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 ゆうやけこやけが聞こえる。

 小学生たちがランドセルを背に、ぴょこぴょこと帰っていく。意味もなくスキップしたり、白線の上から落ちないようにしたり。思い思いの歩き方をしている。

 そんな中を流れに逆らうように、反対方向に歩く学ラン姿の男子生徒がいた。烏戸である。学生鞄を持ち、背筋を正して歩く姿はどんな子どもよりも「きちんと」しすぎていて、不自然なほどだった。

 烏戸が向かっているのは守屋もりや小学校という鳥崎高校の隣町にある小学校の一つだ。昼間の電話の「古木常よしのり」は守屋小学校にいる。

 日が傾いて、空が真っ赤に染まる黄昏時。昼の余韻で、ジジジジ、という蝉の声がまだ聞こえる。けれど、空の色のせいか、蝉の声はどこか不気味に滲んで歪んだ輪唱を繰り返しているように感じられた。薄暗い路地にでも行ったら、黒猫に前を横切られそうだ。

 なんて、与太を烏戸は考えているのか、いないのか。全く変わらない横顔に、ちりんちりん、と後方から自転車の鈴が声をかける。烏戸が振り向くと、白鷺が自転車から降り、押しながら歩いて隣に並ぶ。

「麗華、部活は終わったのか?」

「うん。用事があるって言ったら、部長が帰っていいって」

「バレー部だったか。楽しいか?」

「あはは! 通は私の親じゃないでしょ」

 ポニーテールを揺らして、白鷺はからからと笑う。烏戸はその表情変化をじっと見ていた。

 白鷺は目を伏せる。「読めないヤツ」と烏戸に向かって言った。烏戸は答えない。その様子に盛大な溜め息をこぼす。

「純粋な楽しさなんて、とっくの昔に忘れたよ。一人、危ない子がいてね。今日は古木常くんに会いたいから部活休んだけど、休んでる場合では、たぶんないのよね」

「危ない? 自殺か? それとも、『こちら側』か?」

 烏戸の端的な問いに、白鷺は肩を竦める。瞑目した顔には少し疲労の色が伺えた。

「どっちに転ぶかは、まだわかったもんじゃないわ。でも、そうねえ。『コッチ側』に転んでくれた方が、健康的でいいんじゃないかしら」

 白鷺の言葉に、烏戸は目線を外す。前を向いたまま、変わらず、感情の乗らない声色で訥々と喋った。

「俺たちがやっているのは、慈善事業でもなければ、人助けでもない」

「そんなこと言って。救われた人間だっていたはずよ」

 蝉の余韻が、地面に吸い込まれて、消えていく。

 白鷺は隣に立つ少年を見て、その「ウワサ」の名を口にした。

「ねえ、『こっくりさん』」


 最近、学生の間で流行っているウワサ。

 公衆電話の〇番を長押しすると繋がる「こっくりさん」のウワサ。「こっくりさん」とはそもそも、紙と十円玉を使って、複数人で行う交霊術のようなものである。が、新しい都市伝説に上手い呼び名が思いつかなかったのか、公衆電話の都市伝説はいつしか「こっくりさん」と呼ばれるようになった。

 その由来を、烏戸は察している。

 守屋小学校の飼育小屋に行くと、小学四年生くらいの男の子がウサギに人参の欠片を食べさせようとしていた。少し襟の伸びたTシャツに、ポケットの多い半ズボン。靴下と靴だけが妙に立派で、歪な印象を与える。

「よしのり」

「あ、烏戸先輩!」

 ぱっと振り向いた顔に閃く笑顔は無垢そのもの。短い茶髪は日の光が透けて金髪に見えるほどの淡さで、それがこの男の子の「ヒトでない」雰囲気を加速させていた。

「やあ、古木常くん。そのウサちゃんはなんて名前?」

「あ、白鷺さんもこんにちは。この子はいちごちゃんです」

「随分可愛らしい名前だね。女の子?」

「はい」

 この男の子が「こっくりさん」の正体である。古木常よしのり。小学生くらいの見た目をした狐の愛し子。

「今日の電話の話をしましょう。奥へどうぞ。いちごちゃんはまた後でね」

 ウサギのいちごを一撫ですると、古木常は飼育小屋の奥の取っ手を引いた。ぎぎぎ、と重々しい音を立てて、扉が開く。その奥には部屋が見えた。

 暗い暗い部屋の中に、ぽつんと黒電話が一つだけ佇んでいる。飼育小屋に「奥」なんて存在しない。ここは古木常に与えられた空間だった。

 古木常、烏戸に続いて入った白鷺が、そっと扉を閉める。そうすれば、扉は壁にすうっと馴染み、どこが扉だったかさえ、わからなくなった。

 古木常は奥の棚のうちから引き出しを一つ引き、その中から古びた大学ノートを取り出す。

 鉛筆と消しゴムを用意して、古木常はふっと宙で指を振る。するとがたごとと音を立て、椅子が現れる。学校の教室にある生徒用の椅子だ。

「二人共、どうぞ座って」

「ありがとう」

「……」

 白鷺が愛想よく微笑み、烏戸は目だけで礼をする。

 二人が座るのを確認して、古木常はにこやかに大学ノートを開く。

「今回の電話は、小学生の女の子からです。家庭環境について、悩んでいるようですよ」

 家庭環境についての悩みは、今時珍しいものではない。「毒親」という言葉も生まれたくらいだ。

「悩んでいるのは、お父さんの暴力についてだそうです。パパがママを殴るって言ってました」

「うわあ、DV夫」

「最近、力関係が変わったそうです」

「おおう?」

 話の風向きが一気に変わる。

 DVは男だけが行うものではない。痴漢の被害者が女だけではないように。

 春に多くなる変質者が女の子だけでなく、男の子も狙うようになった。田舎で起こる覗き事案の対象に女性だけでなく、男性も含まれるようになったこと。そういう意味で、近年、男女差というものは薄れてきた。

 今まで、表沙汰にならなかっただけで、女性の暴力自体はあった。家庭内暴力も、男性だけのものではない。暴力にも肉体的なものの他に、精神的なものも含まれるようになって、幅が広くなり、社会の多様化に伴い、苦痛も多様化された。

 だから、子どもが感じる苦痛や恐怖も多種多様になった。

 古木常は、ノートの罫線をすらすらなぞりながら続ける。

「この子の話曰く、ママは優しいパパをたくさん殴っていて、パパはそれでもずっと優しかったけれど、ある日、事故でママを突き飛ばして、ママを怪我させてから、パパがおかしくなった、とのことです」

「ま、純粋な力では、よっぽど鍛えてないと、女より男の方が上だものね。それに気づいて、スイッチが入っちゃったのかな」

「……それで、その子は何を願ったんだ?」

 概要に一切突っ込むことなく、烏戸は結論のみを求める。

 都市伝説の公衆電話の「こっくりさん」は、願い事を聞いてくれる。それはその正体である古木常が「願いを聞く」ことを生業としているからだ。

 烏戸は古木常を手伝っている。依頼人の願いを叶えるための手伝いだ。極端な話、依頼人の願いを叶えてしまえば、古木常の役目は終わる。烏戸は古木常が役目を終えることだけを考えていた。

 古木常は少し困ったように笑う。

「願いは『パパとママが怖いから、いなくなってほしい』というものです」

「え……」

 白鷺が唖然とする。子どもが考えたにしたって、極端すぎる結論だった。

「わかった」

「ちょっと、通!」

「あはは、烏戸先輩は本当に、細かいことに興味ないですよね」

「お前は気にかけすぎだ。気にかけすぎないことが、この役目をこなす上でのコツだぞ」

「あはは、先輩は言うことが違うなあ」

 古木常が笑う向かい側で、聞いていた白鷺が唇を尖らせる。

「通は人の心がなさすぎだよ。確かに、寄り添うのは古木常くんの美徳で、お役目をこなす上での障害だよ? でも、それを無視してしまったら、古木常くんが古木常くんである意味がなくない?」

「白鷺さん」

 古木常が悲しげに微笑む。

「そんなこと言ったら、烏戸先輩が烏戸先輩である意味もないですよ」

 ぼくたちは、と古木常は続ける。

「僕たちは、神様に目をかけられてしまった。神様に愛されてしまって、神様のお役目を授けられてしまった。神様を拒絶できなかった。受け入れてしまった。受け入れるしかなかった。どうしようもなかった」

 白鷺は呆然とする。古木常の言葉の奔流は止まらない。

「ぼくたちに拒否権はない。ぼくたちは受け入れるしかない。受け入れるのに、自分の感情はいらない。烏戸先輩の考え方は、ある意味正しいです。烏戸先輩の意見には……助けられています」

「……誰が正しいとか、神がどうとかは、どうでもいい」

 古木常をちら、と見てから、烏戸は口を開く。そこに惑いはない。

「与えられた役目を昇華する。それ以外考える必要はない。依頼人の身の上はどうあれ、願いを叶える。それだけだ」

「……そうだね」

 女の子の願いは、「両親にいなくなってほしい」というものだ。

「早速、叶えに行こう」

 烏戸が立ち上がり、椅子がぎっと音を立てた。

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