◇◇三話◇◇
「これはチャンスかもしれないな」
政務の打ち合わせを終え。
立ち上がり際、次男のパトリッケスはそう呟いた。
「はっ?」と、たった一人の聞き役。兵士長ヤズムートが聞き返す。
ヤズムートは優秀な人材として、領主親子の側近を務める人物だ。
主に、その方針を部下達に実行させる役割りを担っている。
謙虚な態度から地味な存在だが。鍛錬に身が引き締まっており。
年齢不詳で若くも見える。
まだ若い兄弟達にとっては、その点でも親しみやすく。
経験豊富な彼は頼もしい存在である。
「跡継ぎを決めるという件ですよ。
父上はどうやら長男に限定するつもりは無いらしい」
そう言って口角をあげる次男を見つめ。ヤズムートは押し黙っていた。
閉口する側近に対し、「どうかしましたか?」とパトリッケスが訊ねる。
「いえ、次男様は野心家であられるのだなと」
苦労人の兵士長はどうやら、穏やかではない雰囲気を嗅ぎとっていた。
――次男はその気である。
長男に譲る気など毛頭なく。
この機に乗じて、権力を手中に収めるつもりなのだ。
「野心とは少し違うかもしれませんね。
ただ、あの長兄を旗手として立てるのは些か恥ずかしいという話で。
貴方もそうは思いませんか?」
そのように。パトリッケスは長男への不満を微塵も隠そうとしなかった。
しかし、ヤズムートはそうはいかない。
「長男様は見目も頼もしく、堂々とされていて見栄えはするかと」
言葉を選んで回答する兵士長を、パトリッケスは鼻で笑う。
「中身がスカスカではね」
それはこの、『後継者争い』の激化を予感させた。
「では、打ち合わせどおりに。あとは任せます」
「かしこまりました。順次、抜かりなく」
業務の実行を兵士長へと託し。パトリッケスは執務室を後にした。
彼らの治める一帯は比較的平和だ。
国境が近いとはいえ隣国は大人しく。
首都から西は忙しないらしいが。
こちら東側では長らく小競り合いすら起きていない。
山賊の活動こそ活発ではあるが。
することと言えば、その対策くらいのものだった。
パトリッケスの一日は夜に思案し、朝に伝達し、報告待ちの昼に休憩する。
打ち合わせを終えた彼は。
空いた時間を利用し、図書館へと向かう。
「――またですか」
図書館に到着したパトリッケスは。
居眠り中の司書をみて、深いため息をついた。
ここはパトリッケスが自ら投資し、蔵書を管理している図書館だ。
しかし、人の出入りはほとんどない。
一人しかいない老齢の職員が微睡んでしまうのも無理からぬことか。
「ラインナップが悪いのだろうか……」
それは彼にとっても悩み所であった。
知識の価値を重んじる彼は。
図書館が民衆の意識の底上げに貢献することを期待しているのだ。
何度目かのため息をつく。
努力が成果に結びつかないことに辟易とする。
残念ではあるが、この静寂に居心地の良さを感じているのも確かだ。
そう納得し、有意義に過ごすべきと。
司書を放置して図書館を奥へと進んだ。
そこで、彼は驚く。
利用者が一人。背筋を正し、読書に耽っていた。
さすがに、それだけで驚くほどのゴースト図書館ではなかったが。
たった一人の利用者は。その日、彼が手に取る予定だった本を読んでいたのだ。
実に珍しい。こんなことは初めてだった。
他の本を読むか。しかし、それは続き物の三巻。
どうにもその気にはなれない。
しばらく待つことにしよう。
そう考えたが、パトリッケスはふいに興味を引かれる。
その女性が熟読しているのが、『戦術書』であることを思い出したからだ。
「失礼します、お嬢さん」
つい、声をかけていた。
「は、はい。はい、なんでしょう?」
よほど読書に集中していたのだろう。
その女性は本を取り落としかけ、慌てて取り繕っていた。
「失礼ですが、その本をチョイスした理由を聞かせて頂けますか?」
たまたま居合わせた一人が、大量の蔵書から同じ本を選択した。
偶然の理由が気になる。
「ええと、その。面白そうだなと思って」
理由としては極めてシンプルだ。
それゆえに説得力に欠けていた。
とても年頃の娘が嬉々として読むような本ではなかったし。
何より、活用する機会が無いことから時間の無駄とすら思える。
パトリッケスは更なる追求を続ける。
「面白そう。戦術書が? もしや貴女は軍略家かなにかですか?」
とてもそうは見えない。
大量殺戮の作戦を立案するよりは、菓子でも焼いている方が似合う女性だ。
興味を持つ理由が無い。いや、想像できなかった。
「恥ずかしながら、ただの小市民ですわ。騎士様」
この都市で騎士といえば領主親子を指す言葉だ。
珍しいことではないが、彼女はパトリッケスを認識していた。
「では、貴女には無用なものでしょう」
嫌味のつもりは無かった。
素朴な疑問を口にしただけ。
しかし、彼女にはそうは伝わらなかった様子で。
「あっ、もしかして。こちらをお求めでしたか!?
すみません、独占してしまって。わたしよりも、はるかに入り用ですのに!」
と、本を彼に差し出した。
権力を笠に着て、本を取りあげた。
そんなつもりは毛頭ないが。立場を鑑みれば、誤解を招いても仕方がない。
「いや、違います! 違くはないのですが。声を掛けたのは、その。純粋な興味で!」
パトリッケスは慌てて取り繕った。
火のないところにも煙はたってしまうもので。
身分のある彼に対し、根も葉もない悪評はつねに飛び交っている。
気にしていても仕方ないと。
普段ならば開き直って気にも止めないところだ。
――しかし、パトリッケスは童貞である。
プライベートな空間で。
面と向かって女性から誤解をされては戸惑ってしまう。
「すみません。無粋でした。どうか、読書を続けてください……」
どうして良いか分からずに。
この場を立ち去ってしまおう。そう考えた。
そこに彼女が投げかける。
「おもしろさに優劣なんて無いんですよ」
それは、彼女の『面白いから』に疑問を持った彼への返答だった。
彼が立ち止まったのを確認して。彼女は続ける。
「例えば、この図書館。この町の素晴らしい財産です。
しかし、利用しない人にとっては直接的には無用でしょう。
近所の酒場の方に価値を感じる方も多数でしょうね。
同時に、お酒の苦手なわたしにとって酒場はさほど価値のないものです」
誰かの宝は誰かの石ころ。
「そのように。世の中のあらゆることは無価値と定めることができます。
命も、金銭的価値も、芸術的価値も。
人には、あらゆるものを無価値にしてしまう権利があるのです」
そこまで聴いて、パトリッケスは結論を口にする。
「僕たちは同様に、逆の権利も持っているのですね。
あらゆるものに、価値を付与する権利を」
その言葉を聞いた彼女の表情が色めきたつ。
「そう、その通りです。何を好きになっても構わない。
大輪の華よりも、一輪の花を愛でて良いですし。
完成品を賛美しても。未完成品を愛でても良いのです。
神の子よりも、我が子を愛して良いのですよ。
なので、この戦術書は。わたしにとっては吟遊詩人の語る英雄譚のように面白いです」
何にだって面白みがある。それに気付けたなら。
必要かどうかは関係ない。
気付いて尊ぶ。それが幸福なんだと、彼女は語る。
「僕は、なんて愚かな質問をしてしまったんだろう。
こんな当たり前のことを失念して」
偉大な芸術家の作品を前にした時。
感動のあまり足を止める自分もいれば。
連れの女性が「もう飽きた。出よう」と言う場合もある。
どちらが正しいでもない。
価値とは、一定では無いのだから。
何が面白いかは、自分次第だ。
「わたしも少し驚いています。理解を得られたのは初めてなんです。
冷ややかな視線を向けられるのを怖がっていたので、こうして話すのは久しぶりです」
小賢しいことを言ってしまい。
男性に怒鳴られてしまうことも度々あったらしい。
パトリックは慣れているが、彼等の父親に限らず。
意見されることに耐えられない者は多い。
「なるほど……」
よく発信する娘だなと。パトリッケスは思った。
それ故に意見の衝突など起こるかもしれないけれど。
その刺激はきっと、自分にとっても有意義に違いない。
「僕は領主マルコライスの次男パトリッケス。
よろしければ、名前を教えて頂けませんか?」
「ティータと申します」
「ではティータ。急いでなければ少し話し相手になって欲しいのですが」
「かまいませんけれど。わたしが、お役に立てるかどうか……」
パトリッケスは彼女の横に腰を掛けた。
さて、何を話そうか。
ちょうど二巻まで読了しているこの本の感想でも語り合おうか。
思案している横顔に視線を感じ。
パトリックは「何か?」と訊ねた。
「なんだか浮かない顔をしていますね」
ティータから表情の乏しさを指摘される。
少し考え始めると、彼は神妙な表情になりがちだった。
「そうですか? 今日はむしろ気分が良いほうですが……」
しかし、気苦労が多いのもたしか。
ため息の数は増え、一日のほとんどを眉間にしわを寄せて過ごしている。
「楽しみましょう!
楽しいかどうかは、本人にその気があるかどうかなんです。
だから、楽しんだ方が得です」
ティータはそう言って彼を励ました。
◇四話、候補3・リアンナ