教室の窓際に座っている女子生徒は、氷の姫君と呼ばれている。
誰がそう呼び始めたのかはわからない。
しかし、そのあだ名は正確に彼女を表していた。
驚くほど美しく、分け隔てなく皆に一定の距離をたもって接する彼女だが、誰も笑っている姿を見たことがないのだ。
姫君の名前は、
近隣の学校にも名を轟かせる地元で有名な美少女だ。
テストをすれば学年トップの成績を取り、体育祭では抜群の運動神経で活躍してみせる。 その魅力と有能さが放っておかれるはずもなく、学内では数々の部活動が彼女をスカウトしているものの、当人は「放課後は用事がある」といって断っているらしい。
今日も腰まである黒髪がつややかに光っており、顔の輪郭はシャープで、細眉はラインを引いたように隙がない。大きな目は華やかな二重で、淡いピンクの唇は可憐である。学校指定の黒い燕尾ブレザーが誰よりも似合っていて、教室の男子たちがこぞって彼女に視線を注いでいる。
ひるがえってみると、俺はとても地味だった。
友達も多くなく、女子に告白されたこともない。彼女と関わることなんて、本来ならきっと無かっただろう。
「ごめんなさい、遅れちゃいました」
そんな彼女が今、満面の笑顔を見せて俺の前に立っている。
その手に手料理を持ってた。
「たべたらいっしょにおふろだよ!」
喜び顔と困り顔半々で、俺はつい先日の出来事を思い起こした。
◇◆◇◆
五月、バイト終わりの20時すぎ。
俺――
「ね、お嬢ちゃん。迷子なのかな? 僕が家まで連れて行ってあげようか?」
道の先、空き地近くからだ。
どうやら太った中年男が小さな女の子に声を掛けているようだった。
――小さな女の子?
いや、幼女と言った方がいいかもしれない身長だ。もしかして小学校に上がる前だろうか。暗がりの遠目には、5歳前後に見える。
幼女は、太った中年男が差し出す手を見て、プイ、と横を向いた。
「……いらない」
「そんなこと言わずにさ、ね? 一緒にいこう?」
「やっ! いらない!」
太った中年男が、嫌がっている幼女の腕を掴む。
「おじちゃんいたいっ!」
「ね、ね、ね? 大丈夫、ちょっとだけだから!」
「放して!」
腕を掴んで、強引に引っ張っているように見えた。
幼女の小さな身体が、ズルズルと引き摺られている。――え、これは事案!?
唐突な出来事に俺の身体が一瞬固まる。
日常的でない一幕に、頭の中が空っぽになった。――事案? 本当に? あの中年男は親戚とかじゃなくて?
空っぽだった頭に浮かんでくるのは、理解の否定だ。そうでないと、平穏だった俺の日常が壊れてしまう。だけど。
「いやなのっ! たすけておとーさん!」
幼女の叫びが、俺を我に帰した。
やっぱり事案じゃん! 思わず小走りになって近づいていく。
「なにしてるんですか」
少し大きめの声を出して太った中年男を見ると、中年男は俺のことを睨みつけた。
「な、なんだおまえ!? 俺は迷子になってるこの子を心配して……!」
「嫌がってますよね? 悪いことは言いません、その手を離してください。通報しますよ」
「だから、俺は! この子の!」
怒鳴る中年男。
俺はスマホを弄るフリをした。
「もしもし、警察ですか? いま不審な男が小さな女の子を連れ去ろうとしていて」
「く、くそうっ!」
太った中年男が幼女の身体をドンと押す。
よろめいた幼女を俺が支えようとしている間に、中年男はそのままどこかに走り去っていった。酷いやつだ、あとで不審者通報しておかないと。
「あ、ありがとうお兄ちゃん!」
俺の手の中で息を切らせながら、幼女がじっと見つめてきた。
しゃがみ込んだ俺は、目線の高さを幼女に合わせる。大人に腕を引っ張られたばかりだもんな、立ったまま見下ろしてたら不安にさせちゃいそうだ。
俺は少し緊張しながら幼女に声を掛ける。なにせあまり子供と話したことなどない。
「えっと……大丈夫? キミみたいな子が一人じゃ危ないよ。お母さんやお父さんはどうしたの? もしかして迷子?」
疑問に思ったことを、つい立て続けに聞いてしまった。
びっくりさせちゃうかな? ――と思ったのだが、意外にも幼女は笑顔を見せてきた。
「迷子じゃないよ、かえるとこ。お母さんとお父さんはいない」
「一人で!? だめだよ危ないよ!」
「さっきみたいなおじちゃんがいるから?」
「それもあるけど」
と俺はかぶりを振った。
「ちっちゃい子が一人、暗い中で歩いているだなんて思う人は少ないから、車や自転車にぶつかられちゃうかもしれない。事故はね、怖いんだ」
「事故……」
幼女の顔が曇った。
急に泣きそうな顔になったので、俺はドキッとした。
「事故こわい。ごめんなさい、お兄ちゃん」
「うん、わかって貰えればいいんだ。キミは賢いね」
「わーちゃん」
「ん?」
「キミ、じゃないよ。わーちゃん」
そう言って、シャツの裾を引っ張って俺に見せてくる。
そこには名前らしきものが書いてあった。
『わおん』
珍しい名前だと思った。俺は微笑んで、名乗り返す。
「俺は和臣、よろしくね、わおんちゃん」
「カズオミおにーちゃん!」
わおんちゃんの顔が、ぱぁっと明るくなった。
よかった、どうやら良好なコミュニケーションが取れているようだ。
俺としてもこんな暗い場所に居る幼い女の子を、一人で置いて気にせず自宅に帰るなんてことはしたくない。だから、怯えられずに済んでいることは幸いと言えた。
「ええと、わおんちゃん。一人でいるのは危ないから、警察を呼ぶね」
「けいさつ?」
「あー、……なんて言ったらいいかな。おまわりさんってわかる?」
「わかる!」
「じゃあ、おまわりさんに迎えにきてもらうから」
笑顔でそう告げたのに、わおんちゃんは顔を曇らせた。
「え? カズオミお兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんは、おまわりさんが来るまで一緒にいるよ」
「やだ! おまわりさんよりお兄ちゃんがいい!」
そう言って、わおんちゃんは俺の服の裾を引っ張った。
どうしよう、これは俺が家まで送るのが正解なのだろうか。
少し悩んだが、どちらにせよ面倒を見るつもりで声を掛けたのだ。よし決めた。
「わかった。それじゃ、お兄ちゃんがわおんちゃんを家まで送って行ってもいい?」
「ん?」
「わおんちゃんが心配なんだ。もう暗いしね」
「カズオミお兄ちゃん、わーちゃんと一緒にいたいの?」
「うん。一緒に居たいんだ」
「ほんと!? えへへー、どうしよっかなー!?」
わおんちゃんがモジモジクネクネ、身体を揺すっている。
なんだか嬉しそうなのは俺のうぬぼれじゃないと思うけど、あれ? おかしいな『おまわりさんよりお兄ちゃんがいい』じゃなかったの?
いつの間にか俺とわおんちゃんの立場が逆転している気がする。
「いいですよ! 一緒にいさせてあげます!」
「よかった、ありがとう」
わおんちゃんがちょっとふんぞり返って芝居掛かりの調子で言った。
立場の入れ替わりはこの際どうでもいいか。俺が苦笑しながら頭を掻いていると、わおんちゃんはキャッキャと喜びながら手を叩く。
「じゃあいこうか、わおんちゃん」
「うん!」
俺は、わおんちゃんの手を取って歩き出した。
わおんちゃんは「迷子じゃない」と明確に言い切っていた。なので、道を聞きながら住宅街の中を進む。
街灯と、月に照らされるだけの道。
人通りはない。
時折り塀の向こうから、家の中で誰かが見ているのであろうテレビの音が漏れ聞こえてくる音だけが、人の気配だ。
少し肌寒いような、温いような。
しっとりした春の空気の中を泳ぐように、俺たちは夜道を歩いていった。
「ここ」
着いた先の家は、この時間なのに真っ暗だった。
俺の手から離れたわおんちゃんが小さい身で器用に門を開け、玄関に向かっていく。
「ここ、って……」
そんなわおんちゃんの後ろ姿を見ながら、俺は呟いた。門の横に大きな看板が掲げてあり、そこには『売り家』と書かれていたのである。
「わおんちゃん?」
俺も小走りに門を抜け、わおんちゃんの後を追った。
わおんちゃんは玄関につくと、ドアをガチャガチャ。なんだか色々試しながら回してみているみたいだけど、開いていない。それはそうだ、鍵がないと開くわけない。
わおんちゃんはしばらく夢中になって玄関と格闘していたが、やがて諦めたようにこちらを向いた。
「ここ、わーちゃんの家!」
「そうなの?」
売り家だよね? とは聞けなかった。
そんな俺の思いをよそに、わおんちゃんは笑顔で頷いた。
「うん! でも入れなかった!」
そう言って、庭へと走っていく。「あ」と俺は声を上げてしまった。小さな女の子の行動は読めない。
「あ、あれ? わおんちゃん!?」
追いかけて俺も庭にいく。
そこには庭を駆けまわってハシャいでいるわおんちゃんがいた。
なにがそんな楽しいのだろうか、ちょっと俺にはわからないが満面の笑顔でキャッキャしてる。
縁側に座ってみたかと思えばすぐにピョンと立ち上がり、クルクル回り出す。
とにかくせわしなく動き回るわおんちゃん。
その姿がとても楽しそうだったので、まるで月明かりのステージで踊りを舞っているようにも見えた。
「お兄ちゃんもきてーっ!」
と、わおんちゃんが小さな池を背にして、こちらへと手を振ってくる。――って、危ない!
「わおんちゃん!」
俺は走った。バランスを崩したわおんちゃんが池のふちでおっとっと、水の中に落ちそうになっている。俺は思わず彼女を抱き抱えた。
「危ないから気をつけないと」
「ありがと、お兄ちゃん!」
わおんちゃんが俺に抱えられたまま、にっこり笑った。
「えへへ、おいけにドボンするところだった」
「気をつけなきゃダメだよ? 暗いんだから」
俺はわおんちゃんの頭をポンと叩く。そのとき。
「わーちゃん……? 和音!?」
突然、女の子の声が響いた。
見ると、庭の入口に女の子が立っている。
「なにしてるんですかあなた!? わーちゃんから離れて!」
たたたたた、と庭の中に走り込んでくる女の子。
俺はわおんちゃんを放し、距離を取った。
――あれ? と俺は一瞬戸惑う。走ってくるその女の子に見覚えがあったのだ。
月明りを受けて、湖のような青い光をたたえる長い髪。
形のいい眉の下でこちらを見るぱっちりした大きな目。それは、毎日クラスで見てる顔。
女の子は、俺をドンと突き飛ばした。
「高嶺……さん?」
「え?」
疑問符で返してきたその女の子は間違いなく高嶺瑞希、氷の姫君その人だった。
俺はよろめく。よろめいた先には、池。しまった、足がもつれた。
「天堂くん!?」
高嶺さんが俺の名を呼び、手を伸ばしてくる。
なんだか柔らかいものに顔が包まれた。ムニュっとしたなにかだ。
転びそうになった俺を、柔らかいものが支えてくれた。
「もが」
と、このとき俺はまだ気づいていない。
高嶺さんが、池に落ちそうになった俺の頭をギュッと抱えてくれて助けてくれたことに。
だから俺の顔を包んでいる柔らかいものとは、高嶺さんのおっぱいだったことに。
気づくのは、もう少し先。
恥ずかしがった高嶺さんが、顔を真っ赤にして俺の頭を手放すときなのだった。