「平塚さん、いくらあなたの運動神経が良くても、二階から逃げるなんて無茶ですよ。やめましょう?私は、できればあなたにも生きて協力してほしいの」
安藤の声が追いかけてくる。花林は二階の廊下、その突き当りの窓の鍵を必死になって開けていた。
万が一の時も考えて、二階の鍵も開けにくく細工がしてあったらしい。板を打ちつけてあるわけではなかったが、鍵のところに輪ゴムをぐるぐる巻いてくくりつけるという面倒なことがされている。万が一、二階から逃げようとする生徒がいることも予想していたということだろうか。
「ここで、貴女が毒を飲まないで生き残ったのもきっとジャクタ様のお導きだと思うから。ねえ、平塚さん。私達と一緒に……」
「嫌、絶対嫌!私……私、人殺しになってなりたくないです!ましてや、見知った人達を殺すなんて絶対嫌!」
「そういうのを、我儘だというんですよ?高校生にもなっていけませんよ」
輪ゴムを外すことに躍起になっている花林に、安藤は少し離れたところから優しく声をかけてくる。その声が、いつも大好きだった先生の声そのままで涙が出てきそうになった。
「儀式を終わらせるには、四十九人が死ぬしかない。他に代案がないのに、死にたくないし殺したくないは通用しません。それは、貴女も本当はわかっているんじゃないですか?」
「う、うううっ……」
そう言われてしまうと段々、花林も自信がなくなってくる。
確かに、生贄を捧げろなんて意味不明なことを言われて。バケモノに遭遇して、見知った人が見知った人を殺すのを見て。
パニックになって、少しでも生き残る方法を探さなければとそれだけで躍起になっていた。同時に、姿が見えない弟を探しにいかなければいけないと。友達の無事を確認しなければいけないと。
しかし、その後のプランがちゃんとあったわけではない。
生贄を捧げる以外に、事態を解決する方法を知っていたわけではない。御堂雫は方法がないわけではないみたいなことを言っていたが、それだって事実かどうか裏が取れたわけでもない。
――私は、我儘だったの?
ゴムが外れる。視界が滲んでいく。無我夢中で鍵を開けながらも、手つきに迷いが生じていた。
――確かに理屈が通らないのかもしれない。代案もなしに、嫌だ嫌だというだけでは何も解決しないのかもしれない。でも……生きたいけど殺したくないって、そう思うのは普通のことじゃないの?何で、何でそんなにあっさり割り切れるの?生き残るために殺すなんて選択ができるの?
赤の他人相手なら、心を鬼にしてそういうことができてしまうこともあるかもしれない。実際、花林だって弟が見知らぬ暴漢に襲われているような事態だったら、相手を殺してでも助けようとするのかもしれなかった。
だが、今回はそうではないのだ。
何故、先生達はあっさり、自分達を慕っていた生徒達を殺すなんて真似ができた?ジャクタ様とやらをそこまで熱心に信じていたから?子供達の命より、神様とやらが大事?宗教とはそういうもの?
わからない。理解できない。したくもない。
「無理だよっ……!」
窓をやっと、開けた。
「私……私先生達みたいに、強くなんかない!割り切ったりできない!心を鬼にして、何かを切り捨てるなんてことできないよ!!」
「平塚さん」
窓枠に足をかけたところで、安藤が困ったように笑う。
「まさか本当にそこから飛び降りる気?二階から落ちたら、死なないかもしれないけれど痛いわよ。下はコンクリートだもの」
その言葉に、一瞬気持ちが揺らぐ。思わず真下を見てしまった。過去、公園のジャングルジムに登ったこともある。それよりも高い。ジャングルジムの上からも飛び降りたことなんてないのに、こんな高さから落ちて大丈夫なのだろうか。大事な足が折れたりなんてことになったら――。
「平塚花林!」
その時。
淀んだ世界を切り裂くように、声がした。はっとして花林が見れば、右手から走ってくる黒い人影が。
長い黒髪をなびかせ、こちらに向かってくるその人物は。
「し、雫、さん……?」
彼は怪我をしているようだった。こめかみのあたりと左手が血で汚れている。無事だったんだ、と思ったらさっきとは違う涙が出た。彼は息を切らして校舎の下まで走ってくると、花林を見上げて叫んだ。
「受け止めてやる、飛び降りろ!」
「で、でも……!」
「いいから!二階からなら、大した衝撃じゃない!」
怪我をしているかもしれない相手。花林も、女性として小柄な方ではない。本当に大丈夫なのか、と逡巡したところで後ろから安藤が肩を叩いた。
「平塚さん」
それは、初めて聞くような冷たい声で。
「逃げるの?」
逃げる。その言葉が、花林の胸を突き刺す。そうだ、自分は惨劇の教室から一人だけ逃げて、一人だけ生き残って、それから、それから――。
「君は間違ってない!」
闇に落ちかけた花林の心を救い上げたのは、雫だった。
「人を簡単に殺せない、殺したくないと思う君の心は間違ってない!……私を、信じろ!!」
さっきの叫んだ声を聴いていたのか、とか。
何で自分のことをそこまで、とか。ぐちゃぐちゃになった頭の中で、いろいろなことを考えた。けしてまとまりはなくて、それこそ抜け出せない迷路のように複雑で、ほどけない糸をこねくりまわしているかのようで。
それでもただ一つだけ、はっきりと思ったことがあるのである。それは。
――私。
泣きたい気持ちで、ただ。
――私は、貴方を……信じたい!
「平塚さん!」
悲鳴に近い安藤の声をよそに、花林は彼女を突き飛ばすと――窓枠に足をかけて、思いきり跳んだ。体がふわっと浮いたような刹那、そして落下。恐怖にぎゅっと目を瞑ったところで、思いきり抱きとめられた。
「し、雫さん……」
「よく跳んでくれた」
目を開くとそこには、やや顔を血で汚した雫の姿が。息も切らしているし、汗だくだ。それなのに、むしろとても美しいと思えた。
自分達の為に彼は、ここまで頑張ってくれたのだ。
「この学校の近くにも、使者が迫っている。逃げた方がいい」
「雫さん、私……」
「何度でも言う。君は間違ってない」
彼にお姫様だっこをされながら、降ってくる声を聴く。花林は小さく、ありがとうございます、と言うことしかできなかった。
「色々と思うところはあるだろうが、報告は後回しだ。……弟君も近くまできているはず。合流して、離脱するぞ」
「はい……はい」
その場を離れる時、一度だけ花林は校舎を振り返った。窓の傍に立っている安藤の姿を。
――さようなら、先生……。
彼女は、笑ってもいなければ、泣いてもいなかった。まるで苦虫を噛み潰したような顔。ひょっとしたら、狂っていたわけではなかったのかもしれない。
それでも、選ぶしかないと思ったから、選んだ。恐らくは、彼女なりの正義に則って。――きっともう、その答えを聴く機会は訪れないのだろうけども。
***
これも、運命というものだったのかもしれない。突き飛ばされて座り込んでいた安藤郁は、やがてため息とともに立ち上がったのだった。
幼い頃から、祖父母に聴かされて来た“六十年前の惨劇”。ジャクタ様という神様がいかに強く、恐ろしいかを毎晩のように言い聞かされてきた自分と両親。万が一再び儀式が起きたなら、その時には腹をくくるしかないと思っていた。己と家族。それ以外を守れるほど、自分は強い人間ではないのだからと。
そのために生徒を切り捨てたわけだから、自分は間違いなく教師失格だろう。花林に詰られるのも当然ではある。だが、自分だって何の葛藤も無しにこの道を選んだわけではないのだ。
――人は結局、何かの犠牲もなく、何かを得ることなんてできないのよ。
もう、グラウンドを走り抜けていった花林と、長い黒髪の青年の姿は見えない。あの青年が何者かはわからないが、きっと花林が信頼している誰かなのだろう。亜林らしき声も聞こえていたから、きっと合流できたはずだ。
本来ならば、無理にでも追いかけていって粛清するべきなのかもしれないが。
――いずれ、貴女も思い知るわ。……あれも嫌、これも嫌とだけ言ってられるほど、この世界は甘くないってことを。
毒からも自分達からも逃れたのならきっと、それはジャクタ様の意思なのだ。あるいは、何か別の大きな意思が働いているのかもしれないが。
「安藤先生!あの子はっ……!」
そのふくよかな体を揺らして、階段を駆け上がってきた栗田。安藤は静かに、彼女に向かって首を横に振ってみせた。
「ごめんなさい、逃がしてしまいました」
「ああ、もう……!駄目じゃないの!そりゃ、この状況では露呈してもあたし達は警察に捕まらないでしょうけど!」
「すみません。でもきっと、これもジャクタ様の御意志だと思ったものですから」
そう、自分達は結局箱庭の中に放り込まれた憐れな虫けらのようなもの。神様にとっては、その程度の価値しかない。最初から、抗うだけ無駄だったのかもしれなかった。
「うわああああああああああああ!?」
「な、なんだ、怪物が窓を破って……」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああっ!?」
階下から破壊音と、教師たちの悲鳴が響き渡ったのはこのすぐあとのことである。