瞼を持ち上げれば、視界には見知らぬ天井が広がっていた。泥の中に沈む様に深い眠りに落ちていたらしい。ベッドから身体を起こして窓を開ければ、途端に凍える空気が吹き込んで来て思わず肩を竦めた。
燦燦と照り付けている太陽が街を優しく包み込んでいる。昨晩に起こった凄惨な事件がまるでなかったかの様だ。
「おはよう、リーリエ。よく眠れたかい?」
「おはようレーヴェン、お陰様でぐっすり眠れたわ」
「それは良かった。おいで、食事の準備ができているよ」
「ありがとう」
相手に促されるがままに椅子に座り、まだ眠気の残る目を擦る私の前にパンとスープとチキンのソテーが乗った皿を出してくれたレーヴェンが向かいに腰かけた。
「いただきます」
フーフーと冷ましスプーンでゆっくりと口に含んだスープは温かくて、冷たい身体に染み渡っていく。昨日も思ったけれど、レーヴェンは本当に料理が上手だ。
「美味しい」
「いっぱいあるから遠慮しないでね」
こんなに甘やかされて良いのかしら。もっと過酷で険しい旅路になると覚悟していただけに、寝床も食事も提供して貰えている現状に妙な不安を覚えてしまう。
昨日、入国してすぐにレーヴェンに出逢えていなかったら、今頃私は冗談抜きで野宿していたかもしれないもの。寒さに震えながら一睡もできずに朝を迎えていた可能性だって大いにあるわ。
そう考えるとレーヴェンに出逢えた事は本当に奇跡的な事なのよね。もしかすると、神様からの些細なプレゼントなのかもしれないわ。
「ねぇ、リーリエ」
「なぁに」
「あのさ」
名前を呼んでくれた相手へ視線を伸ばせば、彼は視線を気まずそうに泳がせながら難しい表情を浮かべている。
どうかしたのかしら。口を開こうとしては閉ざすを繰り返しているレーヴェンが不思議で首をコテンと横に折る。
視線が何往復泳いだだろうか。突然意を決した顔を見せた彼は双眸を真っ直ぐ私に向けて問いかけた。
「リーリエ、どうして君があんなにも強かったのか理由を聞いても良いかい?」
言いづらそうにしながら放ったレーヴェンのそれに、恐らく私はキョトンとした顔をしているだろう。
何だ、そんな事なのね。もっと深刻で恐ろしい話があるのかと思っていたわ。
余りにもレーヴェンが深刻そうだったからつい身構えていたけれど、想像していたよりずっと何てことのない内容で身体から力が抜けていく。
パンを千切っていた手を止めた私は小さく頷いて、レーヴェンに自分の素性を話し始めた。
両親を失ったこと。家も失ったこと。そして私から両親と家を奪った犯人は暗殺組織の可能性が高いこと。犯人を探し出す為にこの国に来たこと…―。
私がライヒ・トゥーム王国の侯爵令嬢だという事実や、ゲラーニエ皇太子殿下の婚約者だった事はややこしくなりそうだから伏せておいた。それに、この国では過去の称号や肩書きなんて関係ないものね。
「そうだったんだね。ごめん、辛い事を思い出させてしまったね…まさか君がこんなにも沢山の事を背負っているだなんて思わなくて無神経に質問してしまった」
「ううん、平気よ。知らなくて当然だもの。それでね、私の父は軍隊の中でも特殊部隊の教育を施していた人だったから、私も幼い頃から自分の身は自分で守れるようにと叩き込まれたの」
無論、言うまでもなくタールベルク家の秘密の顔もしっかりと伏せた。
大丈夫、嘘は言ってないもの。隠す事が多くて色々と端折ってしまっているけれど、決してレーヴェンを欺いている訳ではないわ。
「な、なるほど…リーリエが強い理由がよく分かったよ。何だか恥ずかしいよ、俺が守るとか大見得を切ったのに、俺は全然無力だった」
「そんな事ないわ。躊躇なく私を守ると言ってくれて嬉しかったもの」
「…っっ」
「レーヴェン、体調でも悪いの?顔が赤いわ」
「だ、大丈夫。少しスープが熱かっただけだよ」
その割にはスープではなく顔に向かって手で風を仰いでいる。しかも、紅潮した顔が元に戻るどころか、首まで赤く染まっている気がした。
「そ、それよりリーリエは、これからどうするつもりなの?犯人を探し出す策はあるの?」
「それがまだしっかりと計画を立てていなくて…昨日思いついたままにこの国に来たからお金もないの。だからひとまず、都会の方の街で働いてお金を得ながら情報収集をしなくちゃいけないわ」
いつまでもレーヴェンのお世話になる訳にもいかないし、自分一人でも生きていける様にちゃんと仕事をしてお金を得なくちゃいけないわ。
それにしても、どうやって仕事って貰うのかしら。タールベルク家で生まれ育ったせいで、一般的な職探しの仕方がさっぱり分からない。
「そっか。それならさ、リーリエ」
怪しまれない様にレーヴェンに訊けないものかと思案していると、頬杖を突いているレーヴェンが優しく目を細めた。
「エーデル・クランツ王国軍の入隊試験を受けてみるのはどうかな?」
その一言が、穏やかな食卓に溶けていった。
第10話【完】