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第15話 チャット

 警察の事情聴取に長い時間を費やし、ようやく家に戻った俺は、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。まるで意識を失かったかのように深い眠りに落ち、目が覚めた時にはすでに夜になっていた。


「一応、ログインくらいしておくか」


 俺にとって「アナザーワールド・オンライン」はもはや生活の一部だった。サービス開始以来、一日も欠かさずログインしてきた。このままログインせず1日を終えるというのはあり得なかった。

 俺はベッドに寝転がりながら、ヘッドディスプレイを装着する。


 目の前に、現実の自分の部屋のキッチンよりも見慣れたゲーム内での俺の店のキッチンが広がった。

 そういえば、販売用の料理を作ろうとしていたところで、クマサンからSOSを受けたんだった。


 ……クマサン。

 俺はつい思い出してしまう。リアルのクマサン――熊野彩のことを。

 思えば、あんなに可愛い女の子と、あんなに親密に話をしたのは初めてかもしれない。学生時代ですら、あれほど近くで女の子と話す機会なんてなかった。


 俺はふと気になって、ギルドメンバーリストからクマサンの名前を探す。


 ……ログインしている。

 彼女も疲れているはずだ。それも俺以上に。狙われたのは彼女であり、精神的には俺にも想像もつかないほどの疲労があるだろう。

 そっとしておいた方がいいのかもしれない――そう思いつつも、俺はついチャット申請を送ってしまっていた。気分が乗らないならようならそのまま気づかないフリして、無視してもらって構わないと思いながら。


 しかし、クマサンはすぐに俺の申請を受け入れてくれ、いつもの渋いクマサンの声が耳に届いた。


「ショウ! よかった、来てくれたんだね! あんなことがあったから、もうログインしないんじゃないかと少し不安だったよ」


 クマサンの声は思った以上に明るかった。その調子に、俺は思わずホッとする。

 ただ、声色はいつもの渋いクマサンの声なのに、しゃべり方が昨日の熊野さんと同じだったので、聞いている方としては違和感が凄い。


「それはこっちのセリフだよ。クマサンこそもう来てくれないかもしれないって、俺も不安だったし」

「そんなわけないよ。だって、ここは私の居場所なんだし!」


 居場所――その言葉が心に響いた。それは俺も同じだ。この「アナザーワールド・オンライン」はもう俺の生活の一部であり、クマサンも同じように感じてくれていることが嬉しかった。


「でもよかった。ショウが本当の私のことを知ったら、引くか怒るかするんじゃないかって、不安だったんだ。だけど、いつも通りでいてくれるんだね」

「そんなの当たり前だろ。俺にとってクマサンはクマサンだ」

「ショウ……」


 クマサンのつぶやきが、どこか噛みしめるように聞こえてきた。

 俺としては当たり前のことを言っただけだったが、クマサンにとっては何か感じるものがあったのかもしれない。


「それよりクマサンこそ大丈夫か? あの男はこのまま出てこられないみたいだから、当面は大丈夫だろうけど……」


 警察の話ではあのストーカー男はこのまま勾留されるらしい。単なるストーカー行為ではなく、実際にクマサンや俺にも手を出してきた以上、簡単に釈放されるようなことはないそうだ。保釈が認められたとしても、クマサンには連絡がいくし、警察もパトロールを強化してくれるという話だった。


「うん、大丈夫。夜には一人で出歩かないようにするし」

「そっか。もし夜に出かける必要があったら、俺で良かったら一緒に行くけど……」


 口に出してから、少し調子に乗りすぎたのではないかと不安がよぎる。

 クマサンはあんな目に遭ったばかりだ。こんなこと言われても、かえって迷惑に思われるだけじゃないだろうか。

 俺は言ってしまってから自分の言葉を後悔したが――


「ホント? ショウが一緒なら安心だから嬉しいけど……」

「えっ……?」


 予想外の反応に、心臓がドキドキと早鐘を打つ。まさか、こんなに素直に喜んでくれるとは思わなかった。


「俺でよかったら、いつでも言って。できることならなんでもするから。ボディガードはもちろん、もし何かクマサンの声を活かしたことをするなら、俺にできることなら手伝うし」

「声かぁ……。でも、事務所は辞めちゃったからなぁ」


 思い過ごしかもしれないが、俺にはその声からは後悔の色が感じられた。

 とはいえ、手伝うとか言ったものの、声の仕事に関して俺は門外漢だ。クマサンがVチューバーでもやるなら、プログラマーとしての経験が活かせるかもしれないけど。

 ……Vチューバーか。Vチューバーなら顔出しもないよな。


「ねぇ、クマサン。Vチューバーとかやってみる気はない? これでもプログラマーやってたから、俺も役に立てるかもしれないんだけど」

「Vチューバーかぁ。それは考えたことなかったなぁ」

「クマサンのあの声を、このまま眠らせておくのはもったいないよ。一度聴いたら耳から離れない、少し余ったるくて、それでいて凛として涼やかな、あの熊野彩の声、俺はまた聴きたい」


 俺の言葉は無責任だったかもしれない。それでも、俺は直接聞いた熊野彩の声に心を奪われていた。その声をこのまま世の中から消してしまうのは惜しい、そんな思いが心の中に芽生えていた。

 しかし、俺の今の言葉が思わぬ方向に転がっていくことになってしまう。


「えええええええぇぇぇぇぇぇ!? 熊野彩って、クマサンがあの声優の熊野彩ってことですか!?」


 突然、悲鳴のような声が響いた。

 その声はクマサンのものではない。もちろん俺のものでもない。

 だけど、聞き覚えのある声――それはミコトさんの声だった。


「ミコト!?」

「え、嘘、ミコトさん、どうして!?」


 クマサンと俺は、同時に驚きの声を上げた。

 俺は慌てて辺りを見渡すが、ミコトさんの姿は見当たらない。

 そもそも、俺とクマサンが話していたのはボイスチャットだ。もしミコトさんが近くにいたとしても、聞こえるのは片方の声だけで、会話全体を聞くことはできないはずだった。


「言い訳みたいになりますけど、盗み聞きしてたわけじゃないんです! ギルドチャットの申請がきたから普通に許可しただけなんです! でも、まさかいきなりこんな話が始まるなんて思ってなくて……」


 あ……。

 どうやら俺は、半分寝ぼけていたのか、クマサンへ個別チャットを申請したつもりが、ギルドチャットの申請をしてしまっていたらしい。

 ギルドチャットは個別チャットと違い、ギルドメンバー全員に通知が届くシステムだ。

 ギルドメンバーリストを確認すると、確かにミコトさんもログイン中だった。

 彼女からすれば、ギルドマスターからギルドチャット申請がくれば、ギルドに関する話だと思って許可するのは当然のことだ。彼女には何の落ち度もない。

  これは完全に俺のミスだった。


「クマサン、ごめん! 俺、間違えてギルドチャットの申請をしていたみたいだ。……クマサンのこと、勝手にバラすようなことになってしまって、本当にごめん!」


 もう取り返しがつくような状況ではなかった。

 だけど、俺はただ詫びることしかできない。


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