常に圧し掛かる莫大な責任や使命と多忙さで、いよいよ柄にもなく皇帝陛下が可笑しくなったのかと思った。
「皇帝陛下、ご結婚されると宣言なさっておりましたが誠ですか?」
感情の整理がつかぬまま視察する街へ向けて出発した馬車の中で、私はすぐに陛下へと質問を投げていた。
こんな重大な事を冗談として言う様な人間ではないと長年傍で過ごしてきた経験から知ってはいたが、自分の口で直接訊ねて確認せねば気が収まらなかった。
悪い冗談にしか思えない。陛下が結婚?それも相手は出会って間もない女性だ。私すらも外国籍だという事以外は彼女について何も知らない。
そんな女性と結婚だなんて、一体何を考えていらっしゃるのだろうか。
この世で最も美しい彫刻と並んでも遜色のない顔立ちと骨格。この世界で一番領土の大きい国の皇帝。加えて、幼い頃から勉学においても秀でた才能を有していたこの方は、ずっと隣で見て来た私からしても完璧という言葉がよく似合う人間で、隙がまるでない。
皇帝に必要な冷静さや判断力は十分過ぎる程におありだが、生い立ちが起因しているのか表情が乏しく、感情という物が彼から消滅してしまったのではないかと時々心配になる程に、我が主であるアスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝陛下は笑顔すらも滅多に見せてはくれない。
近隣諸国やこの国の民が彼の事を冷徹だの死神だのと揶揄されているが、一方で彼の地位や容姿や名誉に憧れを抱き、露骨に言い寄ってくる令嬢が大勢いる事も事実だ。
年齢も結婚適齢期に入っている陛下が、素敵な女性と成婚すれば感情や表情も少しは豊かになるのではないかという淡い期待を抱いてはいたけれど、よりにもよって何処の馬の骨かも知らぬ女性を相手に選ぶなんて……。
暫く窓の外へ視線を投げていた陛下が、私の方へとそれを滑らせた。宝石の様な輝きを放つエメラルドグリーンの双眸からはやはり、何の感情も読み取れない。
「ああ、本当だ。結婚するなんて下らない噓をわざわざつく理由もないだろう」
「ですが、余りにも突然ではありませんか。今まで数え切れない程の縁談が来てもそれとなく躱していらっしゃった皇帝陛下が結婚だなんて、何か心境の変化でもあったのですか?」
「直感だ」
「はい?」
「あの女を…リーリエを逃がすと一生後悔する気がした」
「まさか、それだけの理由でご結婚の決心を?」
「興味のない縁談も聞き飽きていたし、俺との結婚を狙って接近する令嬢もこれで静かになるだろう。皇帝が身を固めれば国民も安心する。他に何か問題があるか?」
「問題があるかって…だって皇帝陛下には…」
勢いで途中まで紡いでみたが、これ以上言葉を続ける事に前向きになれずそのまま口を噤んだ。
“だって皇帝陛下には昔から想いを寄せている女性がいるじゃないですか”思わずそう言ってしまいそうだった。
「だって皇帝陛下には…なんだ?」
「いえ、何でもございません」
陛下が羽織っている服の胸ポケットを一瞥する。あそこには皇帝陛下が十年以上大切にしているペンダントが常に入っている。そしてそのペンダントが、皇帝陛下が想いを寄せている方に関係している物だという事を私は知っている。
彼女への一途な想いを募らせている事が陛下が結婚を遠ざけていた理由だと推測していたのだが、私の勘違いだったのだろうか。
あのリーリエという女性は、陛下の心が別の女性に向いている事を理解しているのだろうか。
「以前、俺が視察に訪れた街で反皇帝派による大規模なテロが起きただろう」
「一報を受けて皇帝軍が到着した頃には、既に反皇帝派組織が殆ど殲滅されていたあのテロですか?」
「そうだ。あの日、暗闇に包まれた路地であの女が倒れた敵と剣の傍に返り血を浴びて立っていた」
「え?」
「被害を受けた住民の演技をして、咄嗟にローズという偽名を名乗っていた」
「あの時、陛下が探し出す様に命じられた女性は…彼女なのですか?」
「ああ、お前の腕を持ってしても見つからないはずだフリーダー。ローズも偽名な上、あの女は男装して我が国の軍に入隊し、兵士として普通に過ごしていた」
「はい!?!?」
「たまたま厩舎で馬の世話をしていた所を俺が発見して問い詰めた。最初はしらを切っていたが最後には素性を偽って軍に入隊した事を認めた」
「彼女は一体何者なのですか?」
「フリーダー、隣国のライヒ・トゥーム王国のリーリエ・フィーネ・タールベルクという人間を調べてくれるか?」
「それが彼女の本当の名ですか?」
「どうやらそうらしい。今回ばかりは偽名とは考えにくい。随分と興味深い愉快な女だ」
「…っっ」
頬杖を突いた皇帝陛下がクスリと声を漏らして唇に弧を描いた。あの皇帝陛下が笑みを浮かべたのだ。
信じられない光景に目を疑いそうになるが、確かに私の双眸は美しく笑う皇帝陛下を捉えている。
「それともう一つ頼みがある。この国で起きた暗殺組織絡みの殺人事件を纏めた資料が欲しい」
「畏まりました、早急にご用意致します」
「ああ、助かる」
リーリエ・フィーネ・タールベルク。まだまともに会話をした事もないけれど、皇帝陛下のこんな表情を引き出す彼女に途端に興味が湧く。
アスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝陛下の側近としても、彼の友人としても、すぐに認める事はできないが少し様子を見ても良いのかもしれない。
まだまだ目的地には着きそうにない揺れる馬車の中、私は静かにそう思った。
それから無事に視察を終え二週間ぶりに宮殿戻れば、出迎えられたリーリエ様に皇帝陛下は嬉々として破顔しただけでなく、甘い雰囲気を纏ったままキスまで求めたのだ。
本当にこの方はあの皇帝陛下なのだろうかと疑問を抱くと同時に、私は内心酷く困惑した。
ただ一つだけはっきりした事は、皇帝陛下は責任や多忙さで可笑しくなった訳ではなく、ただ純粋にリーリエ様をお気に召しているという事だった。
「これは…ファイルヒェン公爵令嬢がどんな反応をするのか…今から頭が痛いですね」
リーリエ様の手の甲に口付けをして微笑む皇帝陛下の姿を眺めながら私の口から零れた小さな独り言は、誰の耳に届く事もなく花の香りを乗せて吹く風によって攫われてしまった。
第17話【完】