「いかなる時も凛として、強くあれ」これは、生前お父様がよく仰っていた言葉だ。耳に
けれど、皮肉なことに今が一番この言葉に奮い立たされている。落ち込んでるだけでは何も始まらない。私にはやるべき事がある。そう思うとどれだけ重い身体でも動くから不思議だ。
「リーリエ、正気か?」
「ええ、ずっと正気よ」
「犯人を見つけ出すなんて、何の証拠もないのにどうやって探すつもりだ?」
「分からないわ」
「分からないって…」
ベッドから降りてドレッサーの前で腰まで伸びた淡い藤色の髪に櫛を通す。鏡越しに「いくらなんでも無茶だ」と訴えるヴァイセは、怪訝な表情で私を見ていた。
きっと、一気に色々な物を失った私が可笑しくなってしまったとでも思っているのだろう。いつだって両親よりも心配性な幼馴染みに苦笑が漏れる。
「ヴァイセ、ごめんなさい。着替えをしたいから退室してくれる?」
「何処に行くつもりだ?」
「ゲラーニエ殿下の所よ」
彼の名前が出た途端、あからさまにヴァイセの表情が引き攣った。本音を隠し切る人間しかいない社交界で生きているというのに、ヴァイセは昔から感情をよく顔に出す。出すというより、漏れ出ているという表現の方が正しいのかもしれない。
それに、ヴァイセが嫌悪感を滲ませる気持ちもとてもよく理解できる。
「婚約者がこんなにも大変な状況にいるのに、一度も顔を出さない人間の所に行くのか?」
「ふふっ、私からこちらへの訪問はお断りしたの。心配を掛けるだけだし、ゲラーニエ殿下がいらしたらシェルマン家の方も嫌でも緊張してしまうでしょう?これ以上迷惑を掛けたくなかったの」
「そんなの…俺は迷惑だとは思わないってついさっき言ったばかりだろ」
「ヴァイセならそう言ってくれるのも分かってるわ、ありがとう。けれど、私が嫌なの」
「はぁ、全くお前は…」
背後から伸びて来た手に頭を撫でられる。そのまま梳いたばかりの髪に指を絡めて撫でたヴァイセは、困った様に笑った。
「頼むから、本当にどうしようもなく苦しい時は甘えろよ」
心地良い声が鼓膜を掠める。私は鏡から視線を逸らして、美しい幼馴染の方へと身体を反転させた。
本当に綺麗な顔。一緒に育ってきたと言っても過言ではないけれど、どれだけ時を重ねてもヴァイセの端麗さには慣れそうにないわ。
「うん、いつもありがとうヴァイセ」
「ああ、それじゃあ出ていくからゆっくり着替えろ」
背中を向けた相手が部屋を辞するまで見送った後、すぐさま私は部屋着様のワンピースを脱ぎ捨てた。刹那、左の胸元に浮いている独特な痣に目が留まった。
「あれ?また濃くなってる気がする」
左胸に咲いているアーリスの花によく似た痣。物心ついた時からあるそれは、私が四つになる歳から急に浮かび上がったとお母様が教えてくれた。
痛くもなければ痒くもないけれど、普通、こんな形の痣なんて存在するのかしら。刺青を入れた訳でもないから、痣で間違いはないと思うのだけど、複雑なアーリスの形をした痣だなんて、不思議で仕方がないわ。
「いけない、早くゲラーニエ殿下の所へ行かなくちゃ」
指先で自らの痣に触れていた私は、当初の目的を思い出し慌ててドレスに腕を通して身支度を急いだ。
私が生まれ育ったここ、ライヒ・トゥーム王国は、小さいながらも豊かな自然に恵まれたおかげで自給自足率が100%を達成している極めて珍しい国だ。美しい水と栄養豊富な土壌で育つ野菜や果物や穀物は他国からの需要も高く、酪農も盛んで、農作物と乳製品の輸出がこの国を支える財源となっている。
そんなライヒ・トゥーム王国の現皇帝の息子がゲラーニエ・ライマー・ハイドリヒ皇太子殿下だ。そしてゲラーニエ殿下こそ、私の婚約者なのだ。
「ねぇ、聞いた?あのエーデル・クランツ王国がまた新しくある国を支配下に置いたらしいわ」
「ええ、知ってる。全く、死神がいる国は野蛮よね」
「手当たり次第に軍事力を行使して次々と近隣諸国を征服しているなんて、恐ろしいったらありゃしない」
井戸端会議をしている夫人が街の至る所で見受けられるこの国は実に平和だ。ほんの数日前まではタールベルク家の火災事件で持ち切りだったというのに、噂話はあっという間に移ろうらしい。
良かった、世間の注目が他に行ってくれた方が精神的にも負担がない。
太陽が西の方へ傾いて、辺りが橙色で染まり始める中、気分転換の散歩を兼ねてゲラーニエ殿下の元へと進んでいた私の足が、大きく立派に聳え立つ屋敷の門の前で止まった。
「リーリエ様、ようこそいらっしゃいました」
「ご機嫌よう」
門番の人間と偶然近くにいた屋敷の人間に気づいて貰い、難なくハイドリヒのお屋敷に通された私は、真っ直ぐに婚約者であるゲラーニエ殿下のお部屋へ到着した。
怒涛の日々を送っていたせいで一週間半振り位にお顔を拝見することになる。婚約者同士だというのに二週間以上逢瀬をしていないとなると、周囲がどんな噂を立てるか分からないのでわざわざ重い足を引き擦って今日はここを訪れたという訳だ。
通された際に、殿下は自室にいると伺ったにも関わらずノックをしても反応がない。
聞こえなかったのかしら。そう思って再びノックしてみるけれどやはり音沙汰がない。もしかしたら具合でも悪いのかもしれないわ。途端に心配が募ってゆっくりドアノブに手を掛けて扉を押し開けた。
重厚な扉がギイイと小さく音を立てて開いていく。ゲラーニエ殿下が好んでいる甘い香水の香りがすぐに漂って私の鼻腔を突いた刹那だった。
「あっ…ぁあっ…ゲラーニエ様、もっと…」
「え…」
双眸が捕らえた光景に、私は目を疑った。
ベッドの上で重なり合っている男と女。どちらも揃って服が大胆に
そしてベッドで女性を組み敷いて、女性と熱い口付けを交わしている人物は紛れもなく……―。
私の婚約者である、ゲラーニエ殿下だった。
第2話【完】