バージョンアップ直後ということもあり、正直もっと新要素をじっくり楽しみたいという気持ちはあった。だが、配信動画の世界では、鮮度が命だ。アナザーワールド・オンラインのゲーム動画は数多く投稿されているが、実装されたばかりのドラゴン戦に関してはまだほとんど動画が上がっていないだろう。ほかの動画投稿者に先んじて動画をアップすれば、注目度が上がるに違いない。
そう考えた俺は、みんなと別れ、アナザーワールド・オンラインからログアウトすると、すぐに動画編集に取り掛かった。
VRゲームであるアナザーワールド・オンラインは、生配信には向いていない。ヘッドディスプレイを装着してのプレイは、リアルタイムで配信するには制約が多すぎる。
しかし、プレイ動画の用意自体は容易だった。
このゲームには、過去のプレイ内容を映像として記録する基本機能が備わっている。記録は、実際にプレイしたのと同じ自分視点だけでなく、まるでスポーツ中継を見るかような第三者視点でも見ることができる。特にパーティプレイを第三者視点で振り返ると、自分中心の視点では見えなかった戦況全体がわかり、戦略の見直しや改善にも役立つ。
さらに、この映像は、自分視点も第三者視点も、外部デバイス、例えばパソコンに送るのも簡単で、編集を施さずにそのまま動画サイトにアップロードしても、十分に視聴に耐えうる内容となっている。特に第三者視点の映像は、一つの映画を観ているかのようで、人のプレイ動画であっても、一度見始めるとつい引き込まれてしまう。だからこそ、今回のドラゴン戦の動画は、下手に手を加えずそのまま見せるだけでも十分に価値があると思った。
結果として、ドラゴンとの戦闘部分だけを抜き出しただけで、俺の編集作業はほぼ終わってしまった。
あの激闘は、どの瞬間も無駄がなく、一秒たりとも削るべきところが見当たらなかった。30分足らずの映像だが、その濃密さゆえに長さを感じさせない、見応えある映像だ。
クマーヤ用のセリフはまだこれから用意しなければならないが、とりあえず動画が完成したことをクマサン――現実世界では熊野彩さんと言うべきだろうか――に連絡すると、わずか一時間後には、彼女は俺の部屋に来てしまった。
そして今、パソコンの前の椅子に座り、目の前のモニターを食い入るように見つめている。
「……自分で経験したはずなのに、見てると興奮するね」
ドラゴンとの戦闘動画を一通り見終えた彼女は、止まった映像を見つめたまま、興奮した声で呟いた。その声には、あの戦いの熱量が再び宿っているかのように感じる。きっと、あの時の緊迫感や興奮が、蘇っているのだろう。
「これだけでも十分おもしろいんだけど、俺達の場合はクマーヤの動画にするから、クマーヤをどういう立ち位置にするか考えないといけないんだよ。攻略動画としてクマーヤに解説させるのがいいのか、それとも初心者が見てもわかるような解説をさせた方がいいのか……。どちらにしても、まだクマーヤのセリフを考えてないんだけどね。こんなに早くクマサンが来るとは思ってなかったから……」
「何よ、来たのが迷惑だった?」
頬を膨らませた彩さんが、大きな瞳を俺へと向けてきた。
そんな仕草に思わずドキリとしてしまう。
「いや、そんなことは全然ないよ! びっくりしただけで!」
「……嘘ついてる感じじゃないね。ならばよし」
彼女の微笑みを前に、俺はほっと胸を撫で下ろす。熊野彩さんが自分の部屋に来てくれて迷惑だと思う男はいないだろう。俺の場合、彼女が声優の熊野彩ではなく、ただの女の子の熊野彩だったとしても、それは同じだ。
「それより、クマーヤに何を喋らせるかなんだけど――」
「それなんだけど、解説とかじゃなく、クマーヤに見たままのことを喋ってもらうのはどう? この動画を見てくれる視聴者と同じ目線で、自由に思ったこと話してもらった方が、クマーヤと一緒に動画を見ている感じで楽しめるんじゃないかな? こんなワクワクする動画なんだから、変に解説入れるより、感情を共有できる方が見ている側も楽しいと思うんだ」
彩さんの提案に、俺はしばし考え込んだ。
確かに、それも一つの手だ。
攻略動画としての需要もあるが、見る人に共感してもらい、あの戦いの興奮を伝えるには、クマーヤが感情豊かに話すのが一番かもしれない。
たとえば、誰かと一緒に映画を観ているときに、隣でいちいち解説されたら興ざめもいいとこだ。一緒に観たいのは、同じ場面で笑い、驚き、感動し、それを共有したいからだ。まぁ、そんな経験、もう何年もしてないけど……。
それはともかく、彩さんの言っていることには俺も深く納得した。
「確かに、クマサンの言う通りだね。でも、どっちにしろその内容で喋るセリフを用意しないといけないな……」
「大丈夫だよ。動画の内容は今一通り見たし、あとはアドリブでいけるよ」
「え?」
「見て感じたことをクマーヤとして言葉にするだけだよ。下手にセリフを作っちゃうと、逆に伝わらなくなると思う。感情って、その場で湧き出た言葉だからこそ、相手に響くんだよ」
自信に満ちたその言葉に、俺は知らず頷いていた。
確かに、彼女の言う通りかもしれない。
予定調査のセリフより、素直な生の感情の方が、きっと見ている人達には伝わる。
さすがは元声優。言葉の力を知っているのだろう。
彼女の覚悟を前に、俺が口を挟む余地などないと、改めて思い知らされた。
「わかった。クマーヤの魂はクマサンそのものだ。クマサンに任せるよ」
俺が真摯な思いを込めて告げると、彩さんは可愛らしく微笑んでくれた。その笑顔は、ゲームの中でのクマサンと同じ頼もしさを宿しているように感じられ、俺の中に安心感が広がる。
すっかり彩さんも信じる気持ちになった俺は、動画に声を入れる準備をするため、座っていた彼女に一旦その場所を開けてもらった。
彼女が今の今まで座っていた椅子に腰を落とすと、そこにほのかな温もりが残っていた。
今までずっと一人で作業していた俺にとって、こんな形で誰かの温もりを感じることは、この部屋では初めての経験だった。人の存在を肌で感じる、それだけで自分が今、一人じゃないことを改めて実感する。
しかも、この温かさが、彩さんというとっても可愛い女の子のものであることを考えると……いかん、いかん。想像が妙な方向に向かいそうになる。
俺は大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、現実の綾さんをVチューバークマーヤへと変身させるための準備に取り掛かった。ソフトを起動し、カメラとマイクのセッティングを進めていく。
今回の動画は、単なるゲームプレイ動画ではなく、Vチューバークマーヤとしての動画だ。そのため、画面には常にクマーヤの姿を表示させる必要があり、ゲーム画面と彼女の姿をどう配置するかについて少し悩んだ。
第三者視点のゲームプレイ動画の場合、全体を映すようなカメラワークが多くなるため、スマホで見ると映像が細かくなりがちだ。クマーヤと被らないようにゲーム画面を縮小すると、何をしているのか視聴者がわかりづらくなる恐れがある。
結局、ゲーム画面の大きさはそのままで、そこにクマーヤの姿を重ねる方法を選んだ。クマーヤの表示は小さめにするが、それでも体がゲーム画面の一部を隠してしまう。でも、クマーヤの魅力が伝われば、多少の見づらさくらい視聴者はきっと受け入れてくれるだろうと信じた。それだけ、俺はミコトさんが描いてくれたクマーヤの可愛さには自信を持っている。
「クマサン、準備できたよ。生配信じゃないから、やり直しも編集もできる。とにかく、自由に好きなようにやってみて」
「わかった。ありがとね」
俺が椅子から立ち上がると、入れ替わるように彩さんが腰を下ろした。その時、ふわりと彼女のショートカットの黒髪から甘い香りが漂い、俺の鼻腔をくすぐった。思わず、学生時代、近くを通り過ぎたクラスメイトの女子から感じた、あの甘くて柔らかな香りを思い出し、鼓動が少し早くなってしまう。
……どうして俺は、こんな時にそんなことを考えているんだ?
急に気恥しくなり、俺は心を落ち着けるように深呼吸した。今の俺の役割は、彼女を見守り、サポートすることだ。余計なことを考えている暇はない。
俺は邪魔をしないよう、静かに彼女を見つめた。
彼女は既に気持ちを切り替えて、画面に意識を集中させている。
先ほどまでの柔らかな雰囲気はいつの間にか跡形もなく消えていて、そこにいるのはプロの表情を浮かべた彩さんだった。
彼女の瞳は、澄んだ湖のように静かで、どこか神秘的な光を帯びている。それが、まるで神聖な儀式の始まりを告げるかのように、緊張感を貼り詰めさせる。
俺は、ふと息を呑んだ。
何も変わっていないはずなのに、目の前の彼女が、クマーヤと重なって見えてくる。現実の彩さんと仮想のクマーヤが、次元を超えて同じ場所にいる――そんな感覚に俺は捉われた。