いよいよVチューバー・クマーヤの初投稿用動画を作成する日がやってきた。そして、その日が来てしまったということは――クマサンが俺の部屋に来る日が来てしまったということだ。
「汚い部屋だけど、どうぞ」
「おじゃまします」
俺が部屋のドアを開けると、クマサンが玄関に一歩足を踏み入れた。
その瞬間、俺の胸は高鳴る。
俺の部屋に女の子が入るのは、これが初めてだった。しかも、その女の子が声優・熊野彩だなんて、まるで夢のようだ。今までの出来事がすべて夢だったと言われたら、きっと信じてしまうだろう。
待ち合わせ場所でクマサンと合流した俺は、そのまま彼女を連れてここまでやってきた。
今日の彼女の服装は、クマーヤと同じ茶色のパーカーにホットパンツ、黒ニーソという、まさにキャラクターそのもの。パーカーの襟元から見える白いシャツまで、細部にわたってクマーヤに合わせているなんて……。
そんなクマサンの姿を見て、俺は心の中で「激可愛い!」と叫んでしまった。
「失礼します」
クマサンは靴を脱いで部屋に上がると、振り返って腰を下ろし、脱いだ靴を丁寧に揃えた。
その一連の動作に、俺の胸はさらに高鳴る。
なんと礼儀正しい娘なんだろうか。今の動作だけで胸がときめいてしまうなんて、俺は本当にダメだ。変な気持ちなんて絶対に持っちゃいけないというのに。
俺もドアを閉めてから靴を脱ぎ、クマサンと同じようにきちんと靴を揃えた。
彼女の礼儀正しさに影響され、いつもより自分の行動が丁寧になっている気がする。
「それじゃあ、キッチンをお借りするね」
クマサンは微笑みながらパーカーを脱ぎ、持参してきたクマ柄のエプロンを身につけた。
その姿がまた可愛らしく、俺は一瞬見とれてしまった。
ああ、俺の部屋のキッチンに女の子が立ってくれるなんて……。
そんなふうに幸せに浸っていたが、すぐに現実に戻る。
呆けている場合じゃなかった。材料を用意しないと!
当初の予定では、俺が料理を作り、その様子を固定カメラで撮影して動画を編集するつもりだった。
しかし、クマサンが「自分で作った方が声をあてるときにリアルティが出る」と提案してくれたので、声の収録だけでなく、彼女が俺の部屋で実際に料理を作ることになったのだ。
今、目の前でクマサンがエプロン姿でキッチンに立っていることが、まるで夢のように感じるが、これが現実だ。まさか半分思いつきで言ったVチューバーの話が、こんな幸運な事態を引き寄せてくれるとは思わなかった。
「じゃあ、まず一つ目の材料を用意するよ」
俺は冷蔵庫から材料を取り出し、キッチンに並べていく。
今回作る料理は2品。洋食屋を営んでいた両親が、冷蔵のありあわせの材料で作ってくれた料理を、動画で紹介しようと考えていた。
一つ目は、「ひき肉とキャベツの塩そば飯」。ご飯と市販のやきそば、豚のひき肉、キャベツ、小ねぎ、鶏がらスープの素、レモン汁、塩、黒こしょう、ごま油で作る簡単な料理だ。
もう一品は「クリームパスタ風水餃子」。こっちも、市販の水餃子があれば、あとは、長ネギ、牛乳、レモン、コンソメ、粉チーズ、塩、こしょう、黒こしょう、オリーブ油をそろえるだけで作れる。
並べた材料の撮影を終えると、俺は後ろで待っているクマサンに声をかける。
「さあ、ここからはクマサンの出番だよ。俺が指示する通りに作ってくれればいいから」
今回の動画のテーマは、「あり物を使ったアレンジ料理」。もう一つ重要なのは、誰でも簡単に作れるという点だ。クマサンは「料理は苦手だけど頑張る」と言っていたので、この料理に挑戦してもらうのにはうってつけかもしれない。
「はい、よろしくお願いします、先生」
こんな可愛いエプロン姿のリアルクマサンに、あの熊野彩の声で「先生」と言われてしまった。
勝手に顔がにやけてしまいそうになる。
でも、そんなことじゃダメだ。
これは大事な料理動画の撮影。俺が気を抜いてどうする!
「それじゃあ、まずクマサン、このゴム手袋をつけて」
俺はクマサンに黒いゴム手袋を差し出す。
「素手じゃダメなの?」
「衛生的に見えるし、材料が映えるってのもあるけど、クマサンのリアルに繋がるような情報の露出は極力避けたほうがいいからね。ほくろ一つでも個人を特定されかねないし」
「なるほど。気を遣ってくれてありがとう」
俺は今回のVチューバー計画に「熊野彩」の名前を使うつもりはなかった。
どこかの大手事務所が大々的にVチューバーデビューさせようというのならともかく、俺達がやろうとしているのは、所詮素人のVチューバー企画だ。下手に熊野彩の名前を出して失敗すれば、彼女の名前をさらに落とすことになる。だからこそ、熊野彩が関わっているという証拠になるようなものは映さないつもりだ。
それに、あんなストーカー事件にも遭遇したわけだし、彼女の安全を守るためにも、慎重すぎるくらいがちょうどいいのだろう。
「それじゃあまず――」
こうして俺達の料理づくりと動画撮影が始まった。
クマサンは料理が下手と言っていたものの、料理が出来ないという人種ではなく、少したどたどしい部分もあったが、一つ一つの作業を丁寧に進めてくれた。
俺はその様子を見て、彼女の真剣な姿勢に感心すると同時に、心の中で少しほっとした。
1つ目の料理が無事に仕上がると、2つ目の料理にもとりかかった。
彼女はさらにスムーズに作業をこなしていく。
そして、見事に2つ目の料理も完成した。
撮影した動画もざっと確認した限りでは問題なさそうだ。
動画編集はまた改めて行うとして、次は肝心のクマーヤの解説セリフの収録だ。だが、その前に、先ほどから部屋中に漂っている2品の料理の良い匂いが、俺の注意を引いて離さない。
クマサンの手作り料理……そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る。
俺は女の子の手作り料理なんて、これまで一度も食べたことがない。
もしこれを食べられたら、なんて幸せなんだろうと、思わず想像してしまう。
だが、すぐに我に返る。
これはクマサンが動画用に作ってくれたものであって、俺のためではない。食べる権利があるのは作った本人だ。
それに、声を当てるなら料理の味を知っていた方がいい。味もわからない料理の解説では、心がこもったものにはならないだろう。
だから、この料理はクマサンが自分で食べるべきだ。
俺は心の中で涙を流しながら、自分にそう言い聞かせた。
だけど――
「じゃあ、せっかく作ったし、二人で半分っこして食べる?」
クマサンが少し照れたように、小首をかしげて言った。
俺は自分の心が撃ち抜かれる音を聞いた気がする。
「……いいの?」
「え、どうして?」
クマサンの返しは、俺が彼女の手料理を食べることに対して全く抵抗がないことを示していた。
「……ありがとう。いただきます。クマサンの手料理を食べられるなんて、思ってもみなかったよ」
「な、なによそれ。……言っておくけど、私はショウの言う通りに作ったんだから、もし美味しくなかったとしても、私の責任は半分くらいしかないんだからね!」
そのツンとした感じもまた可愛い。
俺は顔がにやけそうになるのを必死でこらえた。
「美味しくないはずがないって!」
「なるほど。私が作っても美味しくなるっていうくらいレシピに自信があるんだ」
違う。
そんな意味で言ったんじゃない。
クマサンが作ってくれたというその事実だけで、料理の美味しさが何倍にも増しているに決まっている。
でも、それをそのまま口にするのは、さすがに恥ずかしすぎて、俺は言葉を濁すことしかできない。
「と、とにかく、冷めないうちに食べよう! 食べたら声の収録だし、しっかりエネルギー補給しておいて」
「はーい」
クマサンは返事もまた可愛い。俺はその声に背中を押されるように、追加の皿を取りに向かった
戻ってくると、その皿にクマサンが料理を取り分けてくれた。
彼女の手際の良さに、少しばかり驚きながらも、俺達は準備を整えてテーブルに向かい合った。
やばい。緊張する!
まるで新婚の奥さんが初めて料理を作ってくれたような、そんなありえない想像が頭をにぎる。
「いただきます」
クマサンが手を合わせるのを見て、俺も慌てて手を合わせる。
「いただきます」
俺は箸を手に取り、ひき肉とキャベツの塩そば飯を口に運ぶ。
これは俺が指示したレシピ通りに作ったのだから、当然味も俺の予想通りのはずだった。 実際、口の中に広がったのは、よく知っている味だ。
でも、どうしてだろう。
知っているはずの味なのに、いつもよりずっと美味しく感じる。
クマサンという可愛い女の子が作ってくれたからだろうか?
それとも、これが誰かと一緒の食事だからだろうか?
「んん! 美味しい!」
「……ああ。本当にそう思うよ」
クマサンは、すっかり味覚を取り戻しているようだった。彼女は頬を緩め、俺の目の前で嬉しそうに自分の作った料理を口に運んでいる。
見た目は全然違うのに、その姿はゲームの中で、俺のハンバーグを食べているクマサンの姿を思い起こさせた。
「……やっぱり、クマサンはクマサンなんだよな」
「ん? 何か言った?」
「……いや、別に。ただ、クマサンって意外と料理が上手なのかもって」
「え、ホント? 家でももっと練習しようかなぁ」
楽しい食事の時間はあっという間に過ぎ、俺達は料理を綺麗にたいらげた。
次に取りかかるのは、クマーヤの音声収録だ。
俺はクマサンにはwebカメラを取り付けたパソコンの前に座ってもらい、準備を整える。
「カメラでクマサンの表情を読み取って、アバターにも反映されるから、声だけじゃなくて表情も意識してもらえるかな? あと、手を動かしてもらうと、アバターに動きが出るから、できるだけ身振り手振りも入れてみて」
「うん、わかった!」
撮り直しができるし、編集で手を加えることもできる。だから、まずは練習のつもりでやってもらえればと思っていた。
だが、クマサンの表情がふと変わり、柔らかな微笑みが消えて、まるで戦士が戦場に立つ時のような鋭さが浮かんだ途端、部屋の空気がピリッと張り詰めた。まるで、自分の部屋が別の世界に変わってしまったかのように感じられる。
そして、クマサンが口を開き、その涼やかな声が俺の耳に届くと、瞬時にして彼女の世界に引き込まれてしまった。音の波が俺を包み込み、他の感覚が次々と消えていくような錯覚に陥る。
彼女の話す言葉の一つ一つの言葉が、生き生きと命を宿し、まるでその言葉自体が物語を紡いでいるかのようだった。
これがプロの声優というものなのか……。
俺はクマサンが生み出す声の芸術に完全に溺れて、ただ流されるまま漂っていた。
「……ショウ、終わったよ?」
その声はハッと我に返った。クマサンが振り向き、少し首をかしげながら俺を見ている。
完全に彼女の声に酔いしれていたせいで、いつの間にか収録が終わっていたことに気づいていなかった。
まるで夢から覚めるような感覚だった。
や、やばい……。いつの間に……。
俺は慌ててクマサンの隣に立ち、マウスを手にして終了操作を行う。
自分がどれだけ彼女の声に引き込まれていたのか……その余韻がまだ残っている。
「お疲れ様。……すごかったよ」
ようやく口に出せた言葉はそれだけだったが、心からの感想だった。
「ホント? ありがと! どこかやり直したほうがいいところとかあるかな?」
クマサンの顔には満足そうな表情が浮かんでいたが、それでも真剣に聞いてくる。
「……いや、何も言うことはないよ。俺が考えていたセリフも、クマサンが自分なりにアレンジしてくれて、まるでクマーヤそのものが喋っているように聞こえたよ」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
彼女の声とアバターの動き、そのすべてが完璧だった。
これほどのクオリティなら、大手事務所のVチューバーにも負けない――いや、むしろそれ以上のものを見せつけることができるだろう。
あとは俺の動画編集次第だ。
「料理ごとにアバターと組み合わせて投稿用動画にまとめるよ。完成したらネットにアップする前に、クマサンとミコトさんに確認してもらうから、率直な意見を教えてくれるかな?」
「うん、わかった! 楽しみにしておくね」
こうして、俺とクマサンの音声収録は無事に終わった。
それから数日間、俺はゲームのログインも最低限にとどめ、寝る間も惜しんで動画編集に没頭した。
そして、ついに二つの投稿用動画を完成させた。
自分で言うのもなんだが、初めて作ったVチューバー動画としては、十分に納得のいく出来栄えだったと思う。
クマーヤの愛らしい表情とクマサンの魅力的な声が、見事に融合していた。正直、料理なんてどうでもよく感じるほど、クマーヤの存在感は圧倒的だった。
クマサンとミコトさんにも動画を確認してもらったところ、二人からも高評価を得た。これなら、視聴者の反応もきっと良いものになるはずだ。
ネットに動画をアップしながら、俺は期待に胸を膨らませていた。
視聴者の反応が楽しみで仕方がない。
――だが、その期待は、まもなく冷たい現実に打ち砕かれることになった。