目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第8話 逃亡


 人間かしら。いや、人間なのだろうけれど、本当に同じ人間なのかと疑わしくなってしまう。小説や絵本で登場する人間とは比べ物にならない美しさを有する吸血鬼と言われた方が納得してしまうわ。


 こんなにも恐ろしく麗しい人間が存在しているだなんて俄かには信じられない。私ってば疲弊が蓄積して幻でも見えているの?



 暗がりでも、相手が異常なまでに端麗な容姿をしているのがありありと分かる。感情の分からない冷徹な瞳が余計に人間味をなくしている。


 ただ、ほんの一瞬だけ僅かに目を見開かせた様に見えた。しかし、私の気のせいかもしれない。



「こんな事している場合じゃなかったわ!ぶつかってしまって申し訳ございません、急いでいるので失礼します」

「待て」



 不意に我に返り、一刻も早くここを立ち去らねばならない現実を思い出して焦った私だったけれど、横から伸びて来た手によって手首を強く捕らわれ、動きを制されてしまった。


 甘くて色気を孕んだ声が、人のいない暗い路地に溶けて消える。



「お前、何者だ」



 短く紡がれた台詞には、疑念と怪訝が混じっていた。


 そうよね、誰が見ても私を不審がるに違いないもの。女性が返り血塗れでテロ行為を受けている路地裏にいるなんて普通ではない。その自覚があるからこそ、投げられた問い掛けにも心は乱れない。



「何者って…ただの市民です。逃げ遅れて隠れていたのです。目の前で反皇帝派の人間が殺されて身体に血が飛んでしまって、恐ろしくて仕方ありません」



 わざと声を震わせて心底怯えている芝居を打つ。表情管理だって怠らない。何者にでもなれる様にと訓練を受けてきた。非力な一般人に成り済ます事くらい私にとっては非常に容易い。


 突き刺さる視線は酷く冷徹だった。光が少なくてよく見えないけれど、相手の双眸に映るとまるで全てを見透かされている様な感覚に陥る。



 そっちこそ一体何者なのよ。纏っている殺気も冷たい空気も明らかに普通の人間ではない。皇帝軍の将校以上の身分でないと納得できないわ。


 表情をピクリとも動かさないから余計に人形みたいで不気味さが増している。将校以上だとすれば異常に若い気もする。視覚情報だけに頼るのなら、この方の年齢は二十歳前後だろう。



 相手が口を閉ざしたまま数十秒が過ぎた。その数十秒は永遠に感じる程に長かった。まるでじっくりと私が何者なのかを観察する様に冷たい視線を這わせた後「そうか、随分と怖い思いをさせてしまったな」そう言った彼は、微かに表情を険しくさせた。



「いえ、皇帝軍が来て下さったおかげで助かりました。教会に妹を先に避難させておりますので、失礼させて頂きます」

「ああ、最後にお前の名を聞きたい」

「…ローゼと申します」

「そうか。ローゼ、反皇帝派の人間は殲滅したと教会に避難している人々に伝えておいてくれ」

「畏まりました」



 頷いて一礼をした私は、相手の顔をもう一度見る事なく教会目掛けて夜の冷たい街を駆け出した。



「はぁ…はぁ…あの人、やっぱり普通の人間じゃあないわ」



 こんなの初めてだもの。全身に緊張が張り詰めて仕方がなかった。私の自信を一瞬にして粉々に破壊してしまいそうな冷徹な瞳が酷く印象的だった。感情も全く読み取れなかったし、少しも隙が無かった。



「それにしても、なんて艶麗な人なのかしら」



 この先の私の人生で彼以上に美しい人間には出逢わないという確信を持てるくらいには、記憶に残る容姿をしていた。


 たった数十秒。交わした言葉もほんの僅か。それでも、彼の事を忘れる事はないだろう。けれど、絶対に二度は会いたくないと思う人間だった。



「国から逃亡して一日目だというのに、波乱に満ち過ぎね。流石に疲れちゃったわ」



 視界の先に現れた小さい灯りが点いている教会へと向かう足を進めたまま、私は幸先不安な現状に苦笑を滲ませた。



 そう、私は何も知らなかった。自らの人生の歯車が更に大きく狂おうとしている事に気付くこともないまま、教会の扉を潜ったのだった。




第8話【完】






コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?