改めてこの目で紋章を見ると、あの時の絶望感と喪失感が褪せる事ないまま込み上げてくる。
私の問い掛けに表情を変える事なく、陛下は静かに開口した。
「これは二箇所の現場で発見された物だ。一つは化粧品会社を経営していたシンプ子爵の遺体発見現場だ。元々商売のやり方故、敵は多かったが半年前に自身の所有する別荘の湖で水死体で見つかった。争った形跡もなく事故死として取り敢えず片付けられたが、子爵のポケットに入っていたハンカチに手描きされたこの紋章が見つかった。ブランド品が好きなシンプ子爵がノーブランドでそれも手描きのマークが印されているハンカチを持つのかという疑問はあったようだが、その時は死亡者の単なる所持品の一つとして処理されている」
「なるほど」
「二つ目は、ヴィンデ・フランク・エングラーという人物の宿泊していた部屋で発見されている」
「お待ちください」
「どうした」
「ヴィンデ・フランク・エングラーと仰いましたか?」
「ああ」
「そんな…」
陛下の口から出た知っている名に、衝撃を受けた私は口許を手で覆った。
「ヴィンデはヘーゼル色の髪と瞳に、身長は178cm程。細身の16歳ではなかったですか?」
「そうだ、どうして分かる。知り合いか?」
「ええ、ヴィンデと私はライヒ・トゥーム王国の同じ学校に通っておりました。特別親しい訳ではありませんでしたが、何度か会話をした事があります。14になる歳に家庭の事情でエーデル・クランツ王国へと渡ったのですがまさかそんな、ヴィンデが亡くなっているなんて…」
「ヴィンデ・フランク・エングラーは当初、服毒自殺という見立てだった。シンプ子爵の時と同様争った形跡はなく、エングラーに関しては敵もいなかった。だが、奴の宿泊していた部屋に置いてあった本のページからこの紋章が発見されている。シンプ子爵の時と全く同じ紋章だった為に、この時点から暗殺組織による犯行という線が浮上した…だが、それ以降はこの紋章が施された事件は起きていない」
「この事件はいつ起こったのですか?」
「エングラーは確か四ヶ月くらい前だ、フリーダーから暗殺組織の可能性があるという報告を受けた事件だから覚えている。ただ、今話した様にこの紋章に関しては余りにも情報が少ない為、暗殺組織なのかただの愉快犯の仕業なのかが判っていない。だからお前に渡した資料にもこの紋章の情報は詳しくは記載されていない」
「そうだったのですね」
間違いないわ、タールベルク家の焼け跡から私が回収した指輪に刻まれている紋章とこの二箇所の現場で発見されたそれは全く同じね。
ただ、不可解な点がある。暗殺組織にしては件数が少ないという事だ。暗殺を生業にしているのならば、もっと頻繫に依頼を受けて実行しているはず。それなのにたった二件の現場でしかこの紋章が確認されていないのは少な過ぎる。
かといって単独の愉快犯の犯行だとすれば被害者に何かしらの共通点があっても可笑しくないのに、現時点ではまるでそれがない。
資料でこの紋章を目にした時は犯人に一歩近づけるかもしれないと期待を抱いたけれど、これは殆ど進展していないと言っても過言ではないわね。
「アスター様、放火されたタールベルク家の焼け跡から私はこの紋章の入った指輪を見つけました」
「という事は、タールベルク侯爵と侯爵夫人を殺害したのも同一犯という事か」
「恐らくですがそうだと思いますわ。ただ、アスター様も仰った様にまだまだ謎が多いです」
「この紋章が現場に残されている事件が起きた場合は、これからはすぐにお前に伝えよう。シンプ子爵とヴィンデ・フランク・エングラーの事件の詳細をまとめた物も用意させる。お前が望むのならば事件現場に行く事も可能だ」
「本当ですか?是非お願いしたいですわ」
「それでは都合をつける様にフリーダーに調整させる」
「私一人でも平気ですわよ?」
「駄目だ、俺も一緒に行く。お前一人で死人の出た現場には行かせない」
「まぁ、もしかしてアスター様、心配して下さっているのですか?」
冗談を言ったつもりだった。余裕綽々としている陛下が私の一言で狼狽えてくれたりでもすれば面白いのにななんて思っただけだった。
「当然だ、お前は大切な俺の妻だからな」
それなのに、正面にいる麗しい男は余裕を崩さないまま、真剣な双眸で私を射抜いてそう言った。
ドキリと胸が跳ねる音が体内に響く。じわじわと熱を帯びていく身体に居たたまれなくなった私は急いで立ち上がった。
「アスター様、本日は時間を作って頂きありがとうございました。それではゆっくりとお休みなさって下さいませ」
用事も済んだ事だし早いところ退散するべく寝る前の挨拶を手短に告げた私だったが、陛下に手首を掴まれてしまったせいで踵を返す事は叶わなかった。
「何処へ行くつもりだ」
「何処へって…自室です。もう就寝の時間ですもの」
「何故戻る必要がある?」
器用に片方の眉だけを吊り上げて質問を投げかける相手の意図が分からず、素直に首を傾げた。
刹那、手首を強く引き寄せられ、陛下が軽々と私の身体を抱き上げた。
「アスター様!?!?何をなさっているのですか!?」
「妻をベッドまで運んでいるんだ」
「べ、べ、ベッド!?」
「夫婦というのは同じ寝室でベッドを共にするものだろう」
この方の仰っている意味が分かるけれど分かりたくないわ。
耳元で囁かれてクスリと微笑を見せる相手にクラクラと眩暈がする。口から魂が抜けてしまいそうな私を優しくベッドに下ろした皇帝陛下はそのまま自らもベッドに沈んだ。
本当に寝るの?確かに新婚夫婦で寝室が別々なのはどんな噂を立てられるか分かったものじゃないけれど、私はこんなにも美しい人間と一緒に寝てしっかりと睡眠をとれるかしら!?!?
「リーリエ」
「きゃっ」
大混乱が脳内を襲い頭を抱えている私を他所に、私の身体を腕の中に収めた相手はゆるりと唇で三日月を作った。
ど、ど、ど、どうしましょう。男女のこういう情事に関しての経験値が皆無なせいで心の準備が一切できていない。
吐息が頬に掛かりそうなまでの至近距離にある陛下の顔は、絵画か飛び出してきたのかと思う程で、鼓動が私史上最も速い速度に到達する。
「リーリエ」
「あの…アスター様?失望させたくないので先に申し上げますが私は…その…お恥ずかしいのですがアスター様に満足して頂ける自信が…「ん…」」
目をグルグルとさせながら、どんどん近づいてくる皇帝陛下の顔に言い訳を並べている途中で、瞼を閉じた皇帝陛下がパタリと私の胸にもたれかかった。
「寝てる…」
やがてスヤスヤと寝息を立て始めた陛下に、全身から力が抜けていく。
「無防備な陛下を初めて見ましたわ」
絶対的な威圧感を纏っている陛下からは想像もつかない程に幼気な寝顔に、自然と頬が緩んでいく。
「やっぱり眠れそうにないわ」
陛下の広い部屋の大きなベッドの上、私の小さな嘆きは陛下の寝息に搔き消されていった。
第20話【完】