ?」
彼女はそう言ってくれた。こそばゆいが、嬉しい。
俺が力になれることなら、なんでも力になる。彼女を応援する。そうしていきたい。
「おっと、そろそろ着替えないとバイトのシフトだ」
「おうそうか。時子さんによろしく言っといてくれ、近く顔も出しますって」
「そうだな。そのときは一緒に行こう。ケーキセットくらいなら奢るぞ」
こうして俺は剣道部を後にした。
ケーキセットを奢るという餌で、うまく日程をコントロールしよう。突然店に現れて、高嶺さんとハチ合わせにならないようにね。
俺はトレジュアボックスへと向かう。
その日はバイトの給料日だった。
俺と高嶺さんは、時子さんから手渡しで封筒に入った現金を受け取る。
「先月は夏休みということもあって、よく働いてくれたじゃないか高校生たち」
封筒を渡してくれた時子さんが、俺たちに言う。
「連勤も多かったから、ちょっと色を付けといた。まー期待してくれていいぞ」
給料を貰った俺たちは、行儀悪くその場で、時子さんの目の前で封筒の中を覗く。
これは『トレジュアボックス流』だ。
賃金を確認したときのニンマリ顔を、時子さんが見学したいらしい。
なんというか、毎月の儀式みたいなものだった。
「こんなにですか……? ええ?」
「おおお。なんか多いぞ? いいのか時子さん」
「よきにはからえ。先月はたくさん楽させてもらったからな、構わんよ」
高嶺さんが時子さんに頭を下げる。
「ありがとうございます。人見知りの私に色々良くして頂いた上に、お給料もこんなに。これなら私も、叔母にわーちゃんのことを相談する切欠にできると思います」
「……瑞希。叔母さんとやらは、金がないから和音ちゃんを施設に任せようと言ってるのかい?」
「直接そう言ってくるわけじゃあないんですけど……。遺産はそんな多いわけじゃないから、その方が私もわーちゃんも、どちらも幸せになるはずだ、って……」
「ふうん……?」
どことなく眠たそうないつもの半眼で、時子さんは口を尖らせた。
そんな二人を見ながら、俺は横で憤る。
「そんなはずないのにな! 高嶺さんもわーちゃんも、ぜったい二人で居る方が幸せなのに!」
「だぁなぁ」
「でも、叔母さんが私たちの面倒を見て下さらなかったら、私たちもうとっくに離れ離れになっていたはずなので」
叔母には感謝しているんです、と高嶺さんは目を伏せた。
「わーちゃんをお呼びになられましたか!?」
そろそろ帰りの時間だと、テーブルに広げていたビーズを片付け終えた和音ちゃんが俺たちのところにやってくる。あまり和音ちゃんに聞かせたい話でもない、俺たちはそこで話を切り上げた。
バイトの帰り道。
俺たちは三人、並んで歩いた。
日がだいたい落ちて、薄暗くなりかけた頃だった。
商店街を進んでいると、飲食店の良い匂いが鼻に届いて、ぐぅとお腹が鳴る。
帰ったら、高嶺さんがまた食事を作ってくれる。
三人で夕食だ。
「夕食の話もいいけどさ、せっかくバイト料が入ったんだから、どこかに遊びにいきたいねぇ」
俺がそう言って笑うと、和音ちゃんが手を上げた。
「わーちゃん遊園地にいきたいです!」
「他には?」
「どうぶつえん!」
「他には他には?」
「すいぞくかん!」
俺は腕を組み、わざとらしく「うんうん」と頷いた。
「いいね! 順番に全部行っちゃおうか!」
「ぜんぶですか!?」
「そう全部!」
和音ちゃんの目が輝いた。
「えらばないなんて……カズオミお兄ちゃんはスケールがちがいます……!」
和音ちゃんが心底感心したような顔で俺を見つめてくるので、思わず「あはは」と笑ってしまった。
「どうだろ高嶺さん、夏休みはだいぶ仕事漬けだったしさ。遊ぼうよ!」
「そうですね……、もうそろそろ天堂くんは受験のことも考えないといけない時期になりますし、遊ぶなら今のうちかもしれませんね」
「天堂くんは、って」
高嶺さんの言い方に、俺は思わず笑った。
「そっか高嶺さんは成績トップだもんなぁ。受験のことなんか考える必要もない?」
「私は、大学に行きませんので」
「え!?」
俺は驚いて目を丸くした。
「なんで!? 高嶺さん、全国でも相当成績良い方じゃなかったっけ?」
「お金に余裕がありませんから」
「お金なんか、高嶺さんなら返済不要の奨学金だっていけるでしょ!?」
「働いてお金を稼がないとダメですからね。学校にいく余裕自体がないんです」
――そんな、と俺が重ねて異を唱えようとした、そのとき。
「ダメですお姉ちゃん!」
和音ちゃんが大きな声を上げた。
「がっこうには行かないとダメですよ! がっこうは大切だって、おかあさんが言ってました!」
「わーちゃん、……でもね?」
「ダメです! お姉ちゃんはがっこうに行かないとダメ!」
珍しく和音ちゃんが必死な声で言う。
ああ、と俺は思い出した。そういえば和音ちゃんの誕生日プレゼントでクレヨンを買いにいくとき、高嶺さんが言ってたな。
和音ちゃんは『学校は大事だから』とお母さんに聞かされて育った、って。
俺がそんなことを思い出している間も、高嶺さんと和音ちゃんは、言葉でおしくらまんじゅうをしている。
「でもね?」と学校にいけない理由を構える高嶺さん。
「ダメです!」と聞く耳持たずにそれらを全部否定する和音ちゃん。
やがて高嶺さんが、「この場」を下りた。
「もー、……わーちゃんはこうと決めたらしつこいんだから。わかった、わかりました!」
疲弊した顔で、小さく両手を上げる。
「頑張ってみるから。ね? だからもう、この場は許して?」
「許しましょう! 学校はちゃんといくことです、わかりましたねお姉ちゃん?」
俺は仲裁を兼ねて割り込んだ。
「ままま、和音ちゃん。高嶺さんもああ言ってるし、今度のお休みのことを考えよう!」
「お休みの日ー!」
「まずは動物園か水族館、どっちかいこうよ! どっちがいい和音ちゃん?」
「どうぶつえんかと!」
「よし決まり!」
ささっと話をまとめていく俺。高嶺さんも疲れた顔をしながら頷いた。
「たのしーみーだー。たーのしーみでーす♪」
和音ちゃんが楽しみの歌(これもきっと、作詞作曲和音ちゃんだろう)を唄いながら先頭を歩き始めた。
高嶺さんがこっそり、俺に疲れた顔で笑いかける。
「わーちゃんにはかないません」
「高嶺さんを心配してるんだよ」
「そうですね、うん、そう」
高嶺さんもそれがわかってるから、どことなく嬉しそうではあるのだ。
俺は、高嶺さんの手を軽く握って伝えた。
「それにさ、俺も高嶺さんと一緒に、大学いきたいな」
「それは私も……」
「できる限り、俺も協力するからさ。頑張ってみようよ」
「……はい!」
和音ちゃんが振り返って、俺たちを指差した。
「あー二人とも! なかよしさん!」
たたた、と和音ちゃんは俺たちの間に入り込む。
「わーちゃんもいっしょ!」
俺たち三人は笑った。
さあ週末はみんなで動物園だ。ちょっと動物の知識を調べておいて、わーちゃんにドヤ顔していこうか。……なんて考えてくと、楽しみでワクワクしてくる。
和音ちゃんが俺たちの間に挟まったまま、楽しそうな声を上げた。
「いっしょでどうぶつえんです!」
しかし次の休日、俺たちが動物園にいくことはなかった。
高嶺さんの叔母さんが突如襲来したのである――。