私の耳と脳味噌はいよいよ可笑しくなってしまったのかしら。目前で妖しい笑みを崩さないこの麗しい男は今私に何と言ったの?
そもそも、私が聴いていた皇帝像と実物の皇帝陛下とでは既に違う点が多くあるせいで戸惑いも拭えていない。
全く笑わない上に他人に関心もなく、実益の為ならば非道な手段も厭わない冷徹な人間であるという噂だったはずなのに、この目で見るアスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝陛下は厩舎にいる時から笑みばかり湛えている。
何を企んでいるのかしら。絶対に裏があるに違いないわ。
「失礼ですが、もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか」
「俺と婚姻の契りを交わし俺の后になれと言った」
「お断りいたします」
「何故だ」
「どういうお考えがおありなのかは存じませんが、私には皇帝陛下の后が務まる程の器がないからでございます」
「器なんて不要だし端から求めてもいないから断る理由にならん」
「しかし…「皇帝陛下直々のプロポーズを断っている自覚はあるのか?よっぽどの理由がないと許されないが?」」
低くなった相手の声色に肩が震えそうになるのをどうにか抑える。
横暴な発言だけれど、彼は何も間違った事は言っていない。相手はこの国の皇帝陛下だ。最高権力であり絶対なのだ。そんな相手から気まぐれと言えど求婚され、あっさりとそれを拒否するなんて普通に考えれば大問題よね。
いつの間にか相手の顔から笑みが消滅している。人並外れた妖艶な顔立ちをしている彼から笑顔が消えれば恐ろしく冷たい印象を受ける。実際、私を捕えているエメラルドグリーンの双眸から温度が感じられない。まるで氷の様だった。
相手が纏っている威圧感は迫力があり、少しでも油断をすると本能的に怯んでしまいそうだ。
どうすばこの縁談はなくなるのかしら。私の男装を唯一見破ったのだから下手な嘘が通用するとは思えないわ。その辺の人間なら騙せても、きっとこの男には見透かされてしまうに違いない。
「私の本名はリーリエ・フィーネ・タールベルクと申します。生まれも育ちも隣国のライヒ・トゥーム王国です」
短い時間で思案を繰り返した結果、自分の本当の素性と事情を明かす方が賢明だという判断に至った。
私が隣国で皇太子殿下から国外追放を命ぜられた人間だと知れば諦めがつくだろうと思った事が大きな理由だけど、身分を偽ったのは両親を殺した犯人を捜す為だと素直に話せば、情状酌量の余地があると思って貰えるかもしれないという僅かな希望もあったからだ。
何より、嘘に嘘を重ねて自らの罪を大きくするよりも、真実を話した方がこの男を説得できる可能性があると感じたのだ。
だから私は、強い覚悟を持って洗い浚い打ち明けた。レーヴェンにすら隠していたライヒ・トゥーム王国での私の身分も告白した。
タールベルク家の秘密だけは守ったけれど、それ以外は何もかもを話した。
「ですから私はお父様とお母様を殺した犯人を見つけ出す為に、いけないとは分かっていましたが男性だと偽って軍に籍を置いていたのです」
一切表情を変える事はなく頬杖を突いたまま話を聞いていた相手が、何を考えているのかもどんな感情を抱いているのかもやはりまるで分からない。
「それで?」
意を決して大きな賭けに出たつもりで話をしたというのに、相手が零した言葉は余りにも短かい物だった。
「あの、私の話を聞いておりましたか?」
「ああ、全てちゃんと聞いた。それで?」
「え?」
「それで、俺からのプロポーズを断る理由は何処にある?」
「な…大ありですわ。ライヒ・トゥーム王国の皇太子殿下から婚約破棄をされ、罰として国外追放と財産差し押さえをされた女ですのよ?爵位だって剥奪されたも同然で、隣国では罪人扱いされてる人間と皇帝陛下が結婚だなんて反対されますわ」
「成る程、それがお前が結婚を断る理由か?」
「ええ、それに私は両親を殺した犯人を捜さなければなりませんの。皇帝陛下の后になればそれができなくなってしまいますわ」
ここまで言えばきっと相手も引き下がるに決まっているわ。どうせプロポーズだって彼にとっては戯れというか、私を揶揄ったに過ぎないんだもの。わざわざ結婚を粘る理由なんてないはずよ。
内心で勝利を確信した刹那だった…。
「やはり何も断る理由になっていないな」
立ち上がった男が、確信していたはずの勝利を粉々に打ち砕いた。
「まず、隣国では罪人という話だが関係ない。ここはエーデル・クランツ王国だ、ライヒ・トゥーム王国では罪人でもここでは罪人ではない。侯爵令嬢だったのも寧ろ都合が良い、俺の后になるにあたっての教育を省けるからな。最後にお前の両親を殺したというその暗殺組織の捜索だが、それも俺の后になればその特権で軍だけでなく他の捜査機関からの情報を得る事ができる。皇后の肩書きを利用すれば、お前が直々に話を聞きたいと思った国民も信頼して口を開くだろう」
「で、ですが…「それに、軍も除隊になったというのに衣食住をすぐに確保できるのか?誰の協力があって軍に入隊できたのかは知らないが、俺はもうお前の存在を認識している。一人で生きていくというのなら皇帝の権力を使ってお前を雇わない様に全国民に圧力をかけるつもりだ」」
私の元へと近づいてくる男は真剣な面持ちのままだ。発言が嘘でも冗談でもない事は嫌という程に伝わってくる。
吸い込まれてしまいそうな相手の美しい瞳に映し出されている自分が、どんな表情をしているのか確認するのが恐い。
「俺からの結婚の申し出を断ればお前は罪に問われるだろうな。身分も性別も偽り軍に入隊した罪と、皇帝に嘘をついて騙した罪。それ等の罰が科せられている間、無論犯人探しなんてできない。再開できるのは十年先…もっと先になるかもしれないな」
「……」
「賢い人間ならどの選択をするのが一番良いのか分かるはずだ」
あっという間にその場の空気を相手に掌握されたのが分かった。ぐぅの音も出ないとはこの事かもしれないわ。
今度は相手が勝利を確信する番だった。ついさっきまでは上手く交渉できるという自信があったのに、いざこの男が開口した途端みるみる内に私の自信が破壊されていった。
立ち止まる気配がなく距離を詰める一方の相手にすかさず後退りをするけれど、ソファがあった事をすっかり忘れていて、膝の裏にソファの縁が当たった衝撃で姿勢が崩れて私の身体は柔らかいそれに沈んでしまった。
「決まったか?」
「どうして私なのですか?」
「お前に惚れたからだ」
何て明瞭な嘘なのかしら。そんなはずがないわ、何処にも惚れるような要素なんてないんだもの。
私を見下ろしているエメラルドグリーンの瞳をじっと見つめても、やっぱり隙のない彼の思惑は掴めない。
これは完全に彼が引き下がると甘い考えをした私の負けの様ね。これ以上抵抗らしい抵抗をできる程の材料がない。手持ちの札を最初で全て切ってしまったからだ。
「皇帝陛下が仰った通りもし私が皇后になった場合、その権限を使って犯人探しを継続しますわよ?」
「ああ、構わない。好きなだけ利用しろ」
「こんな女手に負えないと後悔しても知りませんわよ」
「どれだけ俺を困らせてくれるのか見物だな」
「私をすぐに返品するのも受け付けておりませんわ」
「一生する気はないから心配するな。他に言う事は?」
「……」
「気が済んだのなら改めて言う。リーリエ、俺と結婚して后になって欲しい」
目の前で跪いて手を差し出した彼に、ドキリと心臓が高鳴った。
不意打ちで「リーリエ」と呼ぶなんて反則だわ。
正直、ゲラーニエ殿下と婚約した時から誰かと恋に落ちて結婚する事は諦めていた。だから今更、好きでも無い人と結婚をする事に躊躇いはない。あの時はタールベルク家の為に婚約をした。今回は自分に都合が良いから結婚をする。ただそれだけの事だ。
「よろしくお願いいたします、旦那様」
私が差し出されていた手を取れば、アスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝陛下は私の手の甲に口付けを落として、息を吞む程に耽美な笑顔を咲かせて見せた。
両親も家も失い婚約破棄をされ、国外追放。
「お前に旦那様と呼ばれるのは悪くないな。寧ろそそる」
「な、何をいかがわしい想像をされているのですか?」
逃げた先の国で私は何故か「死神」と揶揄される冷徹と噂の皇帝陛下と結婚する事になりました。
「別に可愛いなと思っただけだが。そっちこそどんな厭らしい想像をしたんだ?」
「教えませんわ!揶揄わないで下さいませ!」
夫婦生活を平穏に送る自信は既にありません。
第15話【完】