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<4・悪夢。>

 ずぶり、と足が沈み込む感触にぎょっとさせられた。


「え、ちょ……ここ、どこ!?」


 花林は周囲を見回す。頭上には、血のように赤い空が広がっている。まるで塗りたくられたような真紅の月が空に浮かび、巨大な眼球のように花林を見下ろしているではないか。

 足元は、泥の沼。花林は、足首までそれに浸かっている状態である。足がどこまでも沈んでいくような感覚はないが、生暖かい感触といい、ぬめぬめとした気持ち悪さといい、本能的に此処にはいたくないと思わせるのには充分だった。しかも吐き気がするような臭いがする、赤黒い泥。まるで、ニンゲンの内臓を溶かしたかのよう――そう思ってしまって、花林はこみあげてくる吐き気に口元を抑えた。


――き、気持ち悪……ものすごく臭いし。な、何なの、ここ。


 ついさっきまで自分が何をしていたか、まったく覚えていなかった。気が付いたらこの赤黒い泥沼の中で、赤い空の下ぽつんと一人佇んでいる状態である。まるで世界の終わり。そう感じてしまい、背筋が冷たくなった。

 一体いつから自分がここにいるのかはわからないが、いつまでもぼんやりと立っているわけにはいかない。みんなは何処に行ってしまったのだろう。深優は?亜林は?両親は遠くに旅行に行っていたから無事なのかもしれないが――。


「亜林!亜林、どこ、ねえ!?」


 聡明で冷静、年の割に賢い弟ではあるが彼はまだ子供だ。他の子より体も小さいし、体力だってあまりないことを知っている。何がなんでも、彼だけは守らなければ。姉としての使命感が、花林の足を動かした。

 泥の中を、ゆっくりと歩き始める。足を引っこ抜き、前へ進めるだけでもしんどいが文句は言っていられない。こちとら、長距離を走ることもある陸上部員だ。大きな大会に出たことなんかはないが、砲丸投げのような競技も練習しているし体力に自信はある。自分よりずっと体力のない子供達が、どこかで頑張っているのかもしれないのに――己がこんなところで心折れている場合ではない。


――本当に、どうして私はこんなところに?全然思い出せない。ていうか、本当にこの泥、臭い……っ!


 ただの血の臭い、ではなかった。

 血と肉の混淆物を、炎天下に数日放置して腐らせたような凄まじい腐臭。まだ嘔吐していない自分を褒めたいほどである。こんな場所、長くいるだけで気がおかしくなってしまいそうだ。一刻も早くみんなを見つけて、この場所からの出口を探さなければ。

 それとも、この意味不明な世界に閉じ込められているのは自分だけ、なのだろうか。


「ひっ!?」


 息を切らしながら歩いていた花林は、突如つんのめりそうになってギリギリ踏ん張った。右足が、突然泥の中から抜けなくなったのである。

 ぞくぞくと悪寒が背筋を這いあがる。泥の中に、何かがいる。今、自分の右足首を何かが掴んでいる。泥に紛れてわかりづらいが、その感触はまるで、ニンゲンの手のような――。


「だ、誰なの」


 思わず呼びかけていた。


「誰が、そこにいるの。やめてよ、離してよ……!」


 口にした後で、何を馬鹿なことを言っているのかと心の中でツッコミを入れていた。こんな、気持ち悪い泥の中に潜む存在が。泥の中にいて、平気な存在が。生きた人間であろうはずがないではないか、と。

 いるとしたらそれは。

 既に人間ではなくなった、ナニカ、だ。例えば悪霊、例えばゾンビのような――。


「ひぐっ……!?」


 くるぶしのあたりで、何かがイモムシのように蠢く感触を知った。うねうねと動き回るそれは、ニンゲンの指だ。何かが。花林の足を掴んだ何かが、泥の中で指を這わせて、確かめているのである。

 何を?自分が掴んでいる存在が、ナニであるのかを。

 そう、己の獲物であるのかを、あるいは同志であるのかを。


「や、やだやだやだやだっ!」


 何か、助かる方法はないのか。このままでは泥の中に引きずりこまれてしまう。

 そう思って顔を上げた時、花林はすぐ目の前に背を向けて立っている人物に気づいたのだった。長いポニーテールが、風もないのに揺れている。あの長身は間違いない、親友の深優だ。


「深優、助けて!このままじゃ、泥の中にひきずりこまれちゃう!」


 思わず助けを求めようと彼女に手を伸ばしたところで、花林ははっとさせられた。

 さっきまで、自分は誰かがいないかと一心不乱に泥の沼を歩き続けていたはずだ。そして、この世界に誰も見つからないことに焦り始めていた。それなのに――こんな目の前に立たれるまで、深優の存在に気づかないなんてこんな馬鹿なことがあるだろうか。

 そう、彼女は、さっきまで何もいなかった場所に突然現れたのだ。まるで、泥の中から生えてでもきたかのように。


――これは、深優、なの?


 花林が疑問に思うのと同時に。深優の背格好をしたその少女が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 ひっ、と花林の喉から引き攣った声が漏れる。


「か、りん、ちゃ」


 彼女には、両目が――なかった。

 正確には両の目は、真っ赤な肉の穴と化していた。そこから、どろどろと半固形物になった血肉を垂れ零しているのである。


「た、た、たすけ、で」

「あ、あああ、あ……」


 頬を眼球の残骸と血で汚しながら。口からも鼻からも耳からも真っ赤な血を噴出しながら、ゆっくりと深優らしき少女はこちらに歩いてくる。花林はその場で、凍りついたように動けなかった。恐怖で金縛り状態になっていたのもそうだし、そもそも片足を泥の中から掴まれていて動きようがなかったというのもある。


――何が、起きてるの?


 一歩、また一歩。深優と思しき少女がこちらに近づいてくるのを、黙って見つめる他ない。


――何で、深優ちゃんはこんな酷いことになってるの?これじゃあまるで、まるで……!


 その血まみれの指が、ゆっくりと花林の頬に伸びてくる。恐怖で再び絶叫する、まさにその刹那のことだった。


「考えるしかない」


 耳慣れない、誰かの声が聞こえた。はっとして振り向けば、少し離れた場所に黒い影がある。

 あの、グラウンドで見かけた黒いコートの、長い髪の男性だ。彼は険しい顔で、花林を見つめて言ったのである。


「考えるしかない、生き残りたいなら。そして、その上で、選ぶしかない。……君がそうならないためには」


――考えるしかない?考えるって、何を?


 凄まじい臭気と恐怖、混乱の中。ぐにゃぐにゃと飴細工のように歪んでいく視界の中、花林は心の中で問いかけ続けたのだ。


――貴方は、一体……?




 ***




「――っ!?」


 ぎょっとして目を見開く。視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の白い天井、丸い照明。はっはっは、とまだ荒い呼吸をしばらく整えたところで、ようやく花林は自分が眠っていたことに気が付いた。

 窓際で、白いカーテンが揺れている。灰色の空から僅かに蒸し暑い風が吹き込んでくる。そうだ、昨夜は暑かったから窓を開けっ放しで眠ったのだ――そういうことを思い出した。まだエアコンをかけるほどじゃないし、自分の部屋は二階だから気にしなくていいだろう、と。


「ゆ、夢……なんじゃありゃ」


 あえて声に出した。喉がカラカラに乾いている。まだ鼻腔の奥に、あの生臭い臭いがこびりついているような気がして気持ち悪かった。同時に、顔面を血まみれにした深優の顔も。――夢ということは、ああいう物はすべて花林の妄想の産物であるはずだ。ホラー映画は好きだけれど、だからといって友達をいきなりゾンビにするのは頂けない。不謹慎にもほどがある、と花林は上半身を起こして首を振った。

 家の中が、やけに静かだ。時計をふと見て、ぎょっとする。目覚まし時計をかけ忘れたのか、わるいは時計をセットしたのに止めてもう一度寝てしまったのか。時刻は、もうすぐ七時になろうとしていた。


「うっそおお!?」


 七時半には家を出なければいけないのに、なんたる失態。このままでは遅刻してしまいかねない。

 一気に目が醒めた花林は、ベッドから転がり落ちるように飛び出すと、わたわたとしながらパジャマを着替えた。実質高校生とはいえ、自分達の通う尺汰村分校に制服のようなものはない。一応制服っぽい服を買って着ていったりもしているが、殆どコスプレのようなものだった。

 昨夜用意していた“エセ制服バージョン2”を慌てて身に付けると、充電しておいたスマホだけを引っ掴んで階下に降りた。


「ちょっと亜林!何で起こしてくんないのさ!!」


 寝起きが良いのは圧倒的に亜林の方だった。花林と違っていつもすっきり六時に起きてくる彼は、普段ならば六時半に姉が起きて来なければ二階まで来て布団をひっぺがしてくれるはずだったのだけれど。今日はどうして放置だったのだろう。そりゃあ、時間通りにちゃんと起きてこなかった自分が悪いのはわかっているけれど。


「そりゃ、自力で起きれなかった私が悪いんでございますけれども……って、亜林?あれ?」


 リビングに飛び込んだところで、花林は異変に気付いた。亜林の姿がないのである。普段ならさっさと洗濯機を回すなり、朝食の準備をするなりであわただしく動き回っているはずの彼が、である。

 ひょっとして彼も寝坊したのかと思って部屋を覗いてみたが、ベッドの掛布団は綺麗に畳まれたまま、着替えもスマホもバッグもなくなっている。リビングに、朝食が準備されている様子もなければ、洗濯機が回っている様子もない。

 玄関からは、靴がなくなっている。彼が外に出かけて行ったのは明白だった。


――え、ひょっとして、今日なんかイベントあった!?でもって私、置いていかれた!?


 最初に疑ったのはそれだった。何か朝早く起きるような用事があって、花林がそれをすっかり忘れていた可能性。姉があまりにも起きてこないので見捨てられた可能性。残念ながら、リアリストな亜林の性格からして大いにあり得ることではある。

 何が問題って、その“朝早く出て行かなければいけないイベント”に、花林がまったく心当たりがないということだったが。


――や、やばい……!既に遅刻確定の可能性!


 冷や汗をかいたところで、花林はようやくリビングのテーブルの上に置かれたメモに気づいた。答えが出るか!と慌てて飛びついた花林は、その予想外の内容に目を見開くことになるのである。


「え?何、これ……」




『姉貴へ


 陸がヤバイかもしれないから、助けに行く。

 姉貴は、俺が戻るまで絶対外に出ないで。


 亜林』

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