爆発が起こした混乱を利用して囲いを突破、ジキとロッコは激減した追撃をしりぞけながら地下水路へと逃げ込んだ。
絶え間ない戦闘、幾度の死線を掻い潜り、二人は奇跡的に城壁のそとへと逃げおおせることができた。
樹海の夜は明け、密集した枝葉の傘のしたですら陽光が地上にあざやかな緑を照らし出している。
二人は転がるようにして樹海に飲み込まれると、いつの間にか追っ手は掛からなくなっていた。
ジキはまともに歩くだけの余力も無い、一歩、一歩、小さなロッコにもたれて引き摺られるように前進した。
広大な樹海を二分し王都の地下水路を支える大河、それに沿って進めばいつかは集落に辿り着けるかもしれない。
国土にも匹敵する広大な樹海は、外の世界を知らない二人にとって手探りの暗闇と大差がなかった。
この秘境に人の王国があったように樹海には多様な共同体が存在する、その中で現在の最大派閥となるのがオーク族であり、それ以外の種族の存在を二人は知らない。
どちらに進めば安住の地があるのか、人の治める集落が本当に存在するのか、存在したとして味方なのかも定かではない。
「……連れ出しておいて、悪いな」
ジキは助け出した少女に介助されていることを詫びた。
ロッコは「だいじょうぶ……ッ!」と言って不安定な足場で彼の重量を支えた。
言葉とは裏腹に非力な子供が屈強な戦士を背負って進むのは過酷だった、百メートルすら途方もない距離に感じられる。
「あっ!?」
膝への負担が限界をむかえたロッコが転倒した。
転げ落ちたジキの容体を確認しながら、「ごめんなさい! ごめんなさい!」と謝罪を繰り返す。
所詮は子供の体力で大人を担いで進むのは無理がある、このペースでは樹海の脱出に何日かかるかわからない。
応急処置めいたものを施しはしたが傷は塞がらない、熱も下がらない、もはやジキに体力は残っていなかった。
「……少し、休もう」
ジキの提案で適当な木の幹に背を預ける。
ロッコはすぐ横に膝を着いて彼の様子を伺っていた。
ジキはロッコの表情を観察する。
懐かしい、姉を最後に見たときと同じ年頃、同じ色の頭髪、同じ色の瞳、はじめて会ったときにはなかった意志の輝きを灯している。
ジキは「いい顔になったな」と言って、フッと笑った。
言葉の意味もわからずロッコは脂汗に濡れるジキの笑顔に唇を嚙み締めた。
「……怪我は?」
少女の表情が曇っているのを察してジキがたずねた。
ロッコは胸の前で握った右拳を左手で包みながら不調を訴える。
「わからない、です。でも、くるしい……」
日々の苦痛をやわげるため鈍感で居続けたロッコにとって、他者の身を案じるのははじめてのことだった。
感情が引き起こす心身の反応に戸惑う。
「胸が破裂しそう……!」
それは異常事態だった。
無傷であるにも関わらず肉体的苦痛を受けたとき、反射として流れ出る液体が眼からこぼれ落ちている。
だから自分のカラダはどこか壊れているのだと認識できた。
真剣に異常を訴えるロッコ、力を振り絞り、重い腕を持ち上げてジキはその頭を優しく撫でた。
「いいんだ、おまえはようやく悪夢から覚めた」
もう家畜なんかじゃない、人としての尊厳を取り戻した。
ロッコは戸惑う、正常だということはこんなにも苦しくて辛いものなのかと、抑え込めない胸の痛みに見悶えた。
「歩けるか?」
「はい!」
ジキの問いかけに対してロッコは力強く答えた。
ふたたび担いで進むものだと覚悟していたがしかし、ジキは腰をあげる様子がない。
「なら、使いを頼まれてくれ。コイツを大切にしてくれって、ジジイの遺言なんだ」
ジキはそう言って野良長に託された剣をロッコに押し付けた。
「え……?」
想像していなかった指示にロッコは困惑した。
ジキは簡潔に伝える。
「ここからは、おまえ一人で行くんだ」
幼い少女がたった一人でこの過酷な環境を生き延びられるか、過酷であろうことは目に見えている。
けれど他に道はない。
一度は家畜に戻ろうとしたがそれを拒絶した、彼女はもう立派な野良だ。
そしてジキは自分の命が明日までもたないことを確信していた。
「イヤだッ!!」
ロッコは叫ぶ。
「そんなのはイヤだッ!!」
同胞たちが食品加工される姿をいくど目の当たりにしても動かなかった感情が激しく暴れまわっていた。
「もう面倒は見れない、聞き分けろ……」
「そんなんじゃない! そうじゃないけど、なん……わからない! この気持ちを伝える言葉を知らないんですよ!」
はじめて出会ったとき彼の姿とその技に圧倒されて感じた感情、その形容詞をいまも探し続けている。
「重いだろうが杖くらいにはなる。もし、生き延びることができたら、金にでも換えてくれ」
ジキはロッコを突き放す。
「イヤです! いっしょに来るか、あなたはそう言ったんです! だから一人では行きません!」
言葉にできないものは態度で示す他にない、ロッコは意地になって縋りついた。
「泣くなよ、そんな顔をしてほしくて連れ出したわけじゃないんだ……」
もはやそれを振り払うだけの力も残っていない。
ロッコは我が身かわいさに駄々をこねているわけじゃない、そのことは顔を見ればわかる。
なぜ、彼女がこんなにも懐いてしまったのかジキには理解不能だった。
仲間たちを見殺しにするという十字架を背負って生きられるほど、最強の人鬼は強くなかった。
ジキはただ後悔という荷を下ろしてしまいたかっただけ、姉を救えなかった過去に対する贖罪の代替え行為として助けたにすぎない。
「……強がりを言って済まなかったな。気が済むまでそこにいてくれ、そして気が済んだら先に進めよ」
その瞳は指向性を失い虚空を眺めていた。
「──冷えるな……、やけに眠い……」
ジキはそう言ってロッコの見守るまえで瞼を閉じた。
こうして野良とオークの戦争は終結した──。
陽がてっぺんに差し掛かった頃、ヨキが九百と九十を数えたところで力尽き野良たちは全滅した。
人鬼があたえた損害は四千頭、百万頭いるオーク族にとっては誤差でしかなくその繁殖力ですぐにでも補充できるだろう。
それゆえ同族の死を悼むことより野良たちの死体を吊るし勝利に酔いしれることが優先された。
他種族からの侵略行為に怒る感覚はあったが、共食いを文化とするオーク族に同族の死を悼む価値観はない。
誰が死んでも痛くない、自らの命がある限り、縄張りを奪われない限り、どんな被害も軽微だった。
一方、即座に日常を取り戻していく城下と対照的に王宮は異様な状況だった。
一部隊が騒動鎮圧の報告に戻って来たが出迎えがない。
王宮に残っていたのは精鋭中の精鋭、最強の怪物たちがことごとく全滅している。
死骸の道をたどった先でオーク兵はその光景を目の当たりにする。
そこにはこの惨状を作った野良の死体がひとつ、その老人が野良の頭目だと知るよしもないが侵入者はそのたった一人だ。
そしてあろうことか群れのボスであるオークキング、豚の王も相打ちであるかのように無残な死体と化していた。
玉座の間に二つの死体──。
豚の王は引きずり下ろされて這い蹲り、野良オサはカラになった玉座に向かって膝を着いた姿で息絶えている。
まるで在りし日の主君に忠誠を誓う騎士のように清廉とした姿、その時点で野良オサは無傷のままであった。
翌々朝──。
ロッコはジキの傍らに寄り添い続け、彼が二度と目を覚まさないことをゆっくりと理解した。
恩人の最後を看取り、しばし途方に暮れる。
期限が来れば食品に加工されることを宿命づけられた二足羊、その光景を受け入れてきたロッコは生き延びるということを知らない。
どこかに行きたい訳でも、なにかになりたい訳でも、なにかを験したい訳でもない。
想像したこともないし『未来』なんて言葉は知らない。
「ああ、そうだ……」
ふと、地面に置いた剣に視線を落とす。
なにもないなら言われたことをすればいい、ロッコは剣を拾い上げて立ち上がる。
その重量を腕に感じ取ると、ジキ達がそれを羽のように振るっていたことに感嘆する。
すこしずつ自覚していく、あのとき野良たちに憧れた瞬間から家畜は人になりたかった。
彼女は彼みたいになりたかった。
そして一歩を踏みだした。
剣を胸に抱え、まだ見ぬ未来へと歩き出す。
そして十三年の年月が経過する──。