警察の事情聴取に長い時間を費やし、ようやく家に戻った俺は、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。まるで意識を失かったかのように深い眠りに落ち、目が覚めた時にはすでに夜になっていた。
「一応、ログインくらいしておくか」
俺にとって「アナザーワールド・オンライン」はもはや生活の一部だった。サービス開始以来、一日も欠かさずログインしてきた。このままログインせず1日を終えるというのはあり得なかった。
俺はベッドに寝転がりながら、ヘッドディスプレイを装着する。
目の前に、現実の自分の部屋のキッチンよりも見慣れたゲーム内での俺の店のキッチンが広がった。
そういえば、販売用の料理を作ろうとしていたところで、クマサンからSOSを受けたんだった。
……クマサン。
俺はつい思い出してしまう。リアルのクマサン――熊野彩のことを。
思えば、あんなに可愛い女の子と、あんなに親密に話をしたのは初めてかもしれない。学生時代ですら、あれほど近くで女の子と話す機会なんてなかった。
俺はふと気になって、ギルドメンバーリストからクマサンの名前を探す。
……ログインしている。
彼女も疲れているはずだ。それも俺以上に。狙われたのは彼女であり、精神的には俺にも想像もつかないほどの疲労があるだろう。
そっとしておいた方がいいのかもしれない――そう思いつつも、俺はついチャット申請を送ってしまっていた。気分が乗らないならようならそのまま気づかないフリして、無視してもらって構わないと思いながら。
しかし、クマサンはすぐに俺の申請を受け入れてくれ、いつもの渋いクマサンの声が耳に届いた。
「ショウ! よかった、来てくれたんだね! あんなことがあったから、もうログインしないんじゃないかと少し不安だったよ」
クマサンの声は思った以上に明るかった。その調子に、俺は思わずホッとする。
ただ、声色はいつもの渋いクマサンの声なのに、しゃべり方が昨日の熊野さんと同じだったので、聞いている方としては違和感が凄い。
「それはこっちのセリフだよ。クマサンこそもう来てくれないかもしれないって、俺も不安だったし」
「そんなわけないよ。だって、ここは私の居場所なんだし!」
居場所――その言葉が心に響いた。それは俺も同じだ。この「アナザーワールド・オンライン」はもう俺の生活の一部であり、クマサンも同じように感じてくれていることが嬉しかった。
「でもよかった。ショウが本当の私のことを知ったら、引くか怒るかするんじゃないかって、不安だったんだ。だけど、いつも通りでいてくれるんだね」
「そんなの当たり前だろ。俺にとってクマサンはクマサンだ」
「ショウ……」
クマサンのつぶやきが、どこか噛みしめるように聞こえてきた。
俺としては当たり前のことを言っただけだったが、クマサンにとっては何か感じるものがあったのかもしれない。
「それよりクマサンこそ大丈夫か? あの男はこのまま出てこられないみたいだから、当面は大丈夫だろうけど……」
警察の話ではあのストーカー男はこのまま勾留されるらしい。単なるストーカー行為ではなく、実際にクマサンや俺にも手を出してきた以上、簡単に釈放されるようなことはないそうだ。保釈が認められたとしても、クマサンには連絡がいくし、警察もパトロールを強化してくれるという話だった。
「うん、大丈夫。夜には一人で出歩かないようにするし」
「そっか。もし夜に出かける必要があったら、俺で良かったら一緒に行くけど……」
口に出してから、少し調子に乗りすぎたのではないかと不安がよぎる。
クマサンはあんな目に遭ったばかりだ。こんなこと言われても、かえって迷惑に思われるだけじゃないだろうか。
俺は言ってしまってから自分の言葉を後悔したが――
「ホント? ショウが一緒なら安心だから嬉しいけど……」
「えっ……?」
予想外の反応に、心臓がドキドキと早鐘を打つ。まさか、こんなに素直に喜んでくれるとは思わなかった。
「俺でよかったら、いつでも言って。できることならなんでもするから。ボディガードはもちろん、もし何かクマサンの声を活かしたことをするなら、俺にできることなら手伝うし」
「声かぁ……。でも、事務所は辞めちゃったからなぁ」
思い過ごしかもしれないが、俺にはその声からは後悔の色が感じられた。
とはいえ、手伝うとか言ったものの、声の仕事に関して俺は門外漢だ。クマサンがVチューバーでもやるなら、プログラマーとしての経験が活かせるかもしれないけど。
……Vチューバーか。Vチューバーなら顔出しもないよな。
「ねぇ、クマサン。Vチューバーとかやってみる気はない? これでもプログラマーやってたから、俺も役に立てるかもしれないんだけど」
「Vチューバーかぁ。それは考えたことなかったなぁ」
「クマサンのあの声を、このまま眠らせておくのはもったいないよ。一度聴いたら耳から離れない、少し余ったるくて、それでいて凛として涼やかな、あの熊野彩の声、俺はまた聴きたい」
俺の言葉は無責任だったかもしれない。それでも、俺は直接聞いた熊野彩の声に心を奪われていた。その声をこのまま世の中から消してしまうのは惜しい、そんな思いが心の中に芽生えていた。
しかし、俺の今の言葉が思わぬ方向に転がっていくことになってしまう。
「えええええええぇぇぇぇぇぇ!? 熊野彩って、クマサンがあの声優の熊野彩ってことですか!?」
突然、悲鳴のような声が響いた。
その声はクマサンのものではない。もちろん俺のものでもない。
だけど、聞き覚えのある声――それはミコトさんの声だった。
「ミコト!?」
「え、嘘、ミコトさん、どうして!?」
クマサンと俺は、同時に驚きの声を上げた。
俺は慌てて辺りを見渡すが、ミコトさんの姿は見当たらない。
そもそも、俺とクマサンが話していたのはボイスチャットだ。もしミコトさんが近くにいたとしても、聞こえるのは片方の声だけで、会話全体を聞くことはできないはずだった。
「言い訳みたいになりますけど、盗み聞きしてたわけじゃないんです! ギルドチャットの申請がきたから普通に許可しただけなんです! でも、まさかいきなりこんな話が始まるなんて思ってなくて……」
あ……。
どうやら俺は、半分寝ぼけていたのか、クマサンへ個別チャットを申請したつもりが、ギルドチャットの申請をしてしまっていたらしい。
ギルドチャットは個別チャットと違い、ギルドメンバー全員に通知が届くシステムだ。
ギルドメンバーリストを確認すると、確かにミコトさんもログイン中だった。
彼女からすれば、ギルドマスターからギルドチャット申請がくれば、ギルドに関する話だと思って許可するのは当然のことだ。彼女には何の落ち度もない。
これは完全に俺のミスだった。
「クマサン、ごめん! 俺、間違えてギルドチャットの申請をしていたみたいだ。……クマサンのこと、勝手にバラすようなことになってしまって、本当にごめん!」
もう取り返しがつくような状況ではなかった。
だけど、俺はただ詫びることしかできない。