「クトゥルフ神話って知っているか?」
「え?あ、はい、知ってます」
雫が出してきた唐突な例えに、花林は頷いた。
「学校で、TRPGとかも結構流行していて遊ぶので、なんとなくは」
クトゥルフ神話とは。
かのハワード・フィリップス・ラヴクラフトをはじめとしたホラー作家たちが作り上げた架空の神話と、それを元にした共通設定の物語群を指す。コズミックホラー、と呼ばれるジャンルだと聞いたことがある。無機質で広漠な、無限に広がる宇宙において人類はあまりにもちっぽけであり、より強大な存在には価値観や希望には何の価値もなくただただすり潰されることになる――確かそんなかんじの、圧倒的理不尽に対する理解不能な恐怖をテーマにした作品群、だと言えばいいだろうか。
古来から存在する、ニンゲンが理解できないナニカ。
それらはニンゲンが遭遇し、あるいは存在を知っただけで恐怖し発狂するような得体のしれない絶望を孕んでいる。
とりあえずは圧倒的な力を前にして“神”と名前を付けているが、実際は悪魔なのか宇宙人なのかよくわからない複数の存在。それらに不運にも遭遇し、あるいは巻き込まれてしまった人間達を操作して冒険するのが、これらクトゥルフ神話をモチーフとした卓上ゲームであるクトゥルフ神話TRPGである。
やや冒涜的な表現や残酷表現が多いこと、ルールブックが高価などの問題はあるが。未知なる恐怖に立ち向かうというのが子ども心をくすぐるようで、学校でもかなりの人気を誇っているのだった。花林も何度もKPやPLとして参加しているので、大体の概要は理解しているつもりである。
「それがわかっているなら話早い。実際、ジャクタ様も“似たようなもの”だ」
「え」
「大体察してくれたようで助かる。とにかく、大昔からこの地に存在していた神であるらしいが、その正体はまったくわからない。人知を超えた力であり、果たして本当に意思らしい意思があるのかも不明。そして、そんな神の姿を実際に見たことがある人間が本当にいるのかどうか、そもそも昔の人がその神の存在をどうやって知ったのかもわかっていないという代物だ。ジャクタ様という名前だって、尺汰村の名前から取ったのが訛っただけという話だしな」
あ、そっちが先だったのか。花林はなんとなく納得した。てっきりジャクタ様の名前を元にして、尺汰村という村の名前がつけられたのかと思っていたら、実際は逆だったというわけらしい。
「……その得体のしれない神様に頼らなければいけないほど、昔の人は困り果てていたってことなんですね?」
花林の言葉に、その通りだ、と雫は言った。
「このままではみんな飢え死にしてしまうということで、誰かがジャクタ様を呼びだして力を借りた。そして、村に雨を降らせ、作物を実らせ、村の人達の命を救ったわけだが……まあ、ろくな神様ではなかったんだろうな。神様を祀って守護を得ると言えば簡単に聞こえるのだろうが、祀りの方法にもいろいろある。それこそ、特別な術式を持いらなければならないケースもごまんとある。生贄を定期的に捧げなければいけない、とかな」
「生贄……それって、維持がものすごく難しいんじゃ」
「その通りだ。それが動物ならまだしも、ニンゲンの命を捧げろとなったら簡単な話じゃない。また、祀りの方法そのものは難しくなくても、少し機嫌を損ねるだけで祟りをまき散らすような神も問題だ。……それで、ジャクタ様に村を救ってもらってしばらくした後、尺汰村の人々は“このまま祀りを維持するのは難しい”と判断したようだな。祀る方法が難解だった上、ジャクタ様は怒ると疫病のような呪いを振り撒いて村人たちを殺していく困った神様だったからだ」
「疫病?」
「ジャクタ様に呪われた人間は、わかりやすい特徴が出る。……生きたまま、内臓や粘膜が腐って体の外に流れだすんだ。具体的には、溶けた内臓と血が一気に体中の穴から吹き出すことになる。お前も、聴いたことはないか?その症状を」
「!」
花林は目を見開いた。
『……二人共、体中から血を吹き出して死んでたみたい。目から、鼻から、耳から……ありとあらゆるところから大量に出血してて酷いことになってたって話。あまりに異様すぎる死体だからか烏も群がってなかったそうよ。……これが、普通の事故とかで死んだ死体に見える?』
つい昨日、深優が言っていた――ユーチューバーコンビの死に様。
まさに、体中から血を噴出して死んでいた、と言っていたのではなかったか。
「あの、ユーチューバーの人達の……」
呆然と呟くと、雫は頷いた。
「そうだ。……御堂家と、それに親しい者達はすぐにわかったわけだ。女性二人の死に方は、伝承にあったジャクタ様の呪いによるものだと」
「だから、村の一部の人たちは最初から呪いと決め打っていた、と……」
「そういうことになる。……話を戻すが。その神様の祀りを維持するのが難しいとなった細かな理由は我々にも伝わっていないんだ。恐らく、ただそういった祟りがあるだけではなく、儀式の維持が難しいという別の理由もあったのだろう。このままでは立ち行かなくなると、御堂家は六十年前にある決意をした。ジャクタ様を眠らせて、封印すると」
す、と彼の視線が山の方を見た。どこを見ているのか、と思って花林は気づく。
あちらにあるのは、旧尺汰村。恐らくは、今回の惨劇の元凶となった場所だ。ということは、まさか。
「そのジャクタ様が封印されていたのが……旧尺汰村、だった?そこにユーチューバーの人達が踏み込んで封印を解いてしまったということ?」
「大まかに言えばそれで正しい。ただ、これに関しても疑問がある」
「というと?」
「旧尺汰村で、封印の儀式をしたこと。その結果、旧尺汰村が忌地となり、人が住めなくなったため麓に村を移したこと……ここまではいい。問題は、その旧尺汰村は御堂家が全身全霊で結界を張って踏み込めないようにしてあったはずなんだ。村の子供達にも旧尺汰村に入るなと言ってあっただろうが、そもそも入ろうとしたって村が見つからないようになっていたはず。……それなのに、霊能力も何もないであろう一般女性二人が、何故か旧尺汰村に入り込めてしまい、あまつさえ封印をあっさり壊してしまった。これが偶然とは思えない」
雫が何を疑っているのかわかった。つまり、何か見えない力が働いていて、彼女達はそれに利用されたのかもしれないということなのだろう。
そう、それこそジャクタ様自身が、封印を解かせようとした、のだとしたら。彼女達を安直に責めることもできないはずだ。
「……ジャクタ様を野放しにしておくと、日本どころか世界さえ滅びかねない。ゆえに、もう一度封印し直さなければいけない。御堂家はそう考え、昨晩実行に移した」
だが、と雫は眉間に皺を寄せる。
「ジャクタ様を封印するのはさほど難しくないが、問題は封印を固める結界を作ることなんだ。その結界を作るためには、生贄がいる。しかも、ただの生贄ではない。正しい手順をもって、ジャクタ様の世界に送り込む生贄だ。……もうわかっただろう、今起きていることの正体が。今、この村に残っている数百人。この数百人の中から、四十九人生贄を出すまで儀式は続く」
彼はス、と己の右手の甲を掲げた。そこには47、と赤い数字が浮かび上がっている。二つ減っている――花林ははっとして、自分の右手を見た。
間違いない。自分の手の甲に表示された数字も同じだ。朝見た時は確かに49だったのが、いつの間にか47になっている。
「生贄候補となった人間は、この村を箱庭として閉ざしたタイミングでこの村の中にいた人間全てだ。赤ん坊も老人も例外ではない。無論、私も村の中にいたから候補の一人とみなされている。このカウントは、箱庭が形成されてから死んだ人間の数を示す。生贄は四十九人必要だから、誰かが死ぬたびに減っていく、というわけだ」
「さっき、茂木のおじさんと、村田のおばさんが死んでた、から?」
「そう、それで二人減って、今は47になった。……儀式の仕組みは、少しでもジャクタ様の儀式について知っている者はみんな理解しているだろう。この村の、よそ者ではない大人の多くは知っているはずだ。この数字がゼロになれば儀式は終了し、使者たちも消え、残った村人は生きて解放される。ジャクタ様の封印は完成され、村には平穏が戻る。我々が見た二人はジャクタ様の使者に殺されたが、死人のカウントは自殺でも人間による殺人でも増える。……もう、言いたいことはわかっただろう?」
花林の首筋を、冷たい汗が流れた。あの怪物を目撃し、殺されるかもしれないと思った時とはまったくべつの恐怖が。
つまり、それは。
「カウントを一刻も早くゼロにしようと目論む人間が必ず出るということだ。つまり、村人同士の殺し合いが起きる……確実に」
まるで死刑宣告のように、雫の言葉が響き渡った。落ちる沈黙。花林は完全に凍りつくしかなかった。
「……そんな」
信じられない。信じたくない。
「う、嘘でしょ?だってみんな……みんな顔見知りみたいなもので、仲良しで、それで……っ」
学校でも、商店街でも。小さな村だからこそ、人々の結束は強いと知っている。花林の一家のような、比較的後から村に入ってきた者達にも彼等はみんな親切だ。古くからのしきたりさえ守っていれば、同じように仲間として受け入れてくれるし助けてくれる。そんなあったかい故郷の人々が花林は大好きだったし、彼等との平穏な日々がこれからも続いていくと信じてやまなかったのである。
確かに、誰だって命は惜しい。
だからって、今日まで家族のように接してきた人々を簡単に殺すなんて。そんなこと、あっていいはずがないではないか。
「……信じたくない気持ちはわかる。でも、家族のような存在は、結局家族とは違うんだ」
悲しそうに、雫は首を横に振った。そして、す、とフェンスの向こうを指さす。何だろう、と思って木陰から顔を出した花林は気が付いた。
「あれ、柿本さん……?」
この雑木林の持ち主であり、林の隣に住んでいる柿本家。その奥さんである、柿本紀子が一戸建ての自宅の前で、おろおろと佇んでいる。気立ての良い中年女性の彼女は、いつになく動揺した様子で手に持ったスマホをちらちらと見ていた。どうやら、誰かを待っているということらしい。
「待ち合わせ?」
「だろうな。……見ていろ、じきにお前もわかる。現実というものが」
「え」
どういう意味だろう、それは。困惑する花林の前で、状況は動いていた。柿本紀子の前に、別の女性が現れたからである。
それは、向かいの家に住んでいる家族の奥さん、花村真奈美だった。小柄で大人しい性格の女性だが、旦那さんとの仲は良好であるようで娘が三人いる一家である。紀子とはかなり親しくしているらしく、通学途中に井戸端会議をしている光景を何度も目撃している。
「ああ、良かった真奈美さん!」
紀子が、嬉しそうに真奈美に手を振った。
「心配してしてたのよ、無事だったのね!」
「ええ」
その時、花林は見てしまった。真奈美が明らかに、後ろ手で何かを隠しているのを。
真奈美は何食わぬ顔で、いつもと同じ笑顔を浮かべて言う。
「私も心配してた。無事でよかったです、紀子さん」