「ゲラーニエ…殿下?」
厭らしい声が響く部屋に、か細い己の声があっという間に溶けた。ドアノブに掛けたままの指先が自分の直面している現実のせいか、温度を失って冷たくなっていく。
これは一体どういう事なのか説明して欲しい。露わになっている女性のたわわな胸に目のやり場に困ってしまう。
私の声を拾ったのか、それとも気配に気づいたのか、彼らの動きが停止してベッドから寄越された四つの視線が身体に突き刺さった。それと同時に、殿下に隠れて死角になっていた女性の顔が漸く私の目に触れた。
「ベルモンド令嬢…」
見覚えしかない可憐な顔には、妖しい笑みが貼り付けられている。ロベリア・フランカ・ベルモンドそれがベッドの上で私の婚約者に抱かれている彼女の名だ。
吃驚してうまく言葉が出ない私を他所に「あら、見られちゃいましたわ」と余裕たっぷりの声色で吐いた彼女が、クスクスと肩を揺らしている。
「ゲラーニエ殿下これは一体…「リーリエ、ノックもせずに勝手に人の部屋に入るとはどういう事だ」」
やっと声が出たのも束の間、綺麗な顔を顰めて軽蔑した様に私を見るゲラーニエ殿下の言葉に遮られてしまった。
ちょっと待って。分からないわ、何故私が軽蔑された目を向けらているのかしら。私は軽蔑される様な事なんて何もやっていない…寧ろ、今誰よりも軽蔑されるべき事をしているのは殿下の方だというのに…。
「聞こえていらっしゃらなかったのなら申し訳ございません。ですが、ノックはきちんと致しました。いつもはすぐにお顔を見せて下さる殿下の返答がなかったので、体調不良で伏せているのかと心配になって入室したのです」
「ハッ、醜い言い訳だな」
こちらの説明を鼻で笑って軽くあしらうゲラーニエ殿下に、思わず眉間に皺が寄る。乱雑に脱ぎ捨てられたシャツの袖に腕を通してベッドから降りた殿下は、いつもとは違う冷たい瞳で私を捉えている。
男女が数秒前まで熱く交わっていたせいなのか、室内は若干気温が高い気がする。頬に纏わりつく様なこの温度が実に不愉快だ。
「さて、次はどんな言い訳を並べるつもりだ?」
「はい?」
歩み寄って私と対峙する形になった相手が片方の口角を吊り上げた。にも関わらず、表情も目も笑ってはおらずやけに不気味だ。
先ほどからやけに攻撃的な言葉ばかりを並べる殿下に違和感を覚えて困惑する私を見て、相変わらずベルモンド令嬢は愉しそうにしているのが引っ掛かる。
「心配する僕の訪問は断っておきながら、シェルマンとは随分と仲良く戯れていたらしいじゃないか」
「何のことですか」
「惚けるのか?」
「惚けるも何も、心当たりがありません」
「嘘をつくな!ロベリアがシェルマンの侍女から話は聞いてる!僕という婚約者がありながら、貴様は淫らにもシェルマンを誘惑したらしいな!?」
「お待ち下さい、私がヴァイセを誘惑するなんてそんな…「僕以外の男をそう親し気に呼ぶな!!!」」
こんなにも憤っている殿下を見るのは初めてだった。怒りで冷静さを欠いている相手に何を申しても焼け石に水だろう。しかし、身に覚えのない疑惑を掛けられている手前私だって黙ってはいられない。
きっと…否、絶対にベルモンド令嬢の仕業だわ。私と殿下の婚約にずっと不服そうだったし、彼女は昔からゲラーニエ殿下を慕っていたもの。
「それに加えてリーリエ、お前はロベリアにも僕の見ていない所で下らないちょっかいを掛けて困らせたり、ロベリアに聞こえる様に陰口を叩いたりと品性の欠片もない恥ずべき行為を繰り返していたらしいな」
「なっ、そんなはずありません。私は一度たりともそんなこと…「酷いですわリーリエ様。私、あんなに傷付きましたのに、お忘れだなんて」」
ああもう、二人揃って私の言葉を遮ってばかり。ちゃんと最後まで話す事すら許されないのかしら。
いつの間に服を着たのか、ドレスを纏ったベルモンド令嬢がゲラーニエ殿下の背中からひょっこりと可憐な顔を覗かせてわざとらしく被害者の様な表情を見せている。
油断していたわ。どうやら私は完全にベルモンド令嬢に嵌められてしまったようね。
ベルモンド令嬢には警戒していたつもりだったけれど、タールベルク家が消失し、お父様やお母様を亡くした悲しみに動揺していたせいで、ここのところは彼女を注視する事もできていなかった。
まさかこんな形で追い詰められるとは思ってもみなかったわ。ゲラーニエ殿下も殿下ね。根拠も証拠もない幼稚な嘘だというのに、ベルモンド令嬢の証言のみで信じ切ってこんなにも憤慨しているんだもの。元々、賢い方ではなかったけれど、ここまでとは思わなかったわ。
「リーリエ、貴様には失望した」
「私も、リーリエ様がそんなお人だったなんてショックですわ。ずっと優しくて美人でだからこそゲラーニエ殿下との婚約者に選ばれたと思っていましたのに」
もう何を言っても無駄。そんな雰囲気が流れている。私がヴァイセを誘惑して、陰でベルモンド令嬢に嫌がらせをしていたからベルモンド令嬢とこういう情事をしていた。ゲラーニエ殿下はそう言いたいのだろうか。まるで仕返しだと言わんばかりに殿下の口角が吊り上がっている。
違うと主張しても殿下は聞く耳も持ってはくれないし、殿下の怒りを煽る様にベルモンド令嬢は次から次へと嘘を並べている。
余りにも安易な罠だけれど、きっとこの状況を見ると誰もが私を悪者だと思うのだろう。
「リーリエ」
「何でしょうか」
わなわなと震えている殿下の怒りは当分は治まりそうにない。小さく返事をした私に対して、ゲラーニエ殿下は躊躇うことなく開口した。
「本日付けで、リーリエ・フィーネ・タールベルクとの婚約を破棄する」
そうして私は、家も、両親も、婚約者も失った。
第3話【完】