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第21話 後朝



 カーテンの隙間から零れて顔に射す陽の光の眩しさで瞼を持ち上げた。パチパチと数回瞬きを繰り返す内に、段々と視界が鮮明になっていくのと同時に、夢の世界に別れを告げた脳が覚醒していく感覚がする。


 それからすぐに、与えて貰った自分の部屋ではない場所に自分がいる事に気が付いた。



 あれ、いつも見ている景色じゃあないわ。壁紙の色も違うし、天井にぶら下がっているシャンデリアのデザインも違うもの。ここは一体何処なのかしら。



 自らの双眸に映る馴染みのない空間に眉間に皺を寄せながら、ぐるりと身体を反転させた刹那だった。



「おはよう」

「…っっ」



 同じベッドの上、少し手を伸ばせば容易に触れる事ができそうなまでの近い距離にいる皇帝陛下の麗しい顔が視界に飛び込んで来て心臓が一瞬だけ停止した。



「きゃああ…んぐっ」

「まだ早朝だ、静かにしろ」



 反射的に叫ぼうとしてしまった私の口を手で塞いだ相手が、自らの口許に人差し指を立てた。



「まだ寝てる使用人も多いから休ませてやりたい。それに、今叫ぶと使用人が集まってきて騒ぎになる。それでも良いのか?」



 相手の放った言葉に勢いよく首を振って反応した事で、塞がれていた口許が解放されたのと同時に、昨日想定になかった流れに逆らいきれずに彼と一緒のベッドの上で眠った事を漸く思い出した。


 緊張で眠れる訳ないなんて思っていた私の馬鹿。しっかり眠れちゃったわ、それも皇帝陛下よりも後に目覚めちゃう程にぐっすりと!!!



「あ、あの…アスター様、おはようございます。それと寝惚けていたとはいえアスター様を見て叫びそうになり申し訳ございません」

「俺が怪しい人間ではない事を思い出したか?」

「はい。二度とこんな無礼がない様に心から気を付けます」

「ふっ、構わない。頭を上げろ」



 ベッドの上に跪いて深々と頭を下げた私の耳を掠めたのは、小さく笑う声だった。ゆっくりと視線を持ち上げた先にあったのは、口許を柔らかく緩めて眼を細めるアスター様で、そんな彼がそれはそれは美しくて思わず息を呑んだ。


 なんて優しい笑みなのかしら。こんな事言ったら失礼かもしれないけれど、破顔していると幼く見えて可愛らしいわ。


 私の目に映るアスター様は、私が耳にしてきたどの噂話にもまるで当てはまらない。威圧的な雰囲気こそ纏っているけれど、それは皇帝陛下というお立場なのだから当然の事だ。



「久しぶりだった」

「久しぶり?」

「ああ、こんなにまとまった睡眠を摂ったのは久しぶりだった。どうしても眠れなかったり魘されたりするが、今日はそんな事が全くなかった。きっと、お前が傍にいてくれたおかげだな、リーリエ」



 ポンっと、私の頭に置かれた皇帝陛下の手はやはり優しくて温かい。不意を突かれて頭を撫でられたせいか、胸の奥が誰にも気づかれない様にドキリと音を立てた。





「な、なんと仰いましたか!?!?皇帝陛下がゆっくりとお休みになられた!?!?」



 アスター様とテーブルを囲って穏やかに朝食を楽しんでいた食堂で、フリーダー様の声が大きく響き渡った。


 いつも油断も隙もない完璧なフリーダー様が目を見開いて「信じられない」と書かれた顔でアスター様を見ている。



「フリーダー、声が大きい」

「し、失礼しました…ですが声も大きくなってしまうじゃないですか。皇帝陛下からゆっくり休んだというお言葉が聞けたのですから」

「大袈裟だ」

「いいえ、大袈裟ではありません。ちゃんと眠れたのは一体何年ぶりですか?常々いつか皇帝陛下が過労で倒れてしまうのではないかと案じていたので、休めたと聞いて心から安心いたしました」



 ほっと小さく息を零したフリーダー様は、嬉々とした表情を浮かべている。その様子だけでアスター様が睡眠をしっかり摂った事がいかに珍しいのかが伺える。


 一体どうして睡眠が摂れなくなってしまったのか…そんな疑念を抱かないと言えば嘘になるけれど、訊いてはいけない様な気がしてならない。


 どうしても眠れなかったり魘されたりするとアスター様は言っていたけれど、どんな理由であれ眠れないなんて辛くて苦しいに決まっているわ。



「これから少しずつでも眠れる日が多くなれば良いけど…」



 誰の耳にも拾われる事のない小さい独り言を零しながらティーカップを手に取って口へと運ぶ。


 紅茶の揺れる水面は、眩いまでの光を放つ照明が反射してキラキラと輝いている。



「皇帝陛下、これは大変良い兆候ですのでどんな魔法を使ったのかは存じませんが、なるべく身体を休める事をこれからも意識して下さい」

「リーリエ次第かもしれないな」

「リーリエ様ですか?どうして今リーリエ様のお名前を出されるのですか?」

「俺がよく眠れたのは、リーリエが傍にいてくれたからだ」



 ゴフッ…食道を通過していたはずの紅茶が逆流しそうになって、必死に堪える。


 危なかったわ、見事に油断していたせいで淑女らしかぬ失態を晒す所だったわ。


 唐突に私を巻き込んだアスター様へと双眸を向ければ、いつの間にか食事を終えたらしい相手が頬杖を突いて悪戯っ子の様な顔をしている。



「リーリエ…様…」

「あ、あの違うのですフリーダー様…「リーリエ様!!!ありがとうございます!!!」」



 まだ正式に結婚もしていないというのに大切な皇帝陛下の隣で寝るなんてとフリーダー様に怒られるかと思ったけれど、私の予想に反した言葉が相手から放たれた。



「リーリエ様、是非これからは皇帝陛下の為にも皇帝陛下のお隣で眠って下さい」

「え、あ、あの…」

「だそうだ、リーリエ。俺の専属執事のフリーダーの頼みなのだからそう無下には断れないな」

「…っっ」



 フリーダー様に気圧されている私に追い打ちをかける様に言葉を続けたアスター様は、口角をくいっと持ち上げてニヒルな笑みを湛えている。


 ま、まさか私が今夜からは自室で眠ろうと企てている事を見越して、フリーダー様に私と一緒に寝たと発言したのかしら。


 もう一度アスター様を一瞥すれば愉快そうに私を見ていて、途端に脳裏に過った疑惑が確信に変わった。



「よ、喜んで。妻として当然の務めですわ」



 断るなんて絶対にできない空気に呑み込まれた私は、期待いっぱいの眼差しを向けるフリーダー様に無理矢理笑み貼り付けるしかなかった。


 毎日陛下の隣で眠るなんて心臓がいくつあっても持たないので、自室でゆっくり眠りたいですわ!声に出す事もできないそんな本音を、私は胸中で思い切り叫んだのだった。




第21話【完】





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