学校から家に帰り、制服を着替えた俺は今、マンションの外に立っている。
スマホのメッセージで高嶺さんから連絡があったのだ、和音ちゃんを保育園に迎えに行ってから帰ってくる、と。
「ん、あれかな?」
道の先に高嶺さんと和音ちゃんらしき姿を発見した。
俺は歩いて二人に合流する。
「カズオミおにーちゃん!」
「こんにちは和音ちゃん、おっと!」
走り寄ってきた和音ちゃんが、俺の腰に飛びついてきた。
思ったよりがっつり体重を預けてくる飛び込みだったので、俺は思わず手を伸ばして和音ちゃんの背中を支えてしまった。
「今日も元気だねー」
「えへへ、わーちゃんげんきー」
言いながら和音ちゃんは、俺の腰にヘッドバットを繰り返してくる。ドスドス。
あはは、地味に痛い。
「こらっ、わーちゃん! お兄ちゃん痛がってるよ!?」
「あははー!」
和音ちゃんは俺の腰から離れると、俺の周りを走り出した。
追いついてきた高嶺さんが俺の顔を見つめて、困ったように笑う。
「ごめんね天堂くん、わーちゃんたらハシャいじゃって」
「大丈夫。子供は元気が一番、暴れん坊なくらいでいいよ」
「ハイ、あばれます!」
「ダメ、甘やかさないで天堂くん。わーちゃんは女の子なんだから」
高嶺さん、苦労してるんだろうな。
彼女が和音ちゃんに向けてわざとらしく作ってみせたふくれっ面に、俺は思わず苦笑してしまう。
すると俺の視線に気づいたのか、高嶺さんはハッとした顔で表情を隠した。
「も、もう! そんなじっと見ないでください! 恥ずかしい」
「ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」
苦笑を続けていると、和音ちゃんが走るのを止めて笑った。
「カズオミお兄ちゃんは、お姉ちゃんを恥ずかしがらせる天才さんですね!」
俺はブッと噴き出してしまった。
昨日、脱衣所で裸を見られたときのことがフラッシュバックする。
「昨晩のあれは、俺の方がよっぽど恥ずかしくて……!」
「な、なんの話をしてるんですか天堂くん!」
「なんの話って! いやその!」
「わわわ、私、見てませんですから! ホントですよ!? あのとき私は……!」
同じ場面を思い出したのか、高嶺さんの顔が真っ赤になる。
俺たちは互いに目を逸らして、俯いてしまった。和音ちゃんがまた笑う。
「朝も、カズオミお兄ちゃんのお弁当作ってるとき、お姉ちゃん恥ずかしそうだった!」
「あ、そっち?」
「そっち?」
俺たちは声をハモらせて和音ちゃんの方を見た。
ニコニコと邪気のない和音ちゃんの顔を確認して、二人で目を合わせる。
そして笑った。
「そうだっけ、まず言わなきゃいけないと思ってたんだった。お弁当ありがとう美味しかった、箱は洗ったからあとで返すね?」
「あ、そのままでもよかったのに。……また明日も作る気でしたから」
「ホント!? 嬉しいけど、うーん、負担掛けちゃってない!?」
「全然! わーちゃんも喜んじゃって、お兄ちゃんにヨクルト飲んで貰うんだ! って」
「あー」
そうかあのヨクルトは、和音ちゃんの仕業だったのか。
「和音ちゃんは奔放だなぁ」
俺は思わず和音ちゃんの頭を撫でてしまった。発想が自由って、すごい。
和音ちゃんは俺に頭を撫でられながら、嬉しそうに手を叩いた。
「ほんぽーって!?」
「自由で束縛のないさま……、うーん、つまり和音ちゃんは凄いってことかな」
「わーちゃんすごい!?」
「うん、すごい」
「わーちゃんすごい!」
ぴょんぴょん跳ねる。嬉しそうに跳ねる。くるくる回る。
俺と高嶺さんはそんな和音ちゃんを見て笑ったのだった。
「ところで天堂くんはどうしてこんなとこに?」
「大した意味はないんだけど、二人を出迎えようかなって」
「そうなんですね、ありがとうございます。なんか嬉しいな」
口の前で軽く手を合わせて喜んでくれる高嶺さん。
その柔らかい表情を見れただけで、ここに立っていた甲斐があるというものだった。
なんだろうな、人が待ってたらって嬉しいかな? と軽い気持ちでの行動だったんだけど、うん、出迎えてよかった。
「じゃ、着替えてきますね。アルバイトの話、うまく行くといいのですけど」
「大丈夫だと思うよ、オーナーの時子さんには話も通してあるし。俺もいったん部屋に戻るかな、お弁当箱を渡さないといけないし」
「うふふ、そうですね。じゃあ一緒に帰りましょう」
「かえりましょー!」
和音ちゃんが音頭を取って、先頭を歩き始めた。
さあバイトの面接だ。うまく行くといいね、高嶺さん。
◇◆◇◆
駅前一等地……の、ちょっと外れ。
一等地半くらいの場所の、さらに路地に入ったところに、その喫茶店はある。
オーナーである塩崎時子さんが数年前から始めた店だ。
時子さんは背が高く、すらっとした体形の栗色ショートボブ。
二十代も後半ギリギリの年齢だったはずだが、全然若く見える。いつも眠そうな半眼をしているが、意外や意外、それが似合う美人顔でもあった。
そんな時子さんと目当てにしているのか、歴史は短いのに妙に常連が多い店。
名を、トレジュアボックスという。
日の昇っているうちは喫茶店だが、暮れるとちょっとしたバーにもなるその店では、いつもオーナーが飲んだくれているのだ。
とまあ、そんな店なのだけれども。
今日の時子さんは、珍しく飲んだくれていなかった。
「やあ来たな」
店内に入ると、カウンターの向こうから時子さんが俺と高嶺さんを出迎えてくれた。
俺は軽く挨拶をすると、すぐに高嶺さんを紹介した。
高嶺さんがお辞儀をする。
「初めまして時子さん、今日はよろしくお願いします」
「話は聞いているよ。あんたが高嶺さんか、おい和臣少年! えらい別嬪さんじゃないか、憎いねこの!」
「そういうのいいですから!」
「聞いたかい高嶺さん、ツレない奴だよなー。少しくらい付き合ってくれてもいいもんなのに」
「わかりました、あとでならいくらでも付き合いますから。まずは面接をしてください」
「へーいへい。じゃあ始めますかー」
こうしてアルバイトの面接が始まった。
高嶺さんは時子さんに履歴書を渡し、椅子に座る。
俺は高嶺さんの横に座り、所々で捕捉する役を担った。
「話はわかったが」
俺からの説明を改めて聞いた時子さんが、神妙な顔をして高嶺さんに向き直る。
「ウチのバイト代は安いから、とてもじゃないけど生活費を全て賄うなんて真似はできないぞ?」
「それはさ――」
「和臣には言ってないんだ、ちょっと黙っててくれないか?」
時子さんがピシャリと俺の言葉を遮ってきた。
俺は焦る。
もっと簡単に受け入れて貰えると考えていたのに、時子さんの調子が強い。おかしいな、話を通したときは「わかった連れてこーい」くらいの軽いノリだったと思うのに。
高嶺さんは時子さんに詰問されて、可愛そうなくらい縮こまっていた。
そりゃそうだ、人見知りなんだもの。
大丈夫だよとバイトに誘っておいて、この有様だ。俺は申し訳なくなってしまう。
「これじゃあ、高嶺さんの目的である『妹さんを施設に入れない』という目的は果たせないだろ。その辺どう考えてるんだ?」
「それは、あの……。まずは少しでも稼げば、話を聞いて貰うこともできるかな、って」
「叔母さんとその話をしたことはあるのかい? 妹さんと別れたくないのならばまずは未成年後見人である叔母さんと話をするの先だと思うが」
時子さんが至極真っ当なことを言う。
それは俺も気になっていた。叔母さんとは話をしていないのだろうか。
高嶺さんが、ちょっと俯き加減になり時子さんから目を逸らす。
「あ、はい……。そういう話もしているのですが」
「もうしていたのか。叔母さんはなんだって?」
「聞く耳を持ってくれませんでした。叔母は、そもそも小さい子が嫌いなようで……」
「好き嫌いの話ではないと思うのだが、そうか、相談はした上での話なのだな」
時子さんは、ふう、と溜息をついた。
やれやれ、といった風情で肩をすくめる。
そのとき、高嶺さんが少し大きな声を出した。
「わ、私!」
俺も時子さんも、思わず高嶺さんの顔を見る。
高嶺さんは顔を真っ赤にしながら、声を上げていた。
「すごい……人見知りで! このままだと! お金を稼ぐ出発点にも立てなくて……!」
「ふんふん。それで?」
「だから、あの……その!」
「落ち着きなよ、別にあたしゃ高嶺さんを獲って食ったりしない。思ってることを言葉にしてみ?」
時子さんの声は、弱くもなく強くもなく、ただフラットな音をしていた。
責めてるわけでもなく詰めてるわけでもなく、中立に声を掛けている。
ああ。と俺は思った。
別に時子さんも高嶺さんをイジメているわけじゃあないんだ。
彼女の意志を確認したいんだ。
高嶺さんが、チラリと俺の方をみた。
そしてなにかを決意する目で、時子さんの方に向き直る。
「天堂くんにアルバイトの先があるって誘われて、変わりたいなって思ったんです!」
手を胸に当てて、高嶺さんは声を絞り出すように答えた。
「変わらないと、わーちゃんを……妹を守れないから!」
「言えるじゃないか」
そういって時子さんはカウンターの中でニヤリと笑った。
「あたしゃ、その意志が確認したかったんだ」
そういうと、満足そうにグラスに酒を注ぎ始める。
俺が「あっ」と言う間もなく、軽く一杯を空けた。
「そういうことなら、ウチの和臣をコキ使ってやってくれ。いざとなったら物理で解決しよう、こう見えてこいつは剣道をやっていた。そのうえ、筋もいい」
「言うことが物騒だよ時子さん」
俺は苦笑した。冗談交じりに言っているが、たぶん時子さんは本気なのだ。
困ったときは力での解決も視野に入れろ、と彼女はよく言っている。
腕力に一定の価値を見いだす世界の住民は、確実に存在するのであった。
「じゃあ、今日からもうバイトに出て貰ってもよいのかな?」
「は、はい! もちろんです!」
高嶺さんが嬉しそうに声を上げた。――と。
なぜか急に目を丸くする時子さん。
いわゆるビックリ顔だ。時子さんのこういう反応は珍しい。
なんだろう? 俺は訝しく思って時子さんに声を掛けた。
「どうかしましたか、時子さん?」
「あ、いや……」
時子さんはショートボブの頭をポリポリと掻いたかと思うと、ふっと笑みを浮かべた。
「ところで雇うのは一人でいいんだな?」
「え?」「へ?」
時子さんが視線で入口の方を差し示して笑っている。
俺と高嶺さんは、同時にそちらを見た。
するとそこには、店の中を覗き込む顔があった。
――透明ガラスの戸にひっついた、ムニムニと変形した顔が。
「わーちゃん!?」「和音ちゃん!?」
入口ガラス戸のあちらに、和音ちゃんがいた。
顔をガラス戸にくっつけて、こちらを覗き込んでいる。慌てた高嶺さんが入口に向かい、戸を開けた。和音ちゃんが飛び込んでくる。
「おねーちゃん!」
と満面の笑みを浮かべて。
バイト先に、和音ちゃんがついてきていたのだった。