僅かに呼吸が止まった。背中には冷たい汗が伝っているのが分かる。
今、この男は何て言ったの?
耳を疑う様な台詞に動悸が激しくなっていく。表情にこそ出さないものの、胸中では焦燥感が募っていく。
可笑しいわ。だって、私は今「オリーバー・タールベルク」としてここにいるんだもの。男装だって軍の誰にも見破られてはいないし、疑われた事すらない。つまりは、私の変装は完璧なはずなの。
それなのに、この男は今「ローゼ」という名で私を呼んだ。あの日、変装も何もしていなかった私が咄嗟に出した偽名で私を呼んだ。
第一、どうしてこの男がここにいるのかしら。馬の様子を見に来たと言っていたけれど、この厩舎に自分の馬がいるとなればこの男の位は相当に高い事になるわ。
何より、身に纏っている服が明らかに貴族階級以上のそれだ。正確な身分こそは不明だけれど、本能的に嫌な予感がして背中を伝う冷たい汗の量が増加する。
「自分の名はオリーバー・タールベルクと申します。見ての通り軍人です。失礼ですが、人違いではありませんか?」
ついさっきまで馬と触れ合って癒しすら感じていたのが嘘の様に、全身に緊張が走っている。こういう時に特殊な家業をしていたタールベルク家に生まれて良かったと心底思う。普通なら言動で
敬礼をして発言した私を黙ってじっと見ていた相手は、口許に小さな三日月をぶら下げてエメラルドグリーンの瞳が美しい眼を細めた。
「俺の目に狂いはないと思うが…そうか、人違いだったか。失礼な事を言ったな」
思いの外あっさりと引き下がった相手に拍子抜けしてしまう。しかし、安堵感を覚えたのも事実だった。
良かったわ、彼なりの悪戯か冗談だったのねきっと。
張り詰めていた緊張感が僅かに緩みそうになった刹那だった…―。
「同じ男で軍人ならば身体検査をしても問題ないな」
「へ?」
ニヒルな笑みを浮かべた相手に、思わず間抜けな声が口から零れ落ちた。
な、な、何を言っているのかしら!!!
質の悪い冗談であって欲しかったけれど、相手は笑みを崩さぬまま一歩ずつ迫り始めている。つられる様にして私も一歩ずつ後退りする。
「どうして逃げる?やましい事でもあるのか」
「いえ、今までずっと馬の世話をして随分と汚れていると思うので、その御手を汚すわけにはいかないなと…」
「構わん、動くな」
「ですが…「俺の意思一つでお前の首なんて簡単に飛ぶ。変に抵抗せず言う事を聞くのが利口だと思うが?」」
「……」
まるで脅しとも取れる台詞に足が止まる。私と目前のやけに美しい男以外には誰もない厩舎は酷く静かで、それが余計に緊張感を煽る。
「俺の意思一つでお前の首なんて簡単に飛ぶ」その発言は決して冗談ではないのだろう。それくらい、相手の瞳を見れば容易に分かる。
男の放った言葉が事実なのだとすれば、この男の身分は必然的に…―。
「早く身体を差し出せ。身体検査すると言っただろう」
「な、何故身体検査が必要なのでしょうか」
人並外れた優艶な容姿をしている相手に詰められると、それはそれは迫力がある。
私の背中はあと二歩も後退りすれば壁にぴたりとくっついてしまうだろう。それはもう逃げ場がない事を示唆している。
自分がどれだけ麗しい顔をしているのかを知らないのか、無遠慮にグイっと彫刻さながらな顔を近づけて私の顔を覗き込む男からふわりと広がる甘い香りが鼻腔を掠める。
相手の吐息が頬に掛かりそうなまでの距離で見る男の顔に、こんな状況にも関わらず見惚れてしまう。
睫毛が長いわ…お人形さんと言われても納得できてしまう程に美しい放物線を描いて上を向いている。エメラルドグリーンの瞳も宝石と並んでも遜色がなさそうなまでに澄んでいる。さっきからずっと笑みをぶら下げている唇も紅を乗せたみたいに色づきが良い。
見れば見る程に、その美しさに感嘆してしまう。けれど、今の私には歩く美術品と言っても過言ではない彼の顔をじっくりと魅入る余裕なんてない。
「勘だ。お前の挙動が怪しいと感じたから身体検査をする。何もやましい事がなければ平気なはずだ」
「…そうですね」
「では、その腕を解け」
何て厄介な勘なのかしら。無駄に鋭過ぎやしない!?!?
横暴で強引な相手に胸中で叫び散らかす事はできても、自分の身がどうなるか分からったもんじゃないから無論声に出す事なんてできやしない。
低くて甘い声に命令され、反抗する訳にもいかず渋々交差させていた自らの腕を解いた。
私のその行動に口角を持ち上げた相手の手が真っ直ぐ伸びて来た。首を触られ、肩へと滑る。両腕を這い、再び鎖骨の辺りまで戻った手がやがて降下し始める。数センチで膨らみを誤魔化している胸へと到達しそうになった所で…。
「どうした、まだ途中だ」
咄嗟に相手の手首を掴んで、動きを制してしまっていた。
嗚呼、折角ここまで来たのにな。レーヴェンがいっぱい力を貸してくれたおかげで、軍に入隊して生活できていたのに…。あんなにも私が入隊したことを喜んでくれたのに…レーヴェンごめんなさい、どうやら私はもう軍に居られなくなるみたいだわ。
「すみ…せん。すみません、噓をつきました。貴方が仰った様に私は女です。男と偽って軍に入隊しておりました。なので……これ以上身体を触られるのは困ります」
悔しい。順調に前に進めていたと思っていただけに、こんなにも呆気なく自分の男装が見破られてそれを認めざるを得ない状況に晒されたのが悔しくて堪らないわ。
そのまま胸を触らせたとして、私が男装している事を一目見て分かった様な男が抑え固めている胸の膨らみに気づかないはずがない。それに、男性とのそういう経験がない私にとって胸を触られるという行為は未知であり恐怖だった。
私が自白を述べてから僅かに沈黙が走った。その沈黙が重く感じたのは、自分の置かれた立場と状況が芳しくないせいだろう。
「漸く認めたな」
俯いていた私に降りかかったのは、怒気を含んでいる訳でもなくかと言って呆れている訳でもない声だった。
「顔をあげろ」
震える手に気づかれないようにぎゅっと強く握って拳を作る。恐る恐る視界を持ち上げた先にあったのは柔らかな笑みだけだった。
「こうでもしないと認めないと思ったから少々手荒な真似をしたが、端からこれ以上触る気はなかった。怖がらせたのならすまない」
「へ?」
「それにしても、随分と逃げ隠れるのが上手だったなローゼ。お前を探し出すのに苦労した。まさか男として軍に入隊していたとは…つくづく興味深い女だ」
すぐにでも連行されて牢屋に閉じ込められると思っていたのに、私の予想を裏切って愉快そうに話を始める相手の意図が全く掴めない。
「さっさと掃除の道具を置け。お前は今この瞬間を持って軍を除隊だ、俺と共に来い」
「ちょっ…ちょっと待って下さい、余りにも急です」
「だからどうした?お前にとっては急だろうが、俺はずっとこの時を待っていた」
「な、何て横暴なの」
「全部口に出てるぞ」
「…っっ」
「それに、お前に拒否権はない」
急展開の連続に頭の処理が追い付かず酷く困惑している私の頬に手を添えた相手は、柔らかく眼を細めて爆弾を投下した。
「皇帝命令だからな」
その爆弾に被弾した私は、もう目を見開く事しかできなかった。
何となく、薄々、もしかするとその可能性があるんじゃないかしらとは思っていた。思っていたけれど、まさか本当にそうだなんて…ああそうなのねとすぐに納得できる訳がないわ。
どうやら今、私の目前に佇んでいるこの男こそが、エーデル・クランツ王国の皇帝で人々から恐れられ、「死神」という異名も持つアスター・レオンハルト・バウムガルテン皇帝その人らしい。
この瞬間に初めてこの男の正体を知り、その衝撃の大きさに私の思考回路は完全に停止したのだった。
第13話【完】