「それじゃあ、そろそろ帰るね。遅くまでごめんね」
クマサンが、少し申し訳なさそうに微笑む。時計の針は22時半を回ろうとしていた。
「いや、遅くさせたのは、俺が生配信を計画したせいだから……。俺の方こそごめん」
告知の段階では、クマサンの部屋から生配信をしてもらうつもりで、20時からという予定時間を設定していた。クマサンが自分の部屋からの配信を断固拒否し、俺の部屋ですることを譲らなかったため、彼女をこんな時間に帰らせることになったのは、俺のせいだといっても過言ではない。
当たり前だが外はもう真っ暗で、静まり返っている。
「もう夜遅いし、家まで送るよ。自転車でついていくことしかできないけど」
免許は持っているが、車を持っているわけではない。今日は、クマサンが家から自転車で来たのも考えると、車があったところでたいして役には立たなかっただろう。
せいぜいボディーガードのつもりで併走するくらいしかできない自分が、少し情けなくもあった。
「そんなのいいよ! 悪いし!」
クマサンは手を振りながら、少し慌てたように拒否をする。
……だよね。
俺は彼女の住んでいる場所を教えてもらっていないし、彼女がこれまでの経験から警戒しているのもわかる。以前ストーカー被害にあったこともあり、男に部屋を知られるのは躊躇うはずだ。もしかしたら少しは信頼してもらっているかもと淡い期待を抱いたことが恥ずかしくなる。思えば、彼女の部屋に配信設備を整えようという俺の提案も、同じ理由で断れたのかもしれない。
それでも、彼女が夜道を一人で帰るのを見過ごせるほど割り切れない。もし、何かあったら――その不安が、俺をここで引き下がらせない。
「だったら、部屋まではついていかないから。途中までだけでも送らせて。それでもダメかな? クマサンを一人で帰らせるのは、心配しすぎて俺のストレスがやばそうだし……」
粘る俺に、クマサンは不思議そうな顔で首を捻った。しかし、すぐに何かにハッと気づいた表情に変わる。
「違うって、そういう意味で言ったわけじゃ……ふぅ、わかったよ。お言葉に甘えるね。よろしくお願いします」
クマサンは言いかけた言葉を途中でやめ、少し恥ずかしそうに頭を下げる。
「こちらこそお願いします」
つられるように俺も頭を下げていた。
なぜ頭を下げているのか自分でもわからないが、とにかく彼女を途中まででも送る役目を担えることが許された気がして、少し誇らしかった。
夜はすっかり涼しくなっていた。
静かな夜の街を、俺とクマサンの二人の自転車が並んで駆けていく。
部屋の中では賑やかだった会話も今はほとんどなく、時折クマサンが進行方向を示す声と、それに応じる俺の短い返事が交わされるのみ。
夜も更けた街で、大きな声を出すのははばかれたし、それ以上に、こんなシチュエーションに俺が妙に緊張していたからだ。
女の子と二人並んで自転車を漕ぐというシチュエーションが、高校の頃に憧れた光景そのまんまで、頭の中がそわそわしてしまう。
いつもは軽く話しかけてくるクマサンも、今は特別静かで、ただ自転車のチェーンの音が二人の間に響いていた。
俺は彼女の住んでいるところを知らない。だから、俺の方から「ここまで来れば大丈夫だね」なんて格好良いことを言って併走を切り上げるわけにはいかない。どこかで彼女の方から「ここまででいいよ」と言ってもらえるだろうと思いながら、ただ無言でペダルをこぎ続ける。
「あそこのマンションだから」
クマサンがハンドルから片手を放して指さした先に見えたのは、俺が住んでいるところより少し立派なマンションだった。高級マンションというわけではないが、どこか落ち着いた雰囲気のある建物だ。
あそこまででいいということだな――俺はそう理解する。
思ったとおり、そのマンションに近づくとブレーキをかけ、俺もそれに倣う。
俺達二人はそのマンションの前で二人並んで自転車を止めた。
「じゃあ、俺はここでお役御免だね。あとは一人だから気をつけてね」
「さすがに駐輪所から部屋までなら大丈夫だよ」
……ん?
俺は彼女の返事に、なんだか違和感を覚えた。何か俺は思い違いをしていないか?、と。
「部屋に寄っていく? 喉が渇いているなら、飲み物くらい出すよ?」
部屋?
その言葉で、さすがの俺も違和感の正体に思い至る。
「もしかして……ここがクマサンの住んでるマンションなの?」
「うん、そうだよ。ここの202号室」
彼女はあっさりと答えた。
てっきり途中までで送る役目が終わると思っていたのに、俺は最後までナイトを務める栄誉を授かっていたのだ。
しかも、こんなふうに部屋まで教えてくれるなんて……。
思わず心臓がドキドキしてくる。
「で、どうする? 寄っていく?」
「だ、大丈夫、喉は乾いてないから! それにもう夜も遅いし!」
彼女に問いかけに、慌てて首を振る俺。
そんな俺を見て、クマサンは小さく笑って手を振った。その顔がどこか寂しそうに見えたのは、夜の暗さのせいだろうか……。
「そっか。それじゃあ、またの機会に、だね」
「お、おう」
頭の中が熱く、まともな言葉も浮かばず、俺はただぎこちなく返事をした。
彼女と手を振り合い、名残惜しい気持ちを胸に、その場を後にする。
帰り道、静寂に包まれた夜の街を一人自転車で走りながら、俺はだんだんと冷静さを取り戻す。
徐々に、先ほどの状況が頭の中で反芻され、ふと気づいてしまった。
「……待てよ。あれって、生まれて初めて女の子の部屋に入るチャンスだったんじゃないのか?」
そう気づいた途端、顔が一気に熱くなる。
自分が思わず逃してしまったその機会を、ひどく惜しく思い、後悔の念が押し寄せてくる。
帰り道のペダルが、やけに重く感じられ、風が冷たく心に染みた。