二時間夜道を歩いて、漸く国境に辿り着いた。時刻は夜の十一時を回ろうとしている。あと少し時間が掛かっていたら、目的地を自分で決める事もできずに強制的に追放されていたのだと思うとゾッとする。
色々な事が起こり過ぎて無意識に気を張っていたのかもしれない。見慣れてもいない隣国の国境を見て安堵してしまう自分がいる。
「入国を許可します」
「ありがとうございます」
「それにしてもお嬢ちゃん、こんな夜中に一人で入国だなんて大丈夫かい?」
「え?」
「この辺はね、数年前にエーデル・クランツ王国の統治下になったばかりで、反皇帝派がテロ行為をよく起こすから危険なんだよ」
「そうなんですか」
「しかも丁度今、バウムガルテン皇帝陛下が視察にいらっしゃっているらしくて、余計に反皇帝派がピリピリしているんだ。早い所、宿に行って休むんだよ。いつテロが起きても可笑しくないからね」
「ありがとうございます」
入国審査をしてくれた優しそうな男性から入国許可証を受け取った私は、いよいよエーデル・クランツ王国に人生で初めて足を踏み入れた。
今私が足を踏み入れたこの辺の地域は、私が幼い頃は違う国で、記憶には残っていないけれどよくお父様と一緒に訪れていたらしい。
夜風がすっかり冷え切って頬を刺す様に吹き付ける。身支度らしい身支度をする時間もなかったから、身に着けている動きにくいドレスは長距離を歩いた影響ですっかり裾が土で汚れてしまっている。
「遂に来てしまったわ。本当に国を出ちゃったのね、私」
雰囲気がガラリと変わった景色に漸く自分が国外追放をされたのだという実感が湧く。
さっき、入国審査の方はああ言ってくれていたけれど、着の身着のままここに逃げて来た私は今日の宿なんて当然決まっていない。明日すらあるかも分からない。
「どうしましょう…とりあえず、情報を集めないと」
ポケットから五芒星と三日月の紋章が入っているピアスを取り出して口の端を硬く結ぶ。
『そんな無茶な』
お父様とお母様を殺した犯人を見つけると息巻いた私に対してヴァイセが放った言葉が頭を過る。誰もが私の考えを無謀だと言うと思う。ただの侯爵令嬢に何ができるのだと首を捻るだろう。
自分が普通の侯爵令嬢なら私だってそんな発想は抱かなかったわ。けれど、私には誰にも打ち明けていない秘密があるの。幼馴染のヴァイセにだって、婚約者だったゲラーニエ殿下にだって知られていない秘密があるの。
「国王公認の諜報団を教育、育成、指揮するのが本当のタールベルク家の家業だなんて、ヴァイセが聞いても信じてくれないかもしれないわね」
口から零れた独り言が、冷たい風に搔き消されていく。
そう、タールベルク家の表の顔はライヒ・トゥーム王国の軍事産業を独占する侯爵家だけれど、裏の顔はライヒ・トゥーム王国に不利益となる人物や組織の抹殺。及びライヒ・トゥーム王国の繁栄の為の諜報活動を生業としている。
そんな特殊な家に生を受けた私は、幼少期より諜報員になる為の訓練を積んできた。だからこそ、お父様とお母様を殺した犯人を捜索する決断ができたのだ。
「ライヒ・トゥーム王国内に生息しているテロ組織や反王国組織は全て頭に入っている私でも、この紋章に心当たりがない…やはり、違う国の暗殺組織だと考えるのが妥当よね」
全焼したタールベルクの屋敷へ赴いて私が自ら押収したこのピアスは、間違いなく何かしらの組織の紋章だ。
多くの暗殺組織が、依頼を受けて仕事を遂行した際に、組織が実行したという証拠を依頼主に知らせる為に現場に様々な方法で紋章を残す。今回、このピアスが警察に証拠として押収されなかったのは、タールベルク家には多くの宝石や耳飾りがあったからだ。
それ等に混じってこのピアスが置かれており、このピアスがタールベルク家が保有している物ではないと分かるのは私と執事をしていたアーノルドくらいだった。だからこそ、警察もこれが犯人に繋がる貴重な証拠だと気づかなかったのだ。
「個人の犯行だったとしても、組織の犯行だったとしても、絶対に私がこの手で片付けてみせるわ」
私がエーデル・クランツ王国を逃亡先として選んだのは、この国の情報をタールベルク家が殆ど有していなかったからだ。他の国々に拠点がある危険組織はある程度把握していたのだけれど、このエーデル・クランツ王国に拠点を置いている組織の情報は余り得られていなかった。
だから私は、この国にこの紋章を掲げている組織がいると踏んだのだ。エーデル・クランツ王国は軍事力は桁違いに高い国だ。戦争でも負けなしで、情報管理まで徹底されている。まさに鉄壁の国。そんな国に拠点を置いている組織を探るには、自ら潜入する以外の術が見つからなかった。
「生きる方法も考えなくちゃならないわ。このままだと犯人探しの前に餓死してしまいそうだもの」
自分が置かれているかなりハードな状況に眉が八の字になってしまう。けれど、心の何処かで興奮している自分がいるのは、きっと全ての柵から解き放たれて、こういう冒険をしてみたいと幼い頃から夢見ていたからだ。
まさかこんな形で叶うとは思っていなかったけれど、それでも侯爵令嬢という肩書きを持たず、皇太子殿下の婚約者という務めを果たす必要もなくなった今、敷かれたレールばかりだと感じていた人生に無限の可能性を感じてしまう。
高揚感からなのか、こんなに歩いたというのに足取りも軽い。花が咲き乱れている道を、満天の星が照らしてくれている。その光景は、酷く美しい。
「君、女性が一人でこんな所で何をしているの?」
宛てもなく彷徨っていると、突然背中に声を掛けられて肩が揺れた。咄嗟に視線を滑らせた先にいたのは…。
「この辺は、治安が安定していなくて危険なんだよ」
心配そうな面持ちでこちらを見ている爽やかな青年だった。
これが、私とレーヴェンの出会いだった。
第5話【完】