あの冷徹で容赦がなく「死神」と謳われているアスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝と結婚する事になるなんて、もしかすると神様ですら予想外の展開かもしれない。
「それじゃあ詳しい話は二週間後だな」
「え?二週間後?」
「ああ、俺はこれから貧困問題が深刻化している地域の視察に行かなければならない。行って戻ってくるまでに二週間はかかる」
「その間私はどうすれば良いのですか?」
「好きにしろ。ライヒ・トゥーム王国から来て怒涛の日々を送っていただろうからゆっくり休むと良い。但し、正式に式を挙げた訳でも婚姻の契りを交わした訳でもないがお前は既に俺の妻だリーリエ。絶対にこの宮殿で生活しろ、他で寝泊まりしようなんて考えているなら許さない。それを守るのなら他は何をしても構わない」
当たり前だけれど、まだこの人の妻になったという実感も湧いていないというのに、簡潔に要件だけを述べた相手はこちらが返す言葉を探すよりも先に慌ただしく準備を整えて、視察する街に向けて出発してしまった。
数十分前にここに連れて来られたと思えば結婚する事になってしまったというだけでも頭と心の整理が追い付いていないのに、本当に独り宮殿に残されてしまって唖然としたのは言うまでもない。
因みに、フリーダーと呼ばれていた彼の専属の執事と思しき人間が再び部屋に入って来た際に彼が結婚する事になった旨を余りにもあっけらかんと言うもんだから、フリーダー様は目玉が飛び出るんじゃないかしらと心配になるまでに目を見開かせて、失神しそうになっていた。
そりゃあそうよね、誰が聞いてもそんな反応になるに決まっているわ。
「もう少し詳しく説明してください」と戸惑いながらも訴えるフリーダー様に対して国を揺るがす事にも関わらず「時間がある道中ですれば良い」と呑気な返事をした皇帝陛下は、取り乱しているフリーダー様を引き摺る様に宮殿を辞した。
あんな暴君に仕えなければならないなんて、きっと大変に違いないわ。まだ顔と名前しか知らない知らないフリーダー様に私は心底同情した。
見ず知らずの、それも入って来た時には軍服を身に纏い男に扮していたはずの人間が突然皇帝陛下と結婚するので今日から宮殿に住みますと言っても、誰も納得してくれる訳がない。
取り残された私を待ち受けていたのは、宮殿の中にいる人間からの好奇の視線と私に関するヒソヒソ話しのみだった。
怪訝に思われても仕方ないわ、だって自分で言うのも何だけれど私ってば相当怪しいんだもの。
「リーリエ様、おはようございます」
ふかふかの大き過ぎるベッドと私の為にと用意された広い部屋。窓から美しい外の景色をぼんやりと眺めているとドアをノックされる音が響き、背後から声が掛かって振り向いた。
そこには、急遽私の侍女を任される事になってしまった不運な少女が立っていた。ヴィオラ・グランジュ。それが彼女の名前だ。
「おはよう、ヴィオラ。今日も良い天気ね」
「はい。お花の多いこの国の晴れた日の景色は大変美しいです」
にっこりと花が綻ぶ様に笑みを咲かせる彼女は、つい二週間前に比べると口数も増えて表情も柔らかくなった。
最初は内気で無口で会話を成立させるのも大変だったのよね、緊張しいなのか私が声を掛ける度にしどろもどろになって軽いパニックを起こしていたからそれが落ち着くまで何度も背中を擦ったっけ。
「髪を梳いてもよろしいですか?」
「ええ、お願いしたいわ」
「アスター様は夕方頃にお戻りになられる様です」
「そうなのね、果てしなく長いと思っていたのに意外と二週間はあっという間だったわ。それもこれもヴィオラが私の話し相手になってくれていたおかげね」
「そんな、私は何もしておりません。寧ろ、リーリエ様にご迷惑をおかけしてばかりでした」
「何を言っているの?迷惑を掛けられただなんて思った事は一度もないわ。ヴィオラこそ、何処の馬の骨かも知らない女が急に皇帝陛下の妻になってその世話を任されるなんて複雑だったでしょう?」
「滅相もございません。最初こそは一番の新人で仕事ができない私がどうして任されたのかも分からなくて不安でいっぱいでしたが、リーリエ様の優しいお人柄のおかげで自分には合ってないかもと思っていた侍女という仕事も楽しくなってきました」
鏡越しに笑顔を向けながら、あっという間に私の髪を梳いて可愛らしく結い上げた彼女は驚く程に手先が器用だ。
結婚すると決まった初日から旦那が二週間も不在で、完全に放置される事になった時はどうなる事かと思ったけれど、私なりにやる事をやっていたら皇帝陛下が帰ってくる日を迎えている。
この二週間で、アスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝が結婚するというニュースはエーデル・クランツ王国中に瞬く間に広がった。
朝に準備して貰っている新聞記事にも大きくその話題が取り上げられていて、ここ一週間以上はずっとバウムガルテン皇帝陛下の結婚に関する記事が独占している。
こうなるのも当然なのよね、だってあの方は世界で一番大きいエーデル・クランツ王国の皇帝陛下なんですもの。成婚のニュースは既に他の国々にも伝わっているはずよね。新聞記事を読む限りではまだ相手が私だという事は判っていないらしいけれど、いずれは必ず世間に皇帝陛下の妻が私だと知られるわ。そうなれば必然的にレーヴェンの耳にも届くだろうし、ライヒ・トゥーム王国にいるヴァイセにも元婚約者のゲラーニエ殿下にも届く事になるわ。
嗚呼、想像しただけで頭が痛くなるわ。ゲラーニエ殿下は全くの他人だから良いものの他の二人にはちゃんと説明をしなくちゃいけないわね。
「そういえばヴィオラが用意してくれた侍女の服、とても役に立ってるわありがとう」
「お役に立てているのなら光栄です。ところでリーリエ様、侍女の服など何に使われているのですか?」
「ふふっ、情報収集よ」
悪戯っ子の様な笑みを湛える私の言葉が不思議な様で、ヴィオラは難しい顔をしながら首を横に捻っている。
「そんなことよりも、約束していたマフラーを編んだの。試着してみてくれる?」
「本当に編んで下さったのですか?」
「当然じゃない。まだ朝晩は冷えるからちゃんと温めなきゃ風邪を引いちゃうわ。ヴィオラに似合うと思った色で仕立てたの」
立ち上がってヴィオラの首に完成したばかりのそれを巻いてあげれば、彼女の頬が忽ち上気した。
「私がマフラーがないと言っただけなのにここまでして下さるなんて、リーリエ様には感謝してもしきれません。とっても可愛くて温かいです。こんな風に優しくして頂けたのは初めてで…その、心が擽ったいですね」
マフラーに口許を埋めて隠しているつもりなのかもしれないけれど、彼女の目元を見れば嬉々とした表情をしている事がありありと分かってこちらまで嬉しくなる。
趣味の編み物をしたくて必要な物を準備できるか尋ねた際に彼女が「マフラーも作れたりするのですか?なくて困っているので私も挑戦してみたいです」と言ってくれたのでここでの最初の編み物はヴィオラのマフラーにあっさりと決まったのだった。
「本当にありがとうございます、リーリエ様」
可憐な顔立ちのヴィオラには淡いピンク色のマフラーがよく似合っている。
ヴィオラったら何て可愛いのかしら。経緯はどうであれ彼女が私の侍女になってくれて本当に良かったわ。
不安しかないこの宮殿の生活で彼女だけが私の心を癒してくれている。
今日は皇帝陛下がお帰りになられるから情報収集はお休みね。彼が戻って来るらしい夕刻まで何をして過ごそうかしら…なんて、考えていたというのに。
「お帰りなさいませ、アスター様」
「ああ」
まさかのお昼前には私の夫になった男が宮殿に帰って来たのだった。
ちょっと待ってよ、夕刻に帰るという話じゃなかったかしら?急に宮殿が騒がしくなって忙しなく人々が動き始めたから何事かと思ったけれど、まさかこんなに早く戻って来るだなんて…―。
「お帰りなさいませ、皇帝陛下」
「二週間ぶりに見るお前は余計に愛らしいな」
「あ、ありがとうございます、恐縮ですわ」
「無事に旦那が帰って来たんだ、口付けの一つや二つくれても良いと思うが?」
「……な、何を仰いますの?人前ですわ」
「宮殿の者しかいないのだから問題ないだろう」
問題大ありですわ!!!自分がどれだけ破廉恥な事を言っているのか分かっていないのかしら!?!?
ニヒルで妖艶な笑みをぶら下げて困惑している私に詰め寄る皇帝陛下の姿に、出迎えに来ている使用人達が揃いも揃って顎が外れそうな程に口を開けて、目の前の光景が信じられないと顔に書いている。
彼の隣にいるフリーダー様も目を見開いて石化したのかしらと思うまでに硬直している。
「どうしたリーリエ、してくれないのか?」
「うっ…」
「ほら」
前も思ったけれどどうしてこんなに甘い雰囲気を垂れ流しているのかしら。私が勝手に抱いていた印象と違うから困るのよ。心臓に悪いもの。
絶対に私を揶揄って愉しんでいる相手と、私達に集中している視線、視線、視線。
しないという選択肢を断たれた私はどうにでもなれ精神で背伸びをして皇帝陛下の頬にそっと自分の唇を触れさせた。
「…し、しましたわ。改めて、お帰りなさいませ」
「本当はここにして欲しかったが…まぁ良い、今回は多めに見てやる。ただいま、リーリエ」
親指の腹で私の下唇をそっと撫でた後、私の手を取って手の甲に口付けをした皇帝陛下は、私の鼓動を高鳴らせるには十分な程に美しくて仕方がなかった。
第16話【完】