生配信はクマサンの軽妙なトークにより、スムーズに進んでいった。
事前に、話す内容の元となる台本のようなものを俺が作っておこうかと提案したが、それは彼女に断られていた。話の流れに縛られず、視聴者からのコメントに自然体で応じられるほうが良いという彼女の考えによるものだ。正直なところ、面白い台本が書ける自信などなかった俺は、彼女の判断に従ったのだが、その決断が正解だったと今、深く実感している。
初回の配信ということもあり、俺達が作り上げたクマーヤのプロフィールに基づく自己紹介や、軽い雑談が中心。それだけのはずが、クマサンの語り口ひとつでそれは生き生きとした物語に変わっていく。絶妙な間の取り方、抑揚、そしてリズム。それらが見事にかみ合って、彼女の話はつい耳を傾けたくなる魅力を帯びていた。俺の台本なんかで話を進めていたら、きっとこうはならなかっただろう。彼女の言葉はまるでその場で生まれ、語られるごとに形を変えていく一種の芸術のようだった。
そして、何よりも、最も視聴者の心を引き寄せているのは、クマサンの声そのものだった。普段の会話でも、まるで鈴が転がるような心地よい声だとは思っていたが、声優としてのスイッチが入った今の彼女の声はその何倍も魅力的だった。一目惚れというものが、声にもあるんだと俺は初めて実感した。言うなれば、一耳惚れとでも言うのだろうか。
これまでの動画でも、クマサンにはクマーヤの声をあててもらっており、その時も十分に感動したが、今日のクマサンはそれ以上だった。クマーヤというキャラクターが、しっかりと彼女の中に落ちたおかげだろうか、声の専門家ではない俺でも、今のクマーヤの声には魂が入っているのがわかる。
視聴者からのコメントも、クマサンの声を称賛するものが書き込まれていた。
でも、彼らが聞いているのは、一旦0と1の電気信号に置き換えられたものを、機械で再現し直したものにすぎない。本当の今のこの生のクマサンの声を聞いているのは、世界中で俺だけ。その事実が俺に何とも言えない優越感を与えてくれる。
「みんな、クマーヤのこと褒めてくれてありがとう! クマーヤも嬉しいよ!」
視聴者のコメントに対して、クマサンはできるだけ言葉を返していく。
目の前の一人一人のファンを大切にする――それは俺とクマサンの共通した想いだ。
だけど、それに対して不安もあった。
『クマーヤの声って熊野彩の声に似てるけど本人だったりして』
流れてきたそのコメントに思わず目が留まる。
きてしまったか。
俺が恐れていたのは、この手のコメントだった。
元声優の熊野彩さんがVチューバークマーヤの正体だと明らかにすれば、バズる可能性は高い。良い意味でも悪い意味でも話題にはなるだろう。
熊野彩をもう一度表舞台に上げる――そのためには、ここで真実を明かすのは、有効な手段だと言える。
彼女の選んだ答えは――
「クマーヤの国でもよく似てるって言われていたよ! その人の声が好きだった人にも、クマーヤの声を好きだって言ってもらえたら嬉しいかな」
彼女は、あくまでクマーヤでいることを選んだ。
躊躇いや後悔など微塵も感じさせない、クマーヤとしての素直な言葉――少なくとも俺にはそう聞こえ、胸の奥にストンと言葉が入ってきた。
今のクマサンは完全にクマーヤになり切っている、いや、もはや一体化しているとさえ感じられた。
『本人っぽいんだけどなぁ』
『似てるけど微妙に違う』
『熊野彩のファンだったから似ている声が聞けて嬉しい』
クマサンの返答に対するコメントは様々だったが、「絶対に本人だ」と言い張るものはほとんどいなかった。
声優の中には、二つのタイプがいると言われている。一つは、どのキャラクターを演じてもその声が特徴的で、すぐに同一人物だと気づかれるタイプ。もう一つは、役によって声色を変え、エンディングのキャスト欄を見てようやく声優名に気づくような、多彩な表現を持つタイプだ。この二つは、どちらが優れているかと優劣をつけるようなものではなく、求められているものが違うだけで、どちらも一流のプロだ。
声優熊野彩は、特徴的な声から前者だと思われがちだが、実際は後者に近い。彼女はこれまで演じてきたキャラクターで、まったく同じ声をあてたことが一度もない。声の質やトーン、抑揚の微妙な調整によって、キャラクターごとに、唯一無二の声を作り出してきた。
だからこそ、今のクマーヤの声は、熊野彩が過去に声をあてた既存のどのキャラクターとも違うものに仕上がっている。視聴者が「似ている」と感じても、完全に同じだとは確信を持てないのは、その細かな違いが生む絶妙なバランスのおかげだろう。
ちなみに、この声優熊野彩に関する分析は、俺自身がしたものではない。全部クマサンから聞いた話だ。だから、間違っても、俺が熊野彩のヤバイ声オタとか思わないでもらいたい。
画面の中でのクマーヤの話題は、アナザーワールド・オンラインへと移っていた。
多くの人にとって、クマーヤを知るきっかけはインフェルノ戦の動画だろう。だとすれば、今視聴してくれている人も、アナザーワールド・オンラインのプレイヤーが大変を占めるはず。話がゲームメインになるのも当然の成り行きだった。
そうなってくると、あの動画のパーティメンバーとの関係や、あの中の誰かがクマーヤではないかという話になってしまうのだが、クマサンは含みを持たせるだけではっきりと言及せずにそれらをやり過ごしていた。
普通に考えれば、パーティメンバーの誰かがクマーヤなんだろうと思うが、クマーヤはいつの間にか、それをはっきりと追及してはいけないという雰囲気や空気感を、配信の空間の中に作り出していた。
もともとアナザーワールド・オンラインのプレイヤーには、キャラクターになるきりロールプレイタイプが多い。そのあたりの空気の読み方、楽しみ方は心得ているのかもしれない。中にはしつこく追及のコメントを送ってくる人もいたが、クマサンだけでなく、ほかの視聴者からもスルーされていた。
クマーヤの出身は、海と陸の間にあるクマーランドで、彼女はそこから遊びに来ているなどというわけのわからない話も、たいしたツッコミもなく受け入れてくれていた。こんなふうに優しく見守ってくれる視聴者が多いのは、ありがたい限りだ。
「わあ、摩天楼の騎士さん、スパチャありがとう! クマーヤ、初めてのスパチャだよ!」
その声には、喜びの中に大きな驚きが混ざり合っていた。
スパチャとは、スーパーチャットの略で、視聴者がコメントと一緒に配信者へお金を送れるシステムのことだ。スパチャした側は、コメントが色付きになり、配信者の目につきやすくなり、他の視聴者に対していくらかの優越感を得られはするが、それ以上の実質的なメリットは何もない。スパチャすれば、たいてい配信者に名前くらいは呼んでもらえるが、冷静に考えれば、握手してもらえるよりも得られるものはないような気がする。
同じような応援のシステムでも、クラウドファンディングとかならまだ支援者に何かしらのリターンがあるものだが、このスパチャは自己満足くらいしか得られものがない。ある意味、それこそが本当の応援であり、愛なのかもしれないが……まさか自分達がスパチャしてもらえる側に回るとは思ってもみなかった。
クマサンも、冷静に礼を返しながら、びっくりした顔を俺へと向けてきていた。
俺は「大丈夫だ」とばかりに頷いてみせるが、何が大丈夫なのか、俺自身もわかっていない。
摩天楼の騎士とやらがスパチャしてくれた金額は500円だが、無職の俺にとってみればそれでも十分なものだ。パンとジュースなら一食分賄え、お釣りがくる。
同じ無職のクマサンも、その感覚は同じなのだろう。決してスパチャなんて期待していなかっただろう。
「スパチャは嬉しいけど、みんな、お金は大事だからね! 何かをやりたいと思ったときに備えて取っておいたほうがいいこともあるし、使いどころは考えようね!」
マイクに向かって懸命にそう伝えるクマサンに、俺はほっとした。
彼女の素顔が垣間見えた気がして、改めて安心したのだ。ここでさらなるスパチャを煽るような彼女でなく、本当に良かった。
しかし、クマサンのそんな思いが視聴者にどう伝わるのかはわからない。クマサンの遠慮がちな言葉が逆に響いたのか、さらに高額のスパチャが飛び込んできた。
「竜騎士さん、スパチャありがとう。『今度アナザーワールドで会ったら一緒に冒険してください』ってことだけど、多分クマーヤは見つけられないと思うよ! でも、もし会えたら、その時はよろしくね!」
「ヘタレ番長さんもスパチャありがとう。でも、クマーヤの3サイズは内緒だよ! スパチャの金額を上げても答えないから、それ以上やっても無駄だからね!」
「琵琶湖の水さん、スパチャするから早口言葉に挑戦しろって? 『バスガス爆発、バスガス爆発、バスガス爆発!』、はい、3回言えたっ!」
恐ろしいこと、摩天楼の騎士のスパチャを皮切りに、ほかの視聴者までスパチャをし始めていた。中には1000円を超えるスパチャも飛び交い、クマーヤの配信は一気に賑わいを増していく。
俺が無職でいるうちに、日本にはまたバブルがやってきていたのか?