見事に手入れの行き届いている花々を一望できるテラスの席で、私と皇帝陛下が湯気を昇らせている紅茶と美味しそうなケーキや焼き菓子を囲んで座っている。
ゆっくり話がしたいからと皇帝陛下の部屋でのティータイムに誘われたけれど、個室に二人きりという状況に抵抗を覚えた私が咄嗟にテラスを提案した。
春の柔らかい陽射しが何とも心地良くてこれが自室ならばお昼寝でもしてしまいそうな所だが、生憎私の向かいには妖しくも艶やかな男が鎮座している。とても寛げる空気ではないし、リラックスなんてできやしない。
「俺が不在の間、良い子で待っていたか?」
「私は子供じゃないのですよ?お約束通り、ちゃんとこの宮殿で過ごしておりましたので皇帝陛下の心配には及びませんわ」
「この二週間、どんな風に過ごしていたんだ?」
「至って普通に過ごしておりました。お陰様でゆっくりと身体を休める事ができました」
本当はヴィオラに用意して貰った服で侍女になりすまして、宮殿内の情報収集に勤しんでいたのだけれど、それは勿論私だけの秘密だ。
ティーカップの縁を口許に運んで香りの高い紅茶を啜りながら正面にいる人間を一瞥すれば、全く納得のいっていない表情を浮かべている。
容赦なく突き刺さる疑惑を孕んだ視線に平静を装って、にっこりと微笑んだ。
まだ短い時間しかこの人と過ごした事はないけれど、やはり彼のエメラルドグリーンの双眸に囚われると何もかもを見透かされた気分になるから苦手意識を抱いてしまう。
嘘も変装も芝居も得意だし自信だってある。それがどんな相手でも揺らぐ事はなかったというのに、アスター・レオンハルト・バウムガルテンの前でだけは呆気なく崩壊してしまいそうになる。
「このタルトとっても美味しいですわ」
「だろうな、お前の豊かな表情を見ていれば手に取る様に心が読める」
「…そんなにじっと見ないで下さいませ、食べにくいですわ」
「二週間ぶりに愛しい妻の姿を見れたんだ、存分に堪能しても罰は当たらないだろう」
「か、揶揄わないで下さい」
頬杖を突き、フッと声を漏らして口角を持ち上げる皇帝陛下の表情や纏っている雰囲気が、二人きりになってからというものひたすらに甘い。
本当に何を考えているのかしら。結婚を申し出た意図も未だに掴めていないし、彼の言動が偽りなのか真実なのかすら全く読めない。
絶対に裏があるはずなのに、何かを企てているに決まっているのに、皇帝陛下には隙がまるでないせいで詮索すらできない。
『確かに酷く麗しいけれど、あそこまで人並み外れて美しいのに笑顔すら見せず、常に無表情だと怖いわよね』
『実際、国の利の為なら殺人も厭わないらしいじゃない。自分の父親と母親を殺せる様な人よ、死神という呼び名はまさに皇帝陛下の為にある様なものだわ』
『女性の影もなければ頑なに縁談は断っていたと聞いたのに、突然結婚すると言い出すなんてどういう風の吹き回しなのかしら』
この二週間、侍女となって得た皇帝陛下の情報はどれも、私がライヒ・トゥーム王国にいた頃と大差ない内容の物ばかりだった。
ただ、私の知る皇帝陛下はよく笑顔を見せるし、表情だって無表情とはとても言い難いまでにコロコロと変わる。いくら何でも耳に入れた情報と実物の彼とでは違う部分が多過ぎて、どの噂も信憑性に欠けるという判断に至った。
それよりも覚悟はしていたものの、宮殿内での私の印象が頗る悪い事の方が現時点では問題な気がしてきた。
『一体何者なのかしら、顔だけは皇帝陛下の隣に並んでも絵になる女だったけれど、あんな素性の分からない女が奥様になるなんて思わなかったわ』
『怪しいったらないわよね、絶対に何か良からぬ事を企んでいるに決まっているわ』
『皇帝陛下は聡明な方だと思っていたのに、何処から拾って来た様な女を妻に迎えるなんてがっかりよ』
ざっとこんな類の悪口が宮殿の各所では放たれていた。列挙するとキリがない程に、私に関する悪評がそこら中から聞こえてきた。
内情を調査する最中で判明したのは、私の専属の侍女などなりたい人間がおらず、一番の新人で仕事ができないという烙印を押されていたヴィオラが誰もがやりたがらない嫌な仕事を任される羽目になったという事だった。
得体の知れない皇帝陛下の妻への嫌がらせも含まれていたのでしょうね、ヴィオラの話題が上った際に洗濯をしながら「今頃きっと奥様は使えない侍女に腹を立てているわ。いい気味よね」そう言ってクスクスと笑っていた侍女の姿が脳裏を過る。
確かに私には何の後ろ盾もないし、ライヒ・トゥーム王国にいた頃にあった肩書も財産もない。宮殿内でそういう扱いをされていても仕方がないわ。だけど、心優しくて健気なヴィオラが陰で文句を言われ笑われている事だけは納得ができなかったし腹が立った。
だから私はヴィオラの為にも立派な妻になると心に決めたの。彼女を馬鹿にした事を侍女達が後悔する程に、何処に出しても恥ずかしくない妻になるわ。それが私がヴィオラにできる唯一の務めだと思うから。
「そういや、さっきフリーダーに聞いたがどうやらお前の専属の侍女に新人が就いているらしいな。何か不便していないか?もっと信頼のある侍女を新たに専属としても良いんだぞ」
「お気遣い感謝します。しかしながら、今の侍女とはとても気が合いますし私は彼女の仕事ぶりを気に入っておりますので、そのまま彼女が私の専属になってくれると嬉しいですわ」
「そうか、お前がそう望むのならそうしよう。それよりもリーリエ」
「はい?何でしょうか皇帝陛下」
突然声色を変えた相手に無意識に背筋が伸びる。首を横に倒して相手を見れば、私と皇帝陛下の視線が絡み合った。
失礼ながら皇帝陛下とのティータイムなんてただただ沈黙の重い時間になると勝手に想像していたけれど、自分でも驚く程に彼と普通に会話を愉しんでいる自分がいる。さっきから全く話題が途切れない。
美しい景色に美味しい紅茶とお菓子。ヴィオラ以外の人と話す事なく二週間を過ごしたせいなのかしら、相手は皇帝陛下だというのにこのティータイムを満喫してしまっている自分の図太さが恐くなるわ。
「一体いつまで堅苦しい呼び方をするつもりだ」
「へ?」
クリームと苺を刺したフォークを口に含む寸前、正面から伸びて来た手が私の顎を持ち上げた事によって私の口に入る前にポトンと音を立てて落ちた苺が皿に転がった。
「俺の名はアスターなのだが?」
「……」
「妻であるお前には皇帝陛下と呼ばれたくないな」
そ、それはつまり…もしかしなくても私に「アスター」と呼べと言っているのかしら!?!?
ゆるり。皇帝陛下の唇が悪戯に弧を描く。更に身体を前のめりにして麗しい顔を近づけるせいで、私はゴクリと生唾を呑み込んだ。
「どうした、呼んでくれないのか?」
「うっ…で、ですが失礼になったらいけませんわ…「皇帝である俺自らが呼んで欲しいと頼んでいる。これは皇帝命令だ」」
皇帝命令を使うなんて卑怯だわ!!!
視線を泳がせても皇帝陛下のお顔が余りにも近いせいで常に相手が視界に入る。
「早くしろ」
「ア、アスター皇帝陛下」
「皇帝陛下は不要だ」
「で、では…アスター様」
恐る恐る口を開いて彼の名を呼べば、私の見間違いかもしれないけれどエメラルドグリーンの瞳がキラリと宝石の様に輝いた気がした。
「もう一度言ってみろ」
「アスター様」
戸惑いながらも声を振り絞れば、相手が満足そうに笑みを浮かべる。その姿はまるで幼子の様に無邪気だった。
私の唇を撫でて手を離した彼の指先を、私の唇に付いていたらしいクリームが汚している。
「何だ、リーリエ」
それを何の躊躇いもなく舐めたアスター様は、テーブルを彩るどんなケーキや菓子よりも糖度が高かった。
第18話 【完】