川瀬からの問いかけに、白鷺は一瞬きょとんとし……やがて、けらけらと笑い始めた。お嬢様というには豪快な笑いっぷりに、川瀬の方が狐につままれる。
燕野も奇妙な心地で白鷺を眺めていた。遠目に見かけただけの記憶だが、白鷺は何をしても品の漂う人間で、声を出して笑う、というのは見たことがない。芯がしっかりしているので、意見を言うときは少し声高になる、くらいだ。
それが、お腹を抱えて笑っている。果たしてこれが高嶺の花とされる白鷺麗華と同一人物なのだろうか、なんてよぎって、燕野と川瀬は顔を見合わせた。
仮に、発言が面白かったとして、「お腹を抱えて笑う」レベルまでいくほどか? とは思う。
「ふ、ふふふふふふ、ふう……くくっ、そうか、そういえば、あいつ、顔はいいもんな。そりゃモテるか」
「顔以外は悪いみたいな言い方はやめてくださいよ」
「ありもしない言葉の裏を汲むんじゃない。性格悪いと勘違いされるぞ」
ひとしきり笑うと、白鷺は川瀬と燕野を見て、微笑ましそうな顔をした。
「まず、質問に答えよう。通と私の関係は腐れ縁みたいなものだよ。あいつは白鷺の家が昔から守っているものと関わりが深くてね」
「白鷺の家と? 烏戸くんも高貴な血筋ってことですか?」
「大体そんな感じ」
「ナルホド、それでどこから見ても気品漂う佇まいなんですネ」
川瀬の言葉に、白鷺は軽く噴く。燕野も、噴くまではいかないが、脳内をよぎるカレーパンやメロンパンを頬張る烏戸に「気品漂う?」と疑問を抱いてしまった。
まあ、と白鷺が川瀬と燕野の肩を抱いて引き寄せる。
「安心しな。私と通は誰かが邪推するような深い仲でもなんでもない。ちょっと他より付き合いが長いだけだガンガンアタックしてあいつの能面を壊してやってくれ」
あたしゃそれ見て旨い茶でも飲んでるわ、なんて白鷺が言うので、燕野も川瀬も驚いてしまった。
「麗華サ……白鷺さん、俗っぽいトコあるんですネ」
「ふふ。そそ、私はみんなが思うより俗っぽいよ。家が高貴だったのも今は昔。そりゃ、人の噂に合わせて外面を良くしてるけどね」
噂に合わせて、という言葉を燕野はなんだか意外に思った。普通、正しくない噂は、訂正するために奔走するものではないだろうか。悪い噂でなければ、わざわざ訂正する必要もないのだろうけれど。
白鷺はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて語る。
「人の噂って、上手く使うと便利でね。権威がなくても権威があるように見せられる。噂によって示されるものって、他者から見た自分の姿で、噂になるレベルだと『大勢の認識』になり得るから、それを利用して自分を良く見せることだってできる。『印象操作』っていうと、聞こえはあまりよくないけれど、生き抜くための立派な戦術だよ」
「ナルホド……」
川瀬の隣で燕野も関心した。「噂」を使った「印象操作」。器用な立ち回りという点では白鷺らしくあった。
そういえば、と川瀬が唇を人差し指で押しながら、思いついたように訊ねる。
「美佳の噂ってどんなのデスカ? 白鷺さんのお耳に入るようなコト、した覚えはないんですケド」
「あはは。やっぱり気になるよね。自分の噂って」
それはそうだ。燕野も心当たりのない自分の噂が流れているとしたら気になる。特に悪い噂である場合、周囲から誤解を受けないよう、早めに対処しなければならない。
川瀬もそういう例には漏れないのだろう。少し意外な気はしたが。
「そうですネ。美佳は誰にどう思われようと美佳なので、別にいいんですケド。噂なんてホンモノのインパクトには敵いませんし。でも、どんな噂が流れているか知っておいた方が、人の心を掴みやすいと思うんですヨ。ギャップとかで!」
超弩級の前向きであった。
白鷺は関心した風に目を細める。
「その意気があるなら、話してもいっか。噂は色々あるよ。
まず……『川瀬美佳はブラコン』」
それを皮切りに、白鷺が次々と川瀬の「噂」を口にしていく。
「お調子者。顔がいいのを鼻にかけてる。いいのは顔だけ。
頭悪い。おバカ。バカすぎて見ていてイラつく。おバカキャラになりたいみたいだけど、本当にバカなんじゃ救えないよね。生物の成績はいいって聞いたよ。あと絵も上手いんじゃないっけ。
一人称が自分の名前なの、ガキっぽい。かわいいと思うけど。滅茶苦茶話しかけてくんの怖。学校の話してたはずなのに、時々知らん人出てきてホラーなんだが。
川瀬美佳は実はこの学校の七不思議の一つ」
語り終え、一息つく白鷺。川瀬はなんでもない顔をしているが、燕野は不快感に顔をしかめていた。
「噂って……ほとんど悪口じゃないですか!」
「なら、噂ってどういうものだと思う?」
それは、と口ごもる燕野。代わりに川瀬が口を開いた。
「井戸端会議に羽が生えたり、枝葉がついたようなものですヨネ! わりと実際とは違う内容になったりして、変な評判が立って困るヤツ」
「……流言蜚語、ゴシップ、都市伝説……」
不安の多分に含まれた表情で燕野が並べた語句に「わかっているようで何より」と白鷺は頷いた。
「噂って不定形で不確定で無責任な情報の塊なの。流言蜚語が『根拠のないデマ』という意味であるように、ゴシップという言葉が『有名人の不倫や暴力行為などの不祥事』をすっぱ抜いたスクープ記事を表現する『ゴシップネタ』なんて使われ方をするのと同じ。噂っていうのは決していい意味ばかりじゃないどころか、悪い意味を持つことの方が多いの。悪口や陰口だって、立派な噂。誰が言ったのか、はっきり特定できないのなら、尚更ね」
生徒会役員さんなら気をつけた方がいいわよ、と白鷺はちょん、と燕野の鼻をつついた。
「生徒会役員という人の上に立つ人間や、優等生、誰もが認めるような実力や実績のある人物を、人は簡単に羨み、妬む。つぐみさんも気をつけた方がいいわ。
川瀬さんの噂も、彼女を妬む人間が流したものでしょう。人を妬んで恨むのは、コンプレックスがあるからなのだけれど。——特に、川瀬さんはかわいいからね」
そんなぁ、恥ずかしいですよぅ、と照れる川瀬。燕野はそんな横で、一つ、引っかかった。
てっきり、下の名前を呼ぶ主義なのかと思ったが、川瀬のことは「川瀬」と呼んだ。白鷺にとって、燕野と川瀬に大した差はないはずなのに、何故?
「でも、そんなコト言ったら、麗華サマのがメチャクチャ妬まれてるコトになりますヨ? 麗華サマは美人で、学績も優秀、お家柄も確かなんですカラ」
「そこに『人柄』の項目がないのが何よりの証拠だよ」
白鷺の指摘に、マッ、と慌てる川瀬。
なるほど、と燕野は納得した。何か秀でた人間が妬まれることを、白鷺は身をもって知っているというわけだ。
「というか、言っておいてなんだが、川瀬さんは案外とダメージないんだな」
「そりゃ、『いいのは顔だけ』なんて親からはずーーーーーっと言われ続けてきましたからネ。今更改めて言われたところで、思うところなんて残ってませんヨ」
おっと、と強気な調子だった白鷺がたじろぐ。燕野も川瀬の精神の強さに驚くばかりだ。
こういうところなんだろうな、とも思う。川瀬は強くて、堂々としていて、ハキハキした物言いができる。きっと「そんな人間になれたら」という理想と「なれない」現実に苦悩する人々が、羨み、妬み、恨んでしまうのだろう。それが
ただ、親にまで「顔だけの人間」みたいに言われているらしいことが気がかりだが。
「マァ、ブラコンはあんまり否定できないカナ? 親はアレですケド、弟は美佳のコトメチャクチャ褒めてくれるカラ、もう可愛くて可愛くて!」
「それはよかった」
「それより美佳が気になるノハ、『この学校の七不思議の一つ』ってヤツですネ」
確かに、わかりやすくただの陰口や悪口が羅列された噂の中で、それだけが際立って異質だった。が、まあ、七不思議とは怖い話で、所謂「気味が悪いもの」に分類される。「気味が悪い」と称することで相手を貶める目的の悪口と読み取れなくもない。
白鷺がふと燕野に視線を移した。
「つぐみさんは、この学校の七不思議って知ってる?」
「え、はい。いや、全部は知らないんですけど……」
「あぁ、『七つ目を知っちゃったら、恐ろしい目に遭う』みたいナ? お約束だもんネ」
「ちょっと違うの」
鳥崎高校の七不思議は、そこが少しだけ変わっている。
「
「えー? 七不思議って、口伝していくのが醍醐味なのに?」
川瀬の言葉に、確かに変だな、と燕野は思った。
燕野はオカルトに明るいわけではないが、「こういう話」が絶えないのは、人々が語り継いでいくことを楽しんでいるからだ。その「伝えていく」というシステムに、鳥崎高校の七不思議は大きな支障を伴う。
「でも、考えてみな。これまでそれが途切れなかったから、私たちはこうして、七不思議があることを知っている」
白鷺の指摘に、燕野はぞっと背筋が冷えるのを感じた。
人は、伝えていくことをやめなかった。譬、その過程で誰が、どんな恐ろしい目に遭ったとしても。
「好奇心は猫をも殺すってね。人の恋路にやいのやいの言いたくはないし、馬の脚にも蹴られたくはないが、一つ忠告しよう。烏戸通ってヤツのこと」
妖しく笑みながら、白鷺が告げる。
その黒く澄んだ蠱惑的な瞳に吸い寄せられるように、燕野と川瀬は白鷺を見た。ぱちり、と目が合うと、白鷺は無邪気な子どものように、にぃっと笑みを閃かせる。
端麗な美人という評判の白鷺の印象とかけ離れたような表情の印象に、違和感と歪さと、それでも尚、目を惹き付ける不思議な魅惑を覚える。それは魔力と呼んでいい不可思議だった。
「——アイツには、忘れられないヒトがいる。しかもソレは女だ」
「アラぁ……」
川瀬は思わずといった様子で声をこぼす。
燕野は、白鷺の言葉を意外に思っていた。自分が烏戸の何を知っているのか、と言われてしまえばそれまでなのだが、カレーパンもメロンパンも知らないような少年の交遊関係が、とても豊かとは思えない。それが「忘れられない存在」を抱えていて、しかも女性。話の流れから色恋が絡む可能性を考慮すると、他人や世の中への興味が希薄そうな烏戸のイメージとはあまり噛み合わないものだ。
ただ、そういう甘酸っぱい経験もきちんとしているというのは、見た目相応のお年頃感があって、少し身近な気がする。
「特につぐみさんには思うところがあるだろうな」
「え、私?」
「その昔のオンナと似てるトカ!?」
「言い方……」
飛びつかんばかりの川瀬の反応に、白鷺はからからと笑う。噂に語られる「毅然とした美人」という印象より、だいぶ表情のボキャブラリーに富んだ人物。やはり噂は「噂」に過ぎず、全てが真実でもなければ、真実の全てでもないのだろう。
そんなことを実感するひとときだった。
予鈴が鳴ったところで白鷺と別れ、教室に向かう二人。
燕野はそっと耳打ちをするように、川瀬に訊ねた。
「どうするの? 烏戸くん、忘れられない女の人がいるって話だけど……だいぶ難易度高くない?」
「ふっふっふっ、だがそれも過去の人間。昔のオンナがいるくらいで、諦めたりする美佳ではないのデス! それに、過去は過去。今を生きてる人間が過去を打倒して生きていくものヨ!」
ブレないなあ、と燕野は感心した。ドジを繰り返し、あがり症もあるため引っ込み思案になりがちな燕野に、必要かつ足りないものを十全に持っている少女。
憧れてしまうのはわかるかも、と燕野が見つめていると、川瀬は急に燕野に振り向いた。
自信満々の発言から一転、その目は不安に潤んですらいる。
「でもサ、さすがに願掛けくらいはしたいノ! 放課後、ちょっと付き合ってくれル?」
「え? う、うん……」
よく考えずに頷いた。願掛けってなんだろう、と思ったが、川瀬は花の女子高生でまごうことなき陽キャ。年頃の女の子が試すようなオマジナイの一つや二つや三つや四つ、あってもおかしくはない。
このときは想像もしなかった。まさかこれが燕野が「アチラ側」を覗くきっかけになるなんて。
放課後、改めて行ったこともない「市役所」に向かいながら、燕野は川瀬の奢りでもらったキャンディタイプのアイスを食べていた。
その川瀬はというと、どこかルンルンとして歩いていた。足取りは軽く、スキップをしている。願掛けを提案したときのしおらしさはどこへやら、である。
「でも、どうして市役所に?」
「んー? 公衆電話があるカラネ☆」
バチコーンとウィンクを飛ばし、川瀬は音符マークでもつきそうな弾んだ声で告げた。
ぴんと来ない燕野が首を傾げる。
「公衆電話って、何?」
「ええ!? 嘘デショ、これがジェネギャってヤツ……!?」
「同い年だけど……?」
川瀬がちょっと大袈裟に衝撃を受けているが、燕野が知らないのも無理はない。
最近はスマートフォンが普及し、小学生でさえ、連絡用の携帯電話として持ち歩くのが一般的になった。そうなれば、どこにいても連絡ができるので、外出時の連絡手段として台頭していた公衆電話の存在が、若者の認識から薄れていくのも道理だ。
スマホを持たせる適正年齢を親が高めに設定しているのも、珍しい話ではない。その場合は公衆電話での連絡が必須となるため、存在を認知することになるのだ。川瀬はこちらのタイプだったらしい。
「というか、最近ウワサになってるアレを知ってレバ、公衆電話って言葉くらいは知るコトになるんだケド」
「……あんまり、話の輪に入っていくのが得意じゃないから、そういうのはちょっと」
「じゃあ、知らないンダ。『0界通信のこっくりさん』」
こっくりさんの名前くらいは聞いたことがある。が、頭についた「0界通信」というのが意味ありげだ。
語り始める川瀬の横顔を見ながら、燕野は少し溶けて垂れたソーダ味を舐めた。人工感の強い甘味の中に、爽やかな酸味が含まれたすっきりとした夏の味が朧気に消えていく。
「公衆電話で、
うわあ、と燕野は顔を歪める。「そういうの」にありがちな話。テンプレートをそのまま聞かされているような気分だ。
けれど、ヒトとは不思議なもので、わかっていても、その怪しげな儀式を試してしまう。手順が簡単であればあるほど。
「しかも、公衆電話にお金を入れる必要がないからネ。小学生まで試してるって話ダヨ」
「それがどうして願掛け?」
聞き返す燕野に、川瀬はん? と首を傾げて、目を瞬かせた。思い至った様子で得心すると、答える。
「こっくりさんって、狐とか、動物系のカミサマらしいジャン? 動物系のカミサマって、恋愛に関わりのあるカミサマなコトもあるカラサ」
「そうかな……」
肝心の狐の神を代表する「稲荷神」は農耕を司るらしいので、恋愛運がどうこうの話はない。
まあ、まだ専門的な知識に強いわけではない高校生らしい話ではあるが。
「それに、『0界通信のこっくりさん』が恋愛相談に乗ってくれるってウワサもあるし。ウワサくらいのものナラ『ちょっと願掛け』っていうのにちょうどいいデショ?」
「それはそうかも」
「というわけで、ジャジャーン! 公衆電話ー!!」
どこかのアニメの不思議道具紹介みたいな声を出し、川瀬が示した先には、シンプルな公衆電話の電話ボックスがあった。縦長の密閉空間を見るに、アイスキャンディを物の十分で液体にする勢いの暑さが倍増しそうで、燕野はげんなりした。
「さすがに電話ボックスの中で熱中症になりたくないカラ、つぐみんは外から出入り口んとこ押さえてて」
「うん」
確かに、熱中症直行コースだなぁ、と電話ボックスを眺める。戸を開けたのは川瀬だが、中のむわりとした空気は燕野の方まで漂ってきた。間違っても快いなどとは表現できない。
川瀬はスクールバッグを緑色の電話の上に乗せ、受話器を取って、〇のボタンを押す。
十秒、二十秒——三十秒。
プッという音が、どこかに繋がったことを教えた。
『はい、古木常です』
「あ、こっくりさん? 実は相談したいことが——」
『ああ、ごめんなさい』
電話の向こう。声変わりを迎えていない男の子独特のソプラノが耳朶を打つ。
ごめんなさい?
言葉の羅列の意味がわからず、川瀬が振り向いて、燕野を見た瞬間。
かしゃん、と受話器が落ちた。ケーブルに釣られて行儀悪くぶらぶらと揺れる子機。
燕野は、しばらく状況が理解できなかった。
何の比喩でもなく「川瀬が消えた」という状況が、理解できなかった。