隣家のおじさんこと、
まっすぐ道路沿いに歩き、庭をぐるっと迂回すれば彼の家の前に到達する。――異変はすぐにわかった。自宅の前で、茂木が何かに襲われているのである。
「茂木さっ……」
そいつなんですか、と言いかけて花林は絶句した。
茂木を地面に押し倒すようにしているその真っ黒な存在。一見すると、猿のようにも見えた。この近隣の山々には、猿も栗鼠も狸も大量に生息している。そのどれかが人里に降りてきて、人々を襲ったり田畑を荒らすことはよくあることだった。
が、灰色の毛に覆われたそいつの風体は異様なものだった。
頭から背中を覆う、鬣のような剛毛。それでいて、剥げた肌は顔も体も真っ黒なのである。馬などにあるような“肌が黒い”とは一線を画すものだった。まるで、大火に焼け焦げたような、ほとんど光を反射しない異様な黒さだとでも言えばいいか。
そして、気持ち悪いのはその両目だ。らんらんと輝くその目には白目らしきものが一切ない。まるで潰れた果実を嵌め込んだような、濁った赤い瞳。それが、明確な敵意を持って茂木を睨めつけ、その筋骨隆々な腕で抑え込んでいるのである。
――何、あれ……!?何かの新種の、動物?
その時、ようやく花林は思い出していた。さっきの放送で流れた言葉を。
『結界を修復するためには、正規の手順を踏む必要がございます。即ち、慣例に倣って四十九人の生贄を捧げる必要がある、ということです。今から村全体を箱庭とし、四十九人の生贄を捧げる儀式を始めたいと思います。既に、ジャクタ様が“使者様”を放ってらっしゃいます。生贄は、この箱庭の中で死んだ物全てが数えられます。使者様に殺されるのも、他殺も自殺も事故死も全てが含まれます』
――使者。そうだ、ジャクタ様が使者を放ったとかなんとか言ってた。まさか、あの黒焦げっぽい怪物が……!?
漸く理解が追い付いた時、事態は動いていた。そもそも、六十代の男性の力でいつまでも抗えるほど、怪物のパワーは生ぬるいものではなかったのだろう。がばり、と怪物の口が裂けるのを花林は見た。その口に、ずらずらと鋭い牙が並んでいるのを。まるで喜悦するように、怪物の目が三日月型に歪むのを。
「や、やめっ……」
次の瞬間。化け物は、制止しようと動いた茂木の左腕に噛み付いていた。バリバリバリバリ、と凄まじい音。その鋭い歯が、茂木の腕の肉を噛み千切り、骨から引き剥がしたと知ったのは――大量の血と、絶叫が響いてからのことだった。
「ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
――う、嘘だ。
茂木がピンチなら、助けなければ。自分でも何かできることはあるはずだから、と。そう奮い立っていた気持ちが萎むのは一瞬のことだった。
眼の前で起きている光景が、まったく信じられない。
腕を抑えて転がり回ることさえ、怪物は許さなかった。激痛にのたうつ男をさらに強く抑え込むと、今度はその肩口に噛み付いたのである。
バキバキバキ、と成人男性の肩の肉が潰れ、鎖骨が砕かれる音を聴いた。呻き声が途絶え、あまりの苦痛にだらん、と茂木が白目を向いて首を倒す。その口がぶくぶくと泡を吹いていることさえ気に留めず、怪物は茂木の肩に噛み付いたまま左右に体を引っ張り始めた。
彼の体を、傷を境に引き千切ろうとしているのだと気づく。さながら自分達が、食べやすいようにチキンを千切るように。
――た、助けなきゃ。助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ。このままじゃ、茂木のおじさんが殺されちゃう。
そう思うのに、へたりこんだ足はまったく言う事を聞いてくれない。本当に怖い時、人は悲鳴さえ上げられなくなるのだと知った。怪物が親しい隣人を殺そうとしているのに、自分は何もできない。彼が助けを求めるように手足をバタつかせても、充血した眼と目があっても何も出来ない。
否。そもそもの話、このまま茂木が死ねば次に殺されるのは――。
――何で、何で何で何で何で何で何でっ!?何でこんなことになってるの、何が起きてるの!?
昨日まで、此処は自分の故郷だった。平穏な、ちょっと変わった神様を祀っているだけののどかな村であったはず。それがなぜ、たった一晩でこのような有様になってしまったのだろう。自分達が、一体何をしたというのか。
ジャクタ様とやらの結界を守らなかったから、それゆえに天罰を受けるのだとでも?
そもそも結界とは何だ。それを貼り直すために生贄を捧げるなんて、令和の世でそんな馬鹿げた話が――。
「!」
チュインッ!と。
鋭い銃声のようなものが鳴り響いたのは、その直後のことだった。化け物の右のこめかみが弾け、黒い体液のようなものが噴き出す。グルグルと犬のように呻きながら、茂木の体を貪っていた怪物は――そのまま、糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
「え、え……?」
茂木の血と、怪物の黒い体液が混ざりあって大きな海を作っていく。肩口から折れた骨を飛び出させてびくびくと痙攣する茂木の体が、自分に覆いかぶさるようにして崩れ落ちた怪物の体を引きずり落とした。怪物のこめかみから細く煙が上がっている。完全に動きが止まっているし、死んだということだろうか。
そこまで観察して、やっと理解が追い付いた。
そうだ、たった今誰かが怪物を殺したのだ、と。
「そこの君!」
鋭く声が飛んだ。はっとして見れば、黒光りする拳銃を持った人物がこちらに走り寄ってきている。その姿には見覚えがあった。あの黒いコートに、長い黒髪の美青年である。
「立てるか?……いや、立ってくれないと困る。直に、この場所には奴等が集まってくるだろうから」
「え、え?貴方、は……」
「説明は後でする。一先ずここから逃げることが先決だ。少しでも離れた場所に行ってひとまず隠れるべきだ」
彼はぐい、と花林の腕を掴んで立たせて言ったのである。
「安心していい。私は、君の味方だ」
***
自宅から学校までの道は、暫く田んぼの畦道を通ることになる。一キロほど歩いたところで橋を渡ると、そこから先は右手が雑木林になっているのだった。林を管理するのは柿本さんというお宅である。
勝手に入るのは良くないことだが、状況が状況だ。ひとまず、フェンスを乗り越えて林の中にお邪魔し、隠れさせてもらうことにした。
「何が……何が、起きてるんですか?」
花林は木陰にへたり込んで、息を整えながら尋ねる。
「し、死んでたの……茂木さんだけじゃなかった。た、田んぼで……田んぼで村田さんも……!」
ここに来る途中に、見てしまった。水田に突っ伏すような形で、前の農家に住んでいる中年女性、村田和江が亡くなっている様を。恰幅が良い、いつも明るく元気いっぱいな女性だった。もし倒れているだけなら、自分は心配して駆け寄っていたことだろう。
その体の背面が、大きく抉られていなければ。
尻の肉が剥ぎ取られ、どろどろと血を流す肉の奥からは骨盤らしき骨が見えていた。同じく背中は服ごと肉が食い散らかされており、背骨が露出していたほどである。
あれで命があると思えるほど、楽天的にはなれなかった。
「何が起きてるの!?何がどうなってるの!?あの怪物って何?ジャクタ様って?使者ってなんなの!?生贄って……私達みんな殺されるの、何で、どうして!?」
「パニックになるのはわかるが、落ち着いてくれ。騒いだら人に見つかってしまう。……さっきの使者にも」
「……どういう、ことなの?」
人に、見つかる。
先にそっちが出てきたことが気になった。使者に見つかって喰われることを恐れるのはまだわかるのだが。
「一つ一つ、説明させてもらおう」
彼は拳銃をベルトのポーチのようなものに突っ込むと、へたり込む花林の前にしゃがんで告げた。
「私の名前は、
「み、どう?」
『わたくしは、尺汰神社を取り仕切る
あの、アナウンスをした老婆。
彼女も確か、御堂、という名字を名乗っていたのではなかったか。
「放送したおばあさんの……神社の関係者?」
「おおよそ、その認識で間違ってない。ただ、彼らと私は同じ陣営にはいない。この儀式を続けたい彼らに対して、私は終わらせようと思っている。……信じがたいかもしれないが、ひとまずは信用してほしい」
「……わ、わかりました」
よくわからないが、頷いておくことにする。少なくとも、彼がたった今花林を助けてくれたことは事実なのだから。
「まず最初に言っておくことがある。この村の守り神である、ジャクタ様に関して。実は、ジャクタ様をお祀りする我々御堂家であっても、その正体に関しては“殆何もわかっていない”に等しいんだ」
「え?」
花林は目を瞬かせた。神社の関係者で、村の権力者で、お祭りを取り仕切るはずの御堂家も何もわかっていない?この村の守り神なのに?
「そんなこと、あり得るんですか?」
思わずストレートな感想を漏らしてしまった。直後、責めるような物言いになってしまったことを後悔する。この、雫、とかいう女性のような名前の青年が、今の花林にとって唯一頼れる相手であるのは間違いない。彼がいなければ、あの怪物から逃げおおせることもきっと出来なかっただろうから。
つまり、今ここで彼の機嫌を損ねることは致命的な結果を招くことになる。やらかしたか、と思ったものの、彼の白い顔には不機嫌そうな色はまったく見えなかった。むしろ、心底申し訳無さそうに眉を顰められ、どうすればいいかこっちがわからなくなってしまう。
「すまないが、事実だ」
「ご、ごめんなさい。責めてるわけでは」
「いや、いい。そんな得体の知れない神様をお祀りするなんてどうかしている、と思うのも当然のことだ」
だから、私が知っていることだけ説明する、と。彼はそう前置きして話し始めた。
「ジャクタ様、の存在は千年近く前に記録されている。それまで、その神はこの地に存在していても認識されていなかったらしい。あるいは、ずっと地中深くで眠っていて、それがこの頃に掘り起こされたと言うべきか」
眉間に皺を寄せ、彼はため息をつく。
「本来ならきっと、人が触れるべきものではなかったんだろう。しかし、この頃この土地の人々は困窮していた。神がかり的な力にでも頼らなければ、命を守ることもできない状況に追いやられていたんだ。……この土地を日照りと凶作が襲い、人々が凄惨な飢饉に見舞われたために」