俺は熊野さんの言葉が理解できず、目をパチクリ瞬きする。
「ゲームを始めたはいいけど、何をしていいのか全然わからなくて、やっぱりやめようかなって思って街をうろうろしてたときに、たまたま入ったのがショウの店だったんだ。何の店かもわからないまま入って、何も言わずにただ立っているだけの変なプレイヤーだったはずなのに、ショウは『初めてのお客さんだ!』ってなんだか喜んでくれて、サービスだって言って私にハンバーグを渡してくれたの」
その時のことは、俺もよく覚えている。
それまでは、街の広場で料理を売っているだけの日々だった。けれど、貯めたお金でNPCから店を借り、自分の店を初めて開いたあの日、最初に足を踏み入れてくれたのがクマサンだった。
何も言わずに突っ立っているだけで、随分寡黙な人だなと思ったけど、それ以上に初めて来てくれたお客さんに俺は感激していた。
だから、調子に乗って、クマサンに無料でハンバーグを進呈した後、勢いでフレンド申請をしてしまった。今、クマサンの事情を知ってみると、よくあの時、フレンド許可してくれたとものだとつくづく思う。
「初めてのお客さんだったから、俺も嬉しかったんだよ。あの時に使った肉は、今から考えればレア肉でもなんでもなかったけど、調理の方は10の10成功の完璧なハンバーグだったんだからな」
今の俺なら、難易度の低い料理なら、切り10・焼き10の成功で作れることもたまにある。でも、あの時のハンバーグは、初めて10の10で成功したものだった。記念に残しておいて良かったかもしれないのに、あの時の俺は、なぜか迷わずクマサンに渡していた。
「……うん。あのハンバーグは本当に最高だった。私、拒食症や過食症繰り返したせいで、気づいたら何を食べても味が感じられなくなっていたんだ」
「え?」
「病院でも診てもらったけど、体の問題じゃなくて精神的なものみたいで、どうにもならなかったんだよ。……でもね、あの時のショウのハンバーグは、ちゃんと味がしたんだ。濃厚なソースの味が口の中に広がって、たっぷりの肉汁が舌を包んできて……。ああ、これがちゃんと味のある、美味しいって思える料理なんだって、私に思い出させてくれたの、ショウのハンバーグが」
「クマサン……」
その言葉を聞いた瞬間、熊野さんの姿が、まるでゲーム内のクマサンと重なって見えた。見た目は全然違うのに、そのはにかんだ笑顔が、クマサンが料理を食べた後に見せる表情とまったく同じだったからかもしれない。
だから、俺は思わず「熊野さん」じゃなくて「クマサン」と口にしていた。
「あのハンバーグを食べてから、現実でも私、食べ物の味がわかるようになったんだ。どうしてゲームの中のあの料理で忘れていた味覚が戻ったのかはわからないけど、……ショウなんだよ。私に食べることの喜びを思い出させてくれたのは」
アナザーワールド・オンラインの料理の味は、舌への刺激ではなく、脳に直接伝わる電気信号によって感じるものだ。現実で料理を食べるプロセスとは違うその仕組みが、クマサンに味という感覚を蘇らせたのかもしれない。
でも、そういうシステム的な理屈だけではないと思う。
10の10で料理スキルを完全成功させたこと、そして、何よりあの日、俺が初めて開いた店に、最初の客としてクマサンが入ってきて二人が出会ったこと――それらすべての運命が重なって生まれた奇跡だと思わずにはいられない。いや、そう信じたい。
熊野さんの顔がほんのり赤くなり、照れくさそうに笑うのを見ながら、俺はその奇跡に感謝した。ほんの少し何かが違っていたら、俺は今日こうしてクマサンを助けにくることはできなかったかもしれない。
「俺のハンバーグが、そんなふうに思ってもらえてたなんて……。クマサンの役に立てたのなら、俺も嬉しい」
「……ずっと、ショウにこの感謝の気持ちを伝えたいって思ってたけど、今こうして言えてよかった」
なんだろう。
泣きそうになってくる。
こんなふうに誰かに心から感謝されたのは、一体いつ以来だろうか。
俺だって誰かのためになれたんだと、自分のことを少し認められたような気がする。
「でも、あのハンバーグを食べたあと、ショウが急にフレンド申請してきたときは正直驚いたよ。誰も信じられなくなってたし、フレンドなんて作るつもりもなったのに、私、なぜか迷わずオッケーしちゃった」
「……どうしてフレンドの許可をしてくれたんだ?」
「だって、またショウのハンバーグ食べたいと思ったから」
そう言って微笑む熊野さんはとても愛らしかった。
笑った口から八重歯がのぞいたが、それすらちょっとクマっぽくて可愛いと思ってしまう。
これで容姿に自信がないなんて信じられないくらいだ。
「もしかして、もっと重戦士のクマサン向きの食事があるのに、いつもハンバーグを食べに来るのは、その時のことがあったから?」
「うん、そうだよ。……私にとって、ショウのハンバーグは特別なものなの」
クマサンがいつもハンバーグを頼むのか不思議に思っていたけど、俺はようやくその理由を理解した。
俺は知らないうちに、自分の料理で誰かに大きな影響を与えていたんだ。
あの日、クマサンにあのハンバーグを食べてもらえて、本当によかった。
「あの後からね、現実でも普通に食事を取れるようになったんだ。おかげで体調も随分よくなったんだよ」
「そうなんだ……。よかった、本当に……」
クマサンを元気にさせられたことが、心から嬉しかった。
なにより、ゲームの中のものとはいえ、俺の料理を美味しいと思ってもらえて、それが人の役に立ったという事実に、胸がじんわり温かくなる。
「……俺、クマサンに出会えてよかった」
「それ、私のセリフだよ! ショウは2回も私を助けてくれた。ゲームの中でも、そして現実世界でも、ショウ、あなたに出会えたことに感謝してる! 本当にありがとう!」
誰かに「ありがとう」って言われるのって、こんなに嬉しいことだったんだ。
人に感謝されることもなく仕事をやめた俺だけど、自分の存在価値を認められたようで、胸の奥からこみあげてくる感情を抑えきれなかった。
「ちょっとショウ! どうして泣いてるの!?」
気がつくと、俺は涙を流していたらしい。
女の子の前で泣くなんて、恥ずかしい……。
「そう言うクマサンだって泣いてるじゃないか」
そう。目の前の彼女の目にも涙が浮かんでいた。
さっきの恐怖を思い出したのかもしれない。
でも、そうではなく、俺達との出会いを想っての涙なら、それはとても嬉しいことだった。
それからしばらくして、俺の通報を受けた警察が現場に到着した。
だが、事情聴取などで俺達も警察署に行くことになり、解放されるまでにはかなりの時間が必要になってしまった。