夏休み中も、俺たちのアルバイトは続く。
時間があるので午前中からのフルタイムで『トレジュアボックス』に出ることも多くなった。その代わりというべきか、時子さんがサボッている。あろうことか俺に店の鍵を渡し、自分が遅くなったら勝手に開店しておいてくれと言い出す始末だった。
「あたしに夏休みをくれたっていいだろー」
別に構いはしないが、社会人の世界では働かざる者食うべからずなので、オーナー店長と言えどもサボったなら収入に関わることは覚えておいて貰いたい。
「具体的には時子さんが来るまで、俺らは店にあるものを好きに飲み食いしますからね」
「お、おい勝手に決めるな」
「いやなら時間通りに来てください。時子さんには真面目に仕事をするということを、もっと覚えて欲しいよ」
とまあ、多少の問題はあったりするが、夏休みのアルバイトも平和に過ぎていく。
高嶺さんも、少しづつだけど接客に慣れてきた。
「瑞希の奴、まだちょっとぎこちないけど、少し笑顔で接客できるようになってきたな」
雑な癖に、そういうところはしっかり見てるんだ時子さんは。
「ですよね、高嶺さん頑張ってますよね」
「くくく。和臣、おまえ、まるで自分が褒められたかのように喜ぶんだな」
「え!? そ、そうかな……?」
――そんなだったか?
俺は妙な恥ずかしさを感じて、時子さんから目を逸らしたものだった。
「恥ずかしがるな恥ずかしがるな、良いねぇ若いねぇ青春だねぇ!」
俺の背中をバンバン叩く時子さん。
からかわれる波動を感じて俺が無視を決め込んでいたら、その日の時子さんはいつもと違った行動で俺の意表をついてきたのであった。
「そんな和臣少年にプレゼントだ。ほら」
「なんですこれ?」
「二泊三日、海の宿チケット。瑞希と和音ちゃんを誘っていってこいよ」
◇◆◇◆
こうして今に至る。
俺は家の自室で、時子さんから貰ったチケットを前に悶々としていた。
果たしてこのチケットで二人を誘ったとして、受け入れて貰えるだろうか?
和音ちゃんは問題ないだろう、喜ぶ顔が目に浮かぶ。
だけど高嶺さんは?
「部屋は一つだけどな。どうだ和臣? 一つ屋根の下、ひと夏のアバンチュールだ」
今どきアバンチュールとか聞きませんよと言ったら殴られた。
時子さんもそろそろ肌の曲がり角、歳に関係しそうな話はセンシティブな話題なのだろう。
ああ思考が脱線した。
高嶺さんは、この一つ屋根の下という話をどう受け止めるだろうか。
俺たちは隣同士の部屋に住んでいて、ここ三ヶ月というものほぼ毎日顔を合わせて過ごしている。仲が悪いとは毛ほども思わない。
むしろ好意を持たれているんじゃないかな? と感じてなくもない。図々しい誤解かもしれないけど。
だけどまだ、互いの家で寝泊まりしたことは一度もない。
いわゆる一つ屋根の下(マンションだから同じ屋根の下ではあるのだが、それはさておき)という状況でまる一日、起きてから寝るまでを共にしたことなどない。
そんな間柄で、「一緒に同じ部屋で寝泊まりしましょう」などと声を掛けてしまっていいのだろうか? 下心と思われないだろうか? 嫌われないだろうか? 嫌われないまでも、これまでと違ったギクシャクした関係になってしまわないだろうか?
怖い。怖かった。
まるでそれは、高嶺さんに心の在り方を厳正に問い掛けるような行為ではないだろうか。
まるで俺が「高嶺さんは俺のことが好きですか?」と聞いているような行為ではないだろうか?
恥ずかしいというよりは、怖い。
もし断られたらどうしようか、という思いがグルグルと頭の中を巡る。
断られたとき、俺は今までと同じ顔をしていられるだろうか?
同じ顔をできなかったとき、それは今までの俺の思いが下心からくるものだったということになるのだろうか?
要らないことを、延々と考えてしまう。
「え? まだ誘ってないだって!?」
二日後の『トレジュアボックス』。時子さんが呆れた目で俺を見た。
「和臣少年、それはヘタレというものだ。おまえさん、そんな軟弱な奴だったっけ?」
からかう様子すらなく真顔でそう言われてしまうと、よりヘコむ。
俺は時子さんの目を見るでなく、カウンターに突っ伏した。
視線の向こうでは、ぎこちないけどしっかり笑顔を作っている高嶺さんが、客の注文を聞いている。
「自分でも驚いてますよ。人ってこんな悩むんだなーって」
「まあおまえさんは基本、すぐ悩む奴だが。それにしてもなー」
注文をとった高嶺さんがカウンターに戻ってくる。
「時子さん、ランチセットのA入ります。飲み物はアイスコーヒーで」
「はいよランチA了解。……と言いたいところだが、すまん瑞希、ちょっとおまえ作ってお出ししといてくれ」
「え? あ、はい」
「こい和臣、ちょっとこい!」
「いて! 痛いですよ時子さん、そんな強く引っ張らないで痛い!」
カウンターから出てきた時子さんが、俺の腕を引っ張る。
店の隅の席で一人大人しくお絵描き遊びをしていた和音ちゃんの元に、俺は引っ張られる。
「和音ちゃん」
「はい? どうしましたかトキコお姉さん」
俺は時子さんに、和音ちゃんの正面席に座らせられた。時子さんも俺の横に座る。
「和音ちゃんは海に行ったことある?」
「ありますよ! お父さんたちがご存命のときに、四人で海にいきました!」
あいかわらず微妙に難しい言葉を知っている和音ちゃんだ、そして微妙に使い方に違和感があるのも和音ちゃんぽい。
「そっかー。どうだった海は? 楽しかったかい?」
「楽しかったです!」
「ほー、ほー。いいじゃないか、うん。いいね。――なんかな、和臣お兄ちゃんが和音ちゃんに話があるらしいんだ。聞いてくれるかな」
「カズオミお兄ちゃんが!? わかりましたお聞きしましょう!」
俺は小声で時子さんに抗議する。
(時子さーん! 勘弁してくださいよー)
(うるさいな、お膳立てだよ! ここまで来たんだ、まずは和音ちゃんを確実に味方につけて瑞希を誘ってみろ!)
和音ちゃんが心持ち背筋を伸ばして俺の言葉を待っている。
目がキラキラしちゃってるんだよなー。時子さん、マジ勘弁してくださいよ。まだ決心がついてないんだから。
「和音ちゃん……あのね」
「はい!」
ああ元気。和音ちゃんは今日も元気。まぶしい。屈託のなさがまぶしい。悩みなさそう。
「ケーキ食べる?」
「いいんですか!? わーちゃん、たべます!」
ガツン、と。
割と本気で時子さんに頭殴られた。
「ケーキかー。いいなー和音ちゃん、お姉さんも食べようかな。おい和臣、おまえの奢りな」
「なんで時子さんの分まで!」
「奢りな!」
「……はい」
俺が消沈したとき、入口の鈴がチリンと鳴った。
客が二人増えた。カウンター内でランチ調理中の高嶺さんがこちらを見ずに声を上げる。
「ごめんなさい、私いま手が離せないのでお願いしますー」
「はーい、わかったよー」
俺いきますね、と席を立ちあがる俺。
「逃げやがるかこいつ! ケーキ一番高いのだからな、お客さまの注文とり終わったらさっさと持ってこい!」
俺は逃亡に成功した。
そして結局この日のバイト中も、高嶺さんを誘うことはなかったのだった。
◇◆◇◆
バイトが終わり、俺たちは帰宅。
しばしそれぞれの部屋でプライベートなことを片付けて、夕飯は一緒にとる。
いつも通り、俺の部屋に高嶺さんが食事を作りにきてくれた。
三人で夕飯を食べて後片付け。
俺が皿を洗っていると、高嶺さんが話し掛けてくる。
「どうしたんですか天堂くん? 最近なにか考え込んでいるみたいですけど」
「ん? 大したことじゃないんだよ。イヤほんと」
「悩みごとだったらいつでも私聞きますから。相談……なんておこがましいことは言えないけど、話を聞くくらいなら幾らだって」
そう言って、高嶺さんは俺の隣で皿洗いを手伝い出した。
リビングでは和音ちゃんが、テレビをつけてアニメを見ている。『良い子の友達、ドロロンQ! でも悪い子には、こーわいぞー!』
俺たちはしばし無言で、皿を洗い続けた。
ジャブジャブ、ジャブジャブ。水は緩く出しっぱなし。
俺は覚悟を決めた。
高嶺さんがこんな積極的に俺のことを心配してくれているのだ。俺が日和っているときじゃない。振り絞れ勇気! 戦うときは今!
「あのね高嶺さん、もしよかったらでいいんだけど」
「はい」
高嶺さんはこちらを見ずに、落ち着いた声で返してきた。
大丈夫、なんでも聞きますよ、と声音がそう言っている。俺は背中を押された気持ちになり、続く言葉を喉からひり出した。
「今度、和音ちゃんも連れて、三人一緒に泊り込みで海に遊びにいかないか? 時子さんに旅館のチケットを貰ったんだ」
「え、海?」
高嶺さんの顔が、パァッと明るくなる。そして俺の方を見た。
「楽しそう! いいですね、行きたいです!」
あれ? すごーく嬉しそう。
「い、いいの!? ひと部屋しかないんだけど! 一緒の部屋に泊ることになっちゃうんだよ!?」
「うふふ、今さらなにを。私たち、三人一緒に川の字になってお昼寝したりしたじゃないですか」
「あ、うん。それはそうだけど……」
「凄く楽しみ! そっかー海ですね、わーちゃんなんて海はまだ一回しか行ったことがないの。わーちゃんも喜ぶと思う!」
俺はよっぽど呆然としてたのだろう、高嶺さんが首を傾げた。「天堂くん?」
「どうしたんですか?」
「いや、あの」
俺は正直に高嶺さんに話した。
断られる気がして怖かったこと。下心があると思われないか怖かったこと。断られてギクシャクすることにならないか心配だったこと。
「なんで、そう思ってしまったんですか?」
高嶺さんが俺に問う。
なんでだろう、俺は自問した。なんでそう思ったのか、という話は、もう少し自分を深く見つめる作業を必要とした。時間が掛かる。しかしその間、高嶺さんは黙って俺の言葉を待っていてくれた。
思考の子葉を取り払っていくと、やがてなんとなくだが根にあるようなものにたどり着くことができた。そうか――。
「だって俺は……、なにも取柄がなくて。中途半端で。そんな俺が、高嶺さんを誘うなんて、どうなんだろうと思ってしまった……んだと思う」
「私、何回も言ってます。天堂くんは、いつも私たち姉妹のことを考えてくれてる、って」
高嶺さんは少し怖い顔をした。
「取柄がないなんてことありません。中途半端なんてこともありません。天堂くんは、もっと自分に自信を持ってください」
いつの間にか、俺たちは皿を洗い終わっていた。
水で冷たくなった手の甲に、高嶺さんが手を乗せてくる。
「天堂くんは素晴らしい人です。私、いくらでも褒められますよ?」
あれ?
なんかデジャヴ。俺も高嶺さんに、同じようなことを思ってなかったっけ。
高嶺さんの冷たくなった手の感触を柔らかく感じながら、俺は目を丸くした。
そっか。もしかしたら俺たちは、似た者同士だったのかもしれない。
互いにどこか自分に自信を持てず、見えないものに怯えていた。
高嶺さんの手が置かれた方の手のひらを反す。
すると高嶺さんが俺の手に指を絡めてきた。俺もそっと高嶺さんの手を握り返して、指を絡める。ああ。
俺はこの人と一緒に、歩いていきたい。
このとき初めて、俺はそう強く思った。
「ありがとう高嶺さん。海……楽しみになってきた!」
「うん!」
高嶺さんの力強いうなづき。高嶺さんは笑った。あ、この人、こんな顔でも笑えるんだ。
その笑顔は力強く、俺への慈愛に満ちていた。俺を応援する笑顔だった。甘いだけでなく、厳しさが奥底にある。こんな笑顔を向けられたら、頑張ろうという気になる。誰も知らないであろう、俺だけの高嶺さんの笑顔。
「わーちゃーん? カズオミお兄ちゃんと一緒に海いきたいー?」
「海!? はい! いきたいです!」
「お泊りで!」
「しかもお泊り! いいんですかカズオミお兄ちゃん!?」
ピョーンと跳ねた和音ちゃんが、俺たちの元に走ってきた。
俺は笑う。
「良いに決まってる!」
こうして話は決まった。
さあ海だ。