エーデル・クランツ王国軍に入隊してから早くも一ヶ月が過ぎた。無事に入隊試験の成績を25位で通過できたらしく、一人部屋を与えて貰い悠々自適な生活ができている。
提供される食事も全て美味しいし、一人部屋の特権として浴室とトイレも部屋に備え付けられているから性別を偽る生活に今のところ苦しさは感じていない。
私が入隊試験を受ける頃にはレーヴェンの休暇も明けてしまったので、合格の報告は手紙で知らせたけれど本当に喜んでくれた。こうして特別な苦労をせずに食事と寝床と仕事にありつけられているのは他の誰でもないレーヴェンのおかげだ。
直接お礼を言いたい気持ちはあるものの、この一ヶ月は新人訓練の毎日で残念ながらレーヴェンに会える機会はなかった。
早く配属先が決まって欲しいわね、軍の仕事を通して犯人の手掛かりも集めたいわ。
「タールベルク、ちょっと来い」
「はい」
「新人訓練だが、お前はもう基礎的な体力が身に付いていると判断した。暫くは馬の世話の方に回って欲しい」
「馬の世話ですか」
「ああ、皇帝陛下専用の馬だ丁重に扱う様に。馬術の経験が豊富だと入隊試験の資料で読んだが、馬の世話の方はどうだ?」
「基本的な知識ならございます」
「十分だ。軍隊内で風邪が流行しているらしくて欠員が多くてな、すまんが馬の世話の方に回ってくれるか?」
「了解しました」
突然名前を呼ばれたので何事かと思ったけれど、内容を聞いて安堵した。身分も性別も偽っているといつか露呈してしまうのではないかと内心ヒヤヒヤしてしまう。
新人訓練が行われている敷地を後にして、説明された通りの道順で皇帝陛下の馬が管理されている
「本当に何処へ行ってもお花が綺麗ね」
こうして宮殿の敷地内を歩くのは入隊式以来だけれど、式典が催された広場だけでなく至る所に花壇が設けられていて、季節の花が美しく綻んでいる。
幼い頃にお父様から聞いた話では、ここエーデル・クランツ王国は昔からずっと四季を通して咲き乱れる花が有名という事だった。様々な品種の花が咲くおかげで、花のオイルや香水の生産が世界一で、どんな田舎町でも必ずと言って良い程に息を呑むまでの花畑があるエーデル・クランツ王国は別名、花の帝国と呼ばれているらしい。
そんな御伽噺に出てくる様な国が存在するのかしら。お父様の話を聞きながらにわかには信じられないと感じていた当時の私に教えてあげたいわ。
私の知る世界が狭いだけで、本当に御伽噺みたいな国が存在しているのよって。そして貴方はそんな御伽噺の様な国に男として仕えているのよ…なんて言ったら、きっと驚愕して意識を飛ばしちゃうかもしれないわね。
ただ、初めてエーデル・クランツ王国についての話を聞いた時と現在とでは大きく違った事がある。
それは…―。
「この国の皇帝陛下が変わって死神と呼ばれる様になったこと」
自分の口から落ちた言葉が花々を揺らす風に吹かれて消えていく。真偽の程は定かではないものの、レーヴェンもこの国の皇帝陛下は誰にも心を許さないと言っていた。
ライヒ・トゥーム王国の国民はこの国の皇帝陛下を恐れていたし、良い噂はまず耳にしたことがない。そして何より、新しい皇帝陛下になってからエーデル・クランツ王国は国土が二倍以上になっている。そのどれもが、戦争で得た領土だ。
「一体どんな方なのかしら」
ここまで悪名高い人物がどんな人間性なのか純粋に気になるわ。だって、あのゲラーニエ皇太子殿下でさえ悪名高くはなかったんだもの。
でもまぁ、一兵士の私が皇帝陛下に会う事なんてこの先もないわね。
花々に見惚れていたらあっという間に立派な厩舎に到着した。中の覗けば人影があったのですぐに敬礼をした。
「初めまして、オリーバー・タールベルクと申します。馬の世話の命を受け参りましたよろしくお願いします」
「やっと人手が増えて助かるよ。この頃俺一人で全然手が回らなくて困っていたところだ、よろしく。馬の毛並みを整えた経験は?」
「あります」
「それじゃあ最初にそれを頼むよ。俺は井戸から水を汲んで餌を貰ってくる」
「了解しました」
私の顔を見るやいなや安堵の表情を浮かべた兵士が、毛並みを整える道具を差し出した。
どうやら本当に欠員が多いらしい。心配になる程に兵士の顔色は悪かった。この規模の厩舎の手入れと馬の世話を一人で行うのは大変に違いない。
「もし余裕があったら掃除も頼む」
「畏まりました」
毛並みの手入れに早速取り掛かった私を見届けてから、名前も知らない先輩兵士は桶を片手に出て行ってしまった。
「これでよし」
綺麗に整った毛並みを見て小さく笑みを湛えた。
タールベルク家では自分の所有する馬は自分で世話をする事が当たり前だった。世話をすることで信頼関係が深まるし、単独で任務に出た際に馬の世話ができなければ話にならなかったからだ。
ざっと五十頭いる馬の毛並みの手入れが終わった所で、すぐに厩舎の清掃に移る。
皇帝陛下の馬とは聞いていたが、ここまで数が多いと恐らく皇帝陛下の側近の馬も含まれているのだろう。
「馬の様子を見に来たが驚いた」
黙々と作業をしていた私の手は、人の気配によってぴたりと止まった。厩舎内に短く響いた低くて甘い声に驚いたのは私の方だ。
この声、知っているわ。
ゆっくりと顔をあげた先に佇んでいたのは、恐ろしく美しい容姿をした男だった。忘れもしない、反皇帝派の人間がテロを起こしたレーヴェンの生まれ故郷で出会った男だ。
どうしてここにこの男がいるの?
太陽の光の下で見ると、美しさがより一層際立っていてつい魅入ってしまいそうになる。
一歩だけ厩舎の中に足を踏み入れた男は、片方の口角だけを器用に吊り上げて開口した。
「どうして女であるはずのお前がここにいる、ローゼ」
全てを見透かす様なエメラルドグリーンの双眸に射抜かれた私の心臓は、大きく音を立てて跳ねた。
第12話【完】